いつの願いであるのか パッチワークの幸福世界 8
数年後の昴――正確にはその可能性の一つ――は、統の知る昴と外見的にはあまり差が無いように見えた。並んで同じ服を着て写真を取れば判別がつかないかもしれない。
にも関わらず、二人にはいくつかの差異がきちんと存在し、統にもそれが簡単に感じ取れた。表情、所作、視線の動き、吐息の震え。年月と味わったものの違いが、たとえ高校からの数年分だとしても二人の間に厳然と横たわっていた。
「もう、いいの?」
とだけ、昴は訊いた。もう一人の昴は、ただ、頷いてみせた。
そして、調伏が始まった。
あの巫女服のような装束に着替えていない昴の調伏を、初めて見るな、と統はふとそんなことを思った。高校の制服姿のままの昴が鎖を展開させていくのを目にして、今更ながらに、ただの十代の少女がとてつもないものを背負っていることを再実感する。同級生たちと同じ見慣れたスカートが、シャツが、リボンタイが、ブレザーが、全く見慣れぬ異様な高次元的多胞体の騙し絵のような格子構造の海に包まれていく光景に、統は痛切に共感の念を抱いていた。姉の重責に心を痛ませている雲雀や、重荷を背負って膝に顔を埋めていた昴への共感を。
昴から光の柱が伸び立ち、プレアデスの鎖の尖塔が形作られ、そこから枝葉のように細かな格子構造が伸びると、本殿の石段の上から見える景色全体が一瞬淡く光り、そこから無数の光の筋が伸びてきて結びついていく。二度見た光景が、今また繰り返されていた。
多くの時間景色から伸びた細く薄い光が収束し、光の欠片、鎖の一欠片として纏まり――薄いガラスの膜を割るような音が響いた。
調伏が終わり、鎖の欠片が残る。
「これは、私が貰う」
と、昴が告げた。年上の方の昴がそれを聞いて何かを言いかけた。
「私には統もいるから。欠片一つ分くらいは、背負う」
言葉を遮り、昴はそのまま欠片を取り込む。人の願いを叶える驚異的存在、持てば持つだけ重荷となってしまいかねない危険な力の一端を、もう一人の自分に返さずに宿す。
気が付けば、大人昴と大人雲雀の姿が、揺らいでいた。正確には、揺らぐというより、虚空に染み込んで消えてしまうように、認識し辛くなっていた。
「これは……」
統は反射的に目を擦っていた。だが手で視界を覆った一瞬で、更に揺らぎは拡大し、景色全体に及んでいた。視覚的にははっきりと見える。見えるのに、感覚が難しい。
さようなら、と雲雀の声がした。大人の方の雲雀と、統たちの側の雲雀が、同時に呟いていた。重なった声が、その重なりの片側だけが、薄くなっていく。
揺らぎの中にいる『向こうの昴』が、統たち三人に向かって最後に、しっかりと声を放った。
「私は、大丈夫だから。きっと。見せてもらったし、助けてもらった。まだ、やっていけるから――」
そして、何もかもが溶けるように曖昧になり――消えた。
ふと、ほんの数秒居眠りでもしたかのように。
気が付けば、統は七沢家の本殿の前で、立ち尽くしていた。一秒なのか一年なのか、どちらにも感じられるような意識の空白の名残だけがあった。見える景色にはただ、山間の街の尋常な姿だけがあった。
スマホを取り出してみてみると、時計は普通に動いていた。時刻は統の家を出てから二十分も経っていなかった。何の不思議さも異常もない五月の朝の空気が統を包んでいた。
帰って来たのだ、という感覚があった。
「いつか」
と、隣で声がした。見ると、昴が統の隣で佇んでいた。
「私も、行き詰まるって気はしてる」
誰にも聞こえないような、本当に小さな声だった。それが不思議と、統の耳には届いていた。
「ここには、統がいる。私を助けてくれてる。でも、もし統が何か心から願ってそれを鎖が叶えたなら、叶った願いを壊して消し去るのは、私。統は――何もかも、どうにかしたいと思ってたって、言ってたよね」
それができるのが、プレアデスの鎖なんだよ、と、諦めたような声で昴は呟いた。
「もし統が何かに打ちのめされて、普通じゃどうにもならないことをどうにかしようとして、その願いを潰さなきゃならなくなったら、耐えられないかもしれない」
「昴が、そんな悪く思うことなんかないだろ――」
反駁しかけた統を昴はすぐ傍から視線を合わせて止めた。
「本当のところ、鎖をどう扱うべきなのか、私たちにも誰にも、分からないのかもしれないね」
と言って、彼女は近くに立ち雲雀に声をかける。もう今日は学校という気力もない、サボるから、などと。それを聞きながら、統は一人、考え続けていた。
