エピローグ 何故世界は世界として続いていくのか
目を開けると、何の変哲もない七姉妹高校の廊下があった。ぽつんとその真ん中で、統は身を起こした。同時に、目の前で赤い色が動くのが目に入る。
「戻ってきた、みたいだね」
昴の声がして、統は心底から安堵を覚えた。
「俺たちの世界まで、元に戻るかと思ってた」
元々別たれていたが合一した世界。それも今回の願いによって鎖が引き起こした現象の一つだった。
「ずっと前にこうなっていたから、今更鎖が停止したところで、ってことかな。ほら、野辺山さんのとこの天文台に落ちてた残骸だって、無かったことにはなってないし。宇宙人は消えたけど」
統が言うと、昴はそっか、と頷いてから、
「でも、いいのかな? 私たち、こんなに願いの恩恵を受けてしまって。願いの恩恵を否定する側にいるのに」
「願いを否定するためには、肯定することからも逃れられない、と思うよ。逆説的だけど。皆、安直な願望を否定しつつ肯定して生きている」
野辺山せちも、七姉妹メロペも、大人雲雀も、ドッペルたちも、皆そうだったように。
「多くが叶わない世界に相対するために願い、願いの価値を守るために多くが叶わない世界に相対する。御子も普通の人も関係なく、多分皆、そうしてる」
「統、なんだか偉そうなことを言うね」
くすくすと笑って、昴が立ち上がる。
「でも、いいか。もう、私と同じこの街の、調伏の御子さんだもんね。ちょっとはカッコつけといたほうがいいかも」
統も笑って立ち上がる。
「でもまあ今は」
と、振り返る。飛び出してきた教室から、ざわめきが聞こえていた。世界の重なりの体験、白昼夢のようなものに皆が一度落ちたのだろうか。元に戻った今、心配すべきは――
「どうやって戻ろうね、統」
二人して飛び出してきてさ、とやや恥ずかしそうに頬を掻く真似をする昴に、統は笑みを浮かべたまま嘆息した。
全く、世界はまだまだ、どうにもできない困難ばかりなのだな、と。
*
二人の御子となり、また調伏の日々が始まる――ということとなったわけだが、それからしばらく、何も起こらず平和な日々が続いていた。学業に行事にとそれはそれで色々大変な日常を送っていると、ある休日の朝、統に昴と雲雀から家に来てほしいと連絡があった。早い時間から何だろうと思いながら七沢家に辿り着いてみると、食事会の時に中に上がったあの二人の自宅の玄関が開いており、昴と雲雀が入ってすぐのスペースで二人してしゃがみ込んでいた。
「どうしたの?」
声をかけると、二人ともぱっと顔を上げて、ぐいと統の手を引いて、
「これ、見て」
と床に置かれた小さな段ボール箱を見せた。
びゃー、と、甲高いが濁った鳴き声が、中から響いていた。
「ああ……これ」
箱の中には薄くタオルが敷かれ、その上に一匹、小さな猫が転がっていた。生まれて間もない、というほどではない、少し育った子猫、だろうか。真っ黒く、模様らしい模様はない。のだが――
「夜中、鳴き声がして。うちの敷地に置かれてたの。箱ごと。とりあえず、今父さんが病院連れてく準備してくれてるんだけど……」
昴がやや戸惑ったような声で言う。戸惑いの理由は、統にも分かった。というか、見えていた。箱の中の猫は、左前脚と尾の先だけが、白かった。しかも小さくともわかる、美猫だった。今は、雲雀があれこれと忙しく世話を焼いている。
全く持って、完全に、見覚えがある。
統の脳裏に、この猫と出会った記憶が流れる。そもそも最初に昴に出会ったのは、神出鬼没の時空猫とあだ名される猫に導かれてのことだった。別の世界に迷い込んだ時に、そこから連れ出すかのように姿を現したのもあの猫のゾロアスターだった。
「……猫に鎖が結びつくことって、あるのかな」
と、そんな言葉が出た。意味を理解したのか、昴はまさかともしやの混ざった顔で、
「だとしたらさ、時空猫ってあだ名、すごい適切だったのかもね……」
時空とは、時間と空間のことである。左前脚と尾の先だけが白い黒猫、ゾロアスターが、街のどこにでも現れるだけではなく、時間のどこにでも現れていたのなら。
いつも毛並みが良く飼い猫らしいとされていたゾロアスター。
「猫は三年の恩を三日で忘れる、って言うけど、そんなことないって証明になる、のかな?」
統はあのゾロアスターよりもずっと小さな箱の中のそいつを見やった。そういえば時間パッチワークの街で先導してくれたのもこいつだっただろうか――。
「もし、飼うことになったらさ」
もしと言いつつも、昴の声には決まりきった事実を述べるような確信の色があった。
「統もちょくちょく来てよ。可愛がりにさ」
「そりゃ、うん、来るよ」
頷くと、昴はぱっと笑みを浮かべて、手を差し出してきた。
「じゃあさ、これからも、よろしくね。相棒」
握り返す。
指先で体温が混ざり、仄かな熱がそこから新しく生まれてくるように感じて、統はそのことに心地よさを感じながら、よろしく、と返した。




