いつの願いであるのか パッチワークの幸福世界 1
平日の朝。朝食の後、食器を洗って片付けていると、インターホンが鳴った。
「おう、朝から誰だ?」
ソファーでくつろいでいた父が、顔を上げる。統が手を拭いて作業を中断しようとすると、いいよいいよと身振りでそれを止めて立ち上がる。
「俺が出るよ、今日休みだしな」
やや嬉しそうに言う。統の父は、土日でも仕事に出かける日が少なくないが、代わりに平日にちょくちょく休みが入る。そういう職種にいた。
居間の壁際に備え付けられたカメラ映像付きのモニター親機に向かい、通話する。キッチンからは死角になっており水仕事で音も聞こえ辛いのだが、なにか二、三言喋ると、すぐに慌てた様子で父が統の元に転がり込んでくる。
「お、お、お前、何した?」
まるで統の部屋からバラバラ死体でも出てきたかのような動揺っぷりである。
「なに、一体。どしたの」
警察でも来たの? と付け加えるが、父は歳の割に若い顔(やや自分に似ていて見る度に統は曰く言い難い微妙な気持ちになる)を深刻そうにしかめて、
「そんなもんならここまで取り乱すか!」
と寝ぐせの残った頭を抱えている。血走った目(夜更かしと寝起きのせいだ)をくわっと開いて彼は告げた。
「なんか……可愛い女の子が、二人もいた。迎えに来たって。お前、何したんだ?」
「何したって何がだよ」
「だってお前、高校生が突然女子に朝迎えに来られるってお前おいお前、俺の世界観に無い展開だぞお前。そんな青春なかったぞ俺には。男尽くしの灰色だったぞ三年間。楽しかったけども。我が家の家系的伝統を何だと思ってんだ」
「そっちこそ稲上家を何だと思ってるんだ……」
とにもかくにも、「若者は! これだから若者は!」などとよく分からない騒ぎ方をしている父を放置して、統は手早く手を拭いてモニター前に移動した。
果たしてそこに映っていたのは、昴と雲雀の二人だった。見慣れた制服姿だったが、この二人が揃って着ているところを見るのは初めてで、不思議な新鮮さがあった。
ごめん、ちょっと洗い物してて、と声をかけると、スピーカー越しに軽やかな雲雀の声が返ってくる。
『あ、稲上さん、おはようございます。突然朝から押しかけてしまって、すみません』
「おはよう……別にいいけれど、どうしたの?」
『それが、その、今日は珍しく姉が早起きでして』
「はあ」
一体何の話なのか。雲雀はモニターの向こうで言葉を探すように視線を彷徨わせていた。
と、すぐ隣に立っていた昴が、ずいとカメラに寄る。
『統、もし大丈夫なら、一緒に学校行こう。どう?』
いつものあの、直接人の意識に響いてくるような不思議な声音が安物のスピーカーを通して響く。
統はなんとなく部屋を振り返った。まだ朝は早めの時間だが、洗い物は終わり、準備もあらかた終わっている。色々とよくは分からないが、特に問題もない。
ちょっと待ってて、と声を返して、統は洗面台へと向かった。
身支度を終えて急いでマンションのエントランスまで降りると、「おはよう、統」「おはようございます、稲上さん」と二つの声に出迎えられる。二人ともきちんと髪も格好も整ってはいたが、パリっとした雰囲気の雲雀に対して、昴の方は眠たさが残っているのか小さく欠伸などしていた。こっそり盗み見ると、目を細めて「くああ」とやっている。どこか猫っぽさがあるな、と思っていると、雲雀が事情を説明しだした。
「本当は、私と姉で一緒に登校しようって話だったんです。いつも姉は時間ぎりぎりまで家にいるんですが今日は早起きで、ちゃんと登校するっていうので、一緒にって」
「でも、姉妹二人でそろって登校って、なんか恥ずかしいでしょ」
昴が捕捉するように横から言う。そんなものだろうか、と一人っ子の統は考えた。兄弟姉妹間の仲の良さ悪さや気恥ずかしさなどはあまり実感がなく想像がつき辛い。
「で、じゃあ統も巻き込もうってことになって」
「いやなんでだ」
「一人より二人、二人より三人、でしょ? 戦いは数だから」
「何とどう戦う気なんだ通学の途上で」
「すみません、突然すぎてご迷惑かとは思ったのですが、姉が楽しそうで」
雲雀が申し訳なさ半分嬉しさ半分といった感じで柔らかに言う。昴がそれを聞いて、少しだけ顔を皆から逸らした。
「私、中学以降あんまり誰かと通学なんてしてこなかったから。新鮮ではあるかな」
昴の言葉に、統はそういえば、と思い返す。転入からこちら、友人はいくらかできたものの、誰かと通学を共にするというのはやっていなかった。気楽に友達と話しながらの道というのは、悪くないと言えば悪くはない。
マンション前を見渡す。どうということもない住宅街だったが、五月に入って空気は暖かく、乾いた空気の香りが心地よかった。
まあ、なんでもいいや、とそういう気分になった。色々怒涛だった四月を越えて、こうした緩やかな朝を迎えているのだから、ゆったり楽しめばいい。
「行こっか」
昴が歩きはじめる。一緒になって歩き出しながら、統は平穏な朝へと踏み出した。
