いつの願いであるのか パッチワークの幸福世界 7
七沢家の敷地に建てられた、神社のようで神社ではない建物たちは、やはり神社のような様式のためか纏う雰囲気や空気感といったものも神社に近い。大きく茂った背の高い木々の枝葉が頭上に何重にも広がっており、拝殿の下には昼でも影が落ちていたが、その奥の本殿はそれより更に影が深く、暗さが残る。
本殿は拝殿よりも小さいがしっかりした造りの社になっており、その前には石段があった。それなりの長さの重厚な石階段で、一段一段も大きく高めで段数も多い。そのおかげで、階段の中途や登り切った本殿からは、参道の先の七姉妹市の平野部が広く見渡せるようになっていた。
こちらへ、と大人雲雀に誘導されて統たち三人は本殿の前まで来ていた。昴と雲雀にとっては勝手知ったる自宅の傍であり統にとっても来たことのある場所だったが、今見ているこの敷地が本当に統たちの知っているそれと同じかは判然としなかった。ここは一体いつの七沢家なのか。使い込まれて風格のある石段や社の建物たちは元から年月を経ているせいで短い年月の違いを感じさせ難い。
「街の中が、常ならぬ状況にあるのは、皆さんも知っておられますか?」
木々の切れ目から広く市街と農地を眺めて、大人雲雀は訊いた。
「ええ、場所ごとに、違う時間の光景が――私の記憶にある思い出の情景が、存在しました。知らないものもいくらかありましたけれど……」
統たちの側の雲雀が答えると、大人雲雀は「ええ、そうでしょうね」と頷く。
「それはおそらく、途中であなたと私が別々の『雲雀』になったからです。いえ、私たちだけでなく世界そのものが、かもしれません」
「どういうことでしょう?」
雲雀の疑問に、大人雲雀は突然、統を振り向いた。
「稲上さん、ですよね。あまり、気分のいい話ではないかもしれませんが……私は、あなたを知りません。出会ったことが、ないのです。それどころか、私が高校生の頃、途中から転入してきた生徒は、知る限り一人もいませんでした」
と言われても、実際俺は転入したし、そこで雲雀や昴とも出会ったわけで――と反射的に思い浮かんだ言葉を自覚して、統は気が付いた。というか、ある程度予想が浮かんできていた。転入した自分。雲雀と知り合いになった自分。道筋、という先の言葉が意識される。一つの道を意識するということは、同時に「その他」を意識することでもあった。
「そちらの……世界、宇宙、なんと言うのか、とにかくそこは、俺がいないまま時間が進んでいた――?」
「はい。存在しないかどうかまでは知りませんが、七姉妹市にはいなかったのだと思います」
その言葉の意味に、くらくらするものを感じて統は一時目を閉じた。それは、ようするに、つまり。
「分岐した別の可能性宇宙」
昴が、統の意識と同じ言葉を導き出して呟いた。単語のチョイスがどこから来たのかはわからなかったが、分かりやすい言葉ではあった。SF小説や、アニメや、マンガや映画などで時々囁かれる言葉。分岐宇宙、可能性宇宙。可能性的な宇宙の分岐をテーマにした物語は多くある。Aの宇宙で起こったことがB宇宙で起こらなかったり、といった類の話だ。
そのようなことを昴が言うと、大人雲雀は彼女の例えに頷いた。
「……そのようなものだと思います。未来が決まっているのかいないのか、この宇宙が物理的に決定論的なのか非決定論的なのか、それは学問的にも明らかにはなっていませんが。でももし、分岐しているとしたら。様々なタイミングで、様々な可能性が同時に成立し、並列し、それぞれの別々の未来を歩み始めるのなら。その一筋が私で、別の一筋が、そちらの私、だということになります」
「なります、と言われても、それは仮定の話、ではないのですか?」
「いいえ……根拠は後になりますが、恐らく事実です。私も信じ難いとは思いますが」
なんだか、話があちこちにものすごい速度で飛び回っているようではあった。あり得ないこと、おかしなこと、唐突なことが多く跳ねまわり、把握がひどく難しい。
「この状況は、多分、私のせいです。私の願いの」
「願いの内容は?」
昴が真っ直ぐに年上の妹を――彼女の言うことが本当ならば、「あり得たかもしれない妹の未来の姿の一つ」を見据えて訊いた。
大人雲雀は静かに目を閉じて微かに息を吐く。落ち着いて、言葉を整えるように。表情や所作の落ち着きに、いくらか現在の雲雀とは異なる年上の経験が宿っているようにも見えた。
「――姉に、見せたかったのです。思い出してほしかった。この街の、世の、美しさと価値を。私の覚えている輝かしい価値の経験を。私が姉と共に味わった物事を。街に起こっている異変は、その表れではないかと思います」