結局この件で自分たちは何かできたのだろうかと。恐らく自分たちのこの現実は元に戻ったのだろう。けれど、あの大人の昴は、どうなるのだろうか。本当に大丈夫、なのか。
これまで、ほとんど何もどうにもできないと考えてきた。それが苦痛だった。この世から、人の手から、価値や幸福が零れていくのに多くは何もできないことが我慢ならなかった。けれど、では「どうにかする」とはどういうことか。超常的な怪異で願いを叶えて「どうにか」してしまえば、世界は揺らぐ。あらゆる不幸を拭って消し去ってしまえば、好き放題に「どうにか」すれば、価値そのものが壊れるだろう。
さっぱり何かをどうにかしてしまうか、できないままにできないことへの失意の中に生きるか。どちらかしかない自分。そうではない、もっと意味と価値の芽生える正しい場所へ行けそうな気配を、昴との出会いは与えてくれていた。
どうにかしよう、とはっきり思った。先の事件でも抱いた「願い」を意識する。昴を、行き詰まらせはしない、と。
*
「姉は、昔はやんちゃで、今よりずっと活発でした。内気だった私を皆と友達にしてくれて、いつも守り、楽しませてくれました」
昴が自宅に戻った後、統と雲雀は街に出ていた。本当に全てが終わり街が元に戻ったか確かめるためだ。
朝から歩いてきた道を逆に辿って歩いていく。おかしな高層マンションもマラソン大会もなく、過去の懐かしい思い出としての雪景色も紅葉も夏の川遊びの情景も、さっぱり消え去っていた。どこにも記憶は存在せず、ただ現在の新しい景色だけが鎮座している。どことなく寂しくはあったが、同時に大きな安堵と、夢から覚めたような感覚があった。
「母が亡くなって、姉は御子としての力と使命を受け継ぎ、同時に落ち込む私を元気づけてもくれました。とても必死に支えてくれたんです。当時、まだ姉だって中学に入ったばかりだったのに」
歩きながら雲雀は語る。何の面白みも情感も感じさせない、菓子屋跡地に整備された駐車場の脇を通り過ぎながら。
「稲上さんがいてくれて、良かったです。できる限り姉を助けようと、恩を返そうとしてきましたが、私では、本当の姉の助けには全然なれていなかったと思います」
「そんなことはないはずだ、と、思うけど」
何もおかしなところのない朝の街の景色に、それはそれで美しいものを感じながら、統はそう口走っていた。言葉が意識よりも先に走るように、喉から出ていく。
「どうにもできないことを、どうにもできないままに、それでもどうにかしようとした。それは、助けとして無駄じゃない。絶対、無駄なんかじゃない」
半ば自分に対しての祈りのような言葉だった。
「俺だって、何かをどうにかしようとして、ほとんどどうにもできないままに生きてきた。だから俺が何かをできているっていうなら、多分そっちだって助けになってるはず、なんじゃないかな。実際あの未来の昴は、未来の雲雀がずっと一緒にいたからこそあの場にいることができたし、あそこまで生きてくることが出来たんじゃないかって……」
自分で言っていて、かなりしどろもどろというかガタガタな言葉を話していないか、とそこまで口にして統は自覚した。一体、何を言っているのか。
だが雲雀は、目を丸くして、足を止めて統を見つめていた。一歩先に踏み出してしまってから統が振り返ると、彼女はしばらくぽーっとした顔で統を見つめてから、やがて目元に指先を当てて少しくぐもった声で「ありがとうございます」と礼を述べた。
しばらく雲雀は統に向き合ったままで小さく笑みを浮かべていた。それからじっと見つめ合っていることに気が付いたのか、ぱっと顔をそらす。その頬が僅かに色づいていた。
「ああ、これは……ちょっと、いけません、いけませんね……。色々、ややこしいことになってしまいます……」
などと、ぼそぼそと呟く。
なにがどういけないのかややこしいのか、それはまあ不明だったが。とりあえず、歩みを再開すると同時に、雲雀は一つ統に訊いてきた。
「あの、私も姉のように、統さんとお呼びしても宜しいでしょうか?」
勿論、断る理由もない。そもそも自分の側からだけ名前呼びと言うのも気が引ける、と考えて統は頷いた。何だか、相棒というか同志みたいでわくわくしますね、と彼女は付け加える。
どこもかしこも異常のない景色を眺めながら、雲雀の思い出の地図も、どんどんこれから更新されていけばいいな、と統は考えていた。最良の記憶なのだから、上書きされていく方がいい、と。そう思えば、何の思い出も宿っていない現在の風景も、多くの価値の可能性を内包した、どこまでも豊かなものに思えた。