はずだった。
*
統の自宅から学校は、さほど遠くもなかった。通学に自転車もいらないほどで、毎日徒歩である。昴や雲雀の住む七沢家は統の家から北にいくらか行った山際で、こちらは自転車通学でもよさそうな距離だが、この日は早い時間だったからかそれとも徒歩の統と合流するつもりだったからか、二人もまた徒歩だった。
雰囲気で連れ出された形だが、実際、連れ立って歩くにはひどく気持ちのいい日だった。空は快晴で、空気に湿りは少なく、山からは爽やかな緑の香りが薄っすら降りて流れてくる。
「統のお父さん、ちょっとひょうきんな感じだったね」
「声だけですけど、楽しそうな方でした」
背後の統か統のマンションかを振り返る二人に、統はなんとなく気恥ずかしく小さく息を吐いた。
「大体いつもあんな感じだよ。『どっちが子供だか分からんぜ』って自分から言うような人でさ」
「でも、いい人そうでした」
「そっちは? そう言えば前にお邪魔した時も、会わなかったけれど」
「うちの父さんは、大体いつも眠たげにしてる。会社勤めと自宅の社の管理と、街の氏子――みたいなもの? のあれこれで忙しくしてて。休みは雲雀とゲームしてる」
ややぶっきらぼうに、昴が語る。二人の父親というのは中々想像がつき辛いが、そもそも二人の私生活というのもあまり知らない。
いくらか興味を持って統はしばしそのことについて話しながら足を動かした。雲雀が意外にも機械関連に強くゲーム好きであること、昴は逆に疎くゲーム下手であることなどを知りつつ、そのうちに道は駅近くの住宅街を抜けて広い川に出る。以前に一度、雲雀に連れられて食事会に行った際に通った川だった。
川を渡る橋に近づいた瞬間、ふと周囲の温度がいくらか低くなったように統は感じていた。寒いというほどではないが数度気温が突然下がったようだった。
更に、続けざまに別の異変にもすぐに気が付く。
「桜?」
昴が飛んできた何かを顔の前で軽く払った。彼女の白い指先から、薄く色づいた小さな薄桃色の薄片がくるくると回り揺れながら落ちていく。
橋に近づくと、僅かな風に乗って、次々に同じものが飛んできた。舞い落ちる白い花弁。鼻先をくすぐるような、少しだけ甘い香りを漂わせる桜の花がさらさらと辺りを舞っていた。橋の上にまでくると、はっきりと状況が分かる。川の両側に植えられた桜並木が、満開となっていた。
「……こないだ、散った、よな?」
美しく幻想的で、普通ならただ見入ってしまえばいいような絢爛な光景を前に、三人は美的感動からではなく困惑から脚を止めていた。
七姉妹市は山間の街であり、平野よりは桜の開花も遅い。しかし列島の中央部付近に位置するため気温はさほど低くはなく、桜の見頃もとうに過ぎていた。そもそも現在は五月初旬であり、桜の季節としてはこれは北海道並みである。そもそも、食事会の日には散り始めていたのを統も雲雀も見ているし、それ以外でも街の各所の桜が見頃を過ぎて散っていくのを先月一杯で皆見ているはずだった。
「狂い咲き、みたいなものでしょうか……?」
「二か月連続で咲いたってこと? あり得るようには思えないけど」
姉妹二人が訝し気に周囲を見渡す。桜は川に沿って並べて植えられており、川自体が綺麗に整備されていることや地方の元々美しい河川であることと合わせて非常に見栄えのするものとなっていた。空も明るく、観光雑誌か何かの表紙にしてもいいくらいだ、と統は感じていた。感じつつ、気が付く。
「誰も、騒いでないな。こんな季節感逆戻りみたいな光景なのに」
河川敷や川沿いの道には人影がいくつも見えた。通勤通学時間の朝だということを考えればちょっと異様なくらいに人が多い。しかし誰も、この状況を騒ぎ立ててはいないようだった。いや、正確に言えば、美しさに見とれたり楽しく笑う声、歓声などはあちこちで上がっているが、異様な状況に戸惑ったり驚いたり騒いだりするような種類の声ではない。
「なんだか、太陽が高くない?」
人々の様子を確かめる統に、昴が空を仰いで声を上げた。つられて見てみると、確かに太陽の位置が高いように感じられた。日差しが高く、影が短い。思わず統は鞄からスマホを取り出すが、時刻表示は家を出てほんの数分だった。
「……とりあえず、先、進む?」
おかしな光景にしばらく黙して立ち止まってしまってから、昴が提案した。
状況を把握するにも何をするにも、棒立ちではしょうがない。同意して統は歩みを再開した。が、雲雀はまだしばし立ち止まったままだった。
「雲雀?」
昴が声をかけると、彼女ははっと気づいたように、景色に吸い寄せられていた視線を戻して、遅れて歩き始めた。
「どうかしたの?」
昴の声に、雲雀は「いえ」とすこし濁してから、
「何か、変な感じが」
とだけ小声でつぶやいた。
変な感じなら既に自分も昴も感じているが、とは思ったが、統は口にはしなかった。雲雀の様子は、どうやらそういうことでもないと感じられたために。




