どこのわたしたちが願ったのか ドッペルたちの特異点 8
「俺たちは、元々別々の宇宙にいたんだ」
統は、足元の屋上のコンクリを踏みしめて答えを口にしていた。
今回の異変の肝は、『どこの』ドッペルたちが願ったのか、ということだと理解していた。
統は多くの統と重なり、そして昴は多くの昴と重なり、彼らと彼女らの意識を知ることで疑問は解れていった。答えが降り注ぐように、湧き上がるように、二人の内に生じていた。無数の自分たちから流れ込んだ心の断片が、抱えていた疑問と結びついて昇華する。
「彼らや彼女らと同じ。いつかは、一人で行き詰まる宇宙に。だが、皆の――大勢の似た者同士の自分たちが願ったことで、可能性宇宙の垣根を超えて鎖が超常現象を起こした」
統が言うと、まるで歌を継ぐように、昴が後を続けた。
「一つ一つの宇宙の鎖の欠片が多数の世界の欠片同士で結びついて、それほどの大規模な超常的怪異を可能とした。そして、二つの宇宙が一つになった――『私と統が上手く行く宇宙のモデルケース』として」
統は以前昴と交わした会話を思い出していた。統と昴、二人にとってお互いの存在は、あまりにぴったりで、都合がいいのではないかという。あつらえたように、自分の求める何かを持った相手だと感じていた。
ある意味でそれは当然だった。「二人が上手く行く」宇宙の実現こそが必要だったのだから。鎖が見えて願いに鋭敏な感覚を持ったはじめと、鎖を持ち御子として調伏に挑み続けている昴、という二つの可能性こそが最良の組み合わせだったのだ。無数の宇宙からお互いにとって最良の相手がいる宇宙同士が選ばれてこれぞという組み合わせで接続されたのだ。
「たった一人しか持てないはずのマスター権限……俺が鎖を見ることができたのは、『世界に一人しかいない』はずの能力を持っていたのは、そもそも元々が二つの世界だったから、か……」
自覚して、統は自身の中に宿る力を意識した。プレアデスの鎖のマスター権限。誰にも見ることのできないはずの超次元存在である鎖を感知して、干渉できる力。昴のように調伏で集めた鎖の欠片こそ持たないものの、権限自体は持っていた。だから最初の調伏の時、昴の手に自らの手を重ね、影響を与えることができていた。
「つくづく、とんでもないね、鎖の力は」
大勢の自分たちと自分たちの世界の断片を目に映して、昴が絞り出すように言った。
今や、二人の周囲には無数の世界が集っていた。上手く行く可能性を見るために。自分たちが上手く行く可能性があるのならば、それはどういうものか、一目確認するために。
多数の可能性宇宙が一点に集約したこの場はもはや、可能性が濃縮され凝縮され、同時に各世界の鎖もまた一緒に集まった、可能性と万能力がたった一つの世界に集まった場所となっていた。多くの可能性が集い、何でもできる鎖の力が正に何でもできるほどに集中した特異点となっていた。
「これは、もうどうしようも、ないよ」
決定的に何かが零れるように。破断するように。
昴が、声を震わせていた。
「鎖の力は、想像してたよりずっととんでもない。ここまでのことを可能とするなら、もう、七姉妹市で収まる話でもない。宇宙の分岐の垣根すら、超えてしまった。こんなことまで可能なら、もう、それを宿す人間も、それを止められる人間も、ただの人間じゃいられない。一人の御子がどうこうできる話じゃない。私は神様じゃない。神がかった力を宿している資格もないし、神がかった力を勝手に消してしまう資格もない」
世界を本当に変えられる力は、世界の内に生きる人間が宿せば、人間を人間足らしめる限界をあっさり破壊する。
「世界は、上手く行く私たちを見に集まってきている。可能性を見るために集まってきている。未来には無限の可能性があるのかもしれない。でも同時にそれは、無限の不可能性があるということでもある。ここはどちらなのかな。どちらでもあるのかな……」
昴は統に向き直り、手を伸ばして彼の制服の胸の辺りを掴んだ。夏服のシャツに、昴の白い指が細い皺を作る。
「私は何でもできてしまう。何でもどうにでもできてしまう。誰だって生き返らせることができるし、過去だって未来だって自由に変えられる。同時に、そうしない自由すらある。調伏しなければ世界は超常現象でねじ曲がるけど、調伏すれば世界から奇跡を取り上げることにもなる。好きなように世界を変えられて、好きなように世界を変えないでいられる。そんなの――」