再び開かれた彼女の瞳には、高台の本殿から見える土地が映り込んでいる。
しかしそれは恐らく、統たちの見るものと同じ景色ではあっても、意味合いがいくらか異なるものなのかもしれなかった。
「姉は……この私の姉、は、ずっと一人で調伏を、御子としての責務を果たし続けています。一年の留年を挟んで高校を卒業し、ここから通える大学へ進学しましたが、それからもずっと御子としてこの地に起こる超常的怪異を鎮めてきました」
大人雲雀の言葉に、昴の体が僅かに揺れたような気がした。統が見ると、昴はきゅっと体の横で拳を握っていた。
「調伏は、困難な仕事です。私にはその困難さすら本当に理解することはできません。できる限り助けになろうと努めては来ましたが、私には鎖を見ることもできず、姉から話を聞いても願いの主や内容を探し求め判明させる手助けも上手くはできませんでした」
「ええ、それは、分かります……」
統たちの側の雲雀が、年上の自分の言葉に同意した。心底からの実感が籠った声だった。
「姉は、疲弊していました。幼いころから調伏を続け、綱渡りを続けてきたんです。失敗すれば超常現象が放置され、この街が、あるいは最悪世界規模で、大変な事態が起きてしまいかねない。そんな中ぎりぎりで現実を現実に留めていたのです。人は、心からの願いを多く持ちます。悲劇に向き合い、幸福を求め、世界がこうであったらいいと強く願う。でもそれは姉も同じです。多くの困難に足を取られ傷つき、それでも姉は鎖を使わず、使わせず、御子として生きていました。そんな中で、幾つかの事件で調伏に時間がかかりすぎて、大きな異変が人目にさらされることになりました。噂や勘違いでは済まない規模で」
統は、話を聞きながら思い出していた。宇宙人騒動に、メロペの高性能化事件を。あれらがそのまま放置されていたら、どうなったか。謎のグレイや火星人は異変の最中山の中で姿を消してそれ以後いないが、天文台に落ちた金属塊は物質として残ってしまっている。メロペの性能も元には戻ったが、彼女が「土地神」として超性能を見せていた際に行った仕事の成果は現実に様々な形で残っているだろう。どちらも、際限なく事態が進み、超常現象が幻から現実にすり替わっていけば、何もかもが変わっていたかもしれない。
「隠しようのない超常現象で人目が集まり、そのために御子としての動きが制限され、更に事件が悪化する。そうして数年が経過し、姉は――ボロボロになりました」
大人雲雀が悲痛な表情を見せる。その内心が、分かるからだろうか、統たちの側の雲雀もまた、ほとんど同じ顔をしていた。
「何のために、何をやっていたのか。御子として調伏を行う意味や価値があるのか。姉はここのところ、もうずっと、ひどく、疲れ果てています。疲弊しきっているんです。私はもう、とにかくそんな姉を見るのが堪らなかった」
耐えられなかったのです、と、今にも割れてどこかにバラバラと落ちていってしまいそうな声で彼女は言った。
「姉が望むなら、御子なんて止めたって良い。私の現実が超常的怪異で塗り替えられてしまったって、良い。私に御子としての力を渡してくれたって良い。とにかく、姉に、嫌になってほしくなかったんです。何もかもを」
疲労や失意や孤独の底で、虚無感の中に落ちてほしくはなかった。
大人雲雀の語りは掠れて、頭上の木々の葉擦れの音の中に紛れていく。
「だから、もう一度見せたかった。私と姉が経験したこの街の価値を。昔は姉だって普通の子供で、私と一緒にただ喜びを味わい生きていたんです。それに御子となってからだって、いくつも楽しい時があった。思い出してほしかったんです」
「それが、あなたの、心からの願いだった」
「はい。少しずつ心に溜まり、気づけば捨てられない願いとして強くありました。そうして気が付けば、突然、こんな事態になっていました」
こんな事態。時間的パッチワークの街。最良の記憶で塗り分けられた七姉妹市。
街を見渡して、統は気が付いていた。今のこの街を形作っているのは、雲雀の記憶ではあるが、統たちの知る雲雀の記憶ではない。統が転校せず、七姉妹高校に在籍せず、昴とも知り合わなかった世界での、数年後の雲雀の記憶こそが根源となっていた。
「見たことのない景色や、未来の光景があったのは、未来の雲雀にとっての『過去の記憶』だったからこそ。それでも子供の頃の記憶の大部分が自分のものだと思えるほどに、二人の経験は途中まで酷似していた」
呟く。河川敷の桜や祭りや文化祭、あれらはこちらの雲雀にも記憶があり自分の記憶だと認識していた。
「多分、私と、そちらの私とは、途中まで同じだったのでしょう。稲上さん、あなたが転入してくるか、こないか、ちょうどそのあたりで分岐したのかもしれません」
大人雲雀がそう推測する。
「願いは、分かった」
昴が硬い声音で声を放ち、それから顔を上げて大人雲雀に向き直る。
「でも、何故、私たちはあなたと同じように、時間的パッチワーク状態になった街を「外から」見ることができたのか。「記憶の景色」の中で見た私たち自身の過去の姿のように、記憶の光景の中の登場人物ではなく、それら景色を渡り歩き観察することができた理由が分からない。あなたの願いでこの記憶の街ができたなら、あなた自身や、あなたの知る未来の私がそれを見ることができるのは分かる。けど、私たちは何故ここにいるのか。あなたの知る私とは違うこの私が、こっちの世界の雲雀や統と共に何故ここにいるのか」
昴が疑問を語っていた。それは、統自身も不思議に思っていたことだった。この記憶のパッチワークの街が大人雲雀、別の可能性に生きる分岐した雲雀の記憶なら、別の分岐に生きる統たちは、ただの部外者ではないのか。
だが、大人雲雀はそうは考えていないようだった。昴の言葉を受け止めて、さほど動じることなく応答する。
「それは多分、あなたたちの存在も、私の願いの一つだから、かもしれません。私はかつての楽しさを姉に見せたいと願っていました。鎖が結びつくほどの強い願い。けれど当然、それで世界を永続的に変えてしまうほどのことは望んでいませんでした。それでは姉のこれまでやってきたことが台無しになります。つまり、願いが叶った時、それで起きてしまった超常現象を消してくれる存在も、同時に必要になります」
姉に楽しかった光景を、記憶の景色を見せたい。だが、鎖によって世界を変えてしまうことをこそ御子は、昴は、ずっと防いできた。叶えたいが叶えたくない願い。叶えた後で消してしまいたい願い。鎖のシステムを知る雲雀だからこそ抱く、捻れた願いの結果が、その願いを調伏し消し去る存在をも含んだということだろうか――と統は大人雲雀の言葉を咀嚼し理解していた。
昴はさらにそこから一歩、問いを進める。
「それがなぜ私たち?」
「こちらの姉自身には恐らく難しいと思います。それに、私や姉が願いの魅力に負けて、鎖の力にどこまでも浸ってしまったとしても、止めてくれる存在でなければならない」
「可能性が分岐するなら、他の昴だっているかもしれない。この私である意味は?」
「……姉は、あなたたちを一度見たことがあります。ある一つの宇宙における、七沢昴と稲上統を。最も信頼できる『自分たち』がいるとすればそれだと語ってくれました。だから私の願いに、この光景の意味を理解できる『もう一人の私』を含めたあなたたち三人が呼ばれたのだと思います」
「見たことがある?」
「ええ、他でもない、あなたたちを。他の可能性ではない、あなたたちを姉は見たと」
昴の表情に乱れが走る。困惑が重なっていた。大人雲雀はその困惑や疑問を正面から受けて、しかし仔細を説明せずにただ一言、
「じきに、分かる時が来ます」
とだけ言い放った。
実際のところ、かなり無茶苦茶な話ではあった。統には、分岐宇宙、という概念だけが一連の事件の中で唐突過ぎるように感じられていた。大人雲雀がまるでそれを当然の事実のように考えているのは何故なのか――普通の感覚では、そんなものはまるきりSF物語の類である。鎖の起こす超常現象に慣れているとしても、だ。
「そちらの……そちらにとっての、昴姉さんは、どこにいるんです?」
雲雀がそっと、尋ねた。大人雲雀は街の遠くを見つめて、
「今は、街を回っています。この現象に遭遇して暫くは一緒でしたが、一人になりたいと。それからずっと、ここで待っています」
と答えた。いつから、と訊こうとして、統はそれがあまり意味のない問いかもしれないと気付く。時間の経過を計る物差しが無茶苦茶になってしまっているこの空間では。
長く、誰もが言葉を発さなかった。未来の情景、未来の昴と雲雀、調伏の行き詰まり。可能性や未来を直に見せられ語られるという経験は、何か、喉元の刃物を突き付けられるような苦しさと恐ろしさのあることのように、統には思われた。
気が付けば、昴がそっと、統に身を寄せていた。腕と腕が軽く触れている。お互いに、未来という意識に対して注がれた冷たい不安のようなものを感じ取れそうな気がして、統はそのままにしていた。
「満足して、終わらせてもいいと思ったら、ここに二人で戻ってきて。そうしたら――」
赤い髪が揺れて、きらきらと光を透かす。
「私が、調伏する」
統の知る、統の世界の御子は、そう宣言した。