人間のすることじゃ、ないよ。
たった一人の統にだけ聞こえる掠れた小さな声が、統の胸に、昴の腕の震えと共に伝わり、沈んでいく。
昴の行き詰まり。眼前に、それが存在した。無数の鎖が無数の世界から願いを拾い上げて、行き詰まらない上手く行く世界を求めて奇跡を起こして尚、これはどうしようもないのか――統の内に、そんな疑問が湧いていた。
「統」
優しく、昴が呼んだ。きゅっと胸元を掴んだままで、彼女はすぐ近くから顔を上げて統を見つめていた。
「私が、何でも、どうにか、してあげるよ」
告げて、昴は自身の胸元に、鎖を出現させた。鎖は瞬時に広がり、彼女の周囲を揺蕩う波として雲として翼として展開される。高次元的立体格子構造が光を振りまきながら伸び、分かれ、裏返り、可能性宇宙の交わる空間に燐光が満ちる。
同時に、無数の世界の無数の昴の宿す鎖もまた展開されていた。光があちこちで渦巻き、人の知覚構造を超えた高次元格子が星々のように、銀河のように、方々で輝きうねる。
「ここには膨大な鎖があって、膨大な可能性の集約がある。ここから先の宇宙なんて、どうにだってできる。可能性が一度集約したこの点から未来に向かってまた宇宙は分岐していく、その結節点に私たちはいる。鎖は鎖を消すことができないけれど、今なら、ここからなら、未来でも過去でも何でも自由に変えてしまえる」
可能性も可能性を変える力も集約したこの地点・時点で御子が願いを叶えると言う――この先の世界を好きに形作ると言う。
「そしたらあとは、私は私も変えてしまえばいい。御子として、調伏をいつまでも続けられるような意識にしてしまえばいい。行き詰まらない私を私にしてしまえばいい」
「そしたらそれはもう、昴じゃないんじゃないのか」
意志の強い瞳、細い眉、小さいが尖り気味の犬歯――改めて間近で昴の顔を見ながら、統は指摘した。行き詰まらない昴、平気で調伏し続けられる昴とは、今の昴とは全く別ではないのか。
「この昴がいないと、俺は行き詰まるんだって、そういう話だろ」
「大丈夫。それだってなんとでもできるよ。万能っていうのは、そういうことだから。私さえ世界を手放せば、世界は鎖から解放されて、統の願いも叶う。今よりずっと、良くなるよ」
今よりもよくなると、希望的なことを言いながらも声音には痛切なものが宿っていた。
何でもできてしまうという困難さを前に、統はどうすればいいのかと思考する。どうにかするには――
「私は統を行き詰まらせたくはない。だから、ね?」
昴は統を掴んでいた手を放して、統に手の平を向けて掲げて見せた。
統が同じように手を伸ばすと、すっと握ってくる。一回り小さな彼女の手が、指を絡ませて統の手と結ばれる。
手を重ねる。全ての鎖が、統の意識に繋がる。身に宿したマスター権限が、如何様にも鎖を扱えるのだと実感させる。
何でもどうにでもできる瞬間がそこにあった。これまでどうにもできず、手からすり抜けていった数々の物事の全てが今なら引き戻してどんな形にもできるはずだった。世界に無数に存在するどんな悲劇もどんな問題もどんな行き詰まりも、解消できるはずだった。
だが、一番解消したい問題は、何なのか。
どうにかしなければならない何かとは、なんだ?
ずっと望んでいた、何でもどうにでもできる力が今だけここにあった。昴がずっと付き合ってきたものがあった。
「分かった……願いを、叶える。俺の願いを。そのために、鎖を使う」
安心するように、柔らかに諦めるように、昴が微笑む。
統の中の権限が鎖を掌握するのが自覚できていた。万能の力が高次元構造から世界を変貌させることができるのだと、直感できていた。何ができるのか、意識しながら、統は口を開いた。
「今までずっと、何もどうにもできなかった。多くの問題に対して俺一人なんかじゃずっと無力だったし、これからも無力に近いままだと思う」
「大丈夫。統は大丈夫だよ」
「うん。多分、大丈夫な、気がする。それは昴のおかげだ。だから――」
望む。
願う。
変える。
「だから――これくらいのことは、どうにかできる」
心からの願いが、鎖を駆動させる。
「俺も、御子になる」
鎖の光が満ちた。




