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「――なにか、特別な書物でもあるのですか?」
ルシニアは慎重に言葉を選びながら問う。
ルシニアのおずおずとした口調とは反対に、ブラムバシアンははっきりと告げた。
「禁書というものがあるんだ」
禁書、と初めて聞いたかのように呟く。
さして珍しいものでは無いが、全ての人が知るわけではないそれ。存在自体が機密なのだから、ルシニアのようなただの貴族令嬢は知る由もないないものだ。
「特別な書物......禁書。......そんなものの――禁書の閲覧が、それが魔塔には許されているのですか?」
「いや、魔塔に属しているからと言って皆が許されているわけではないよ。俺が魔塔主の弟子であり、次期魔塔主候補だから可能なだけだ」
「そんなものを、わたくしなどに教えても構わないのですか?」
禁書は禁じられているからこそ禁書なのだ。おいそれと人に話しては禁じている意味が無い。
ルシニアは一介の学生であり、魔塔にも属していない。ましてや王族との繋がりも消えたのだから、ルシニアが禁書の内容に触れて良いはずがないのだ。
だというのに、あっさりと口にされてしまえば生きた心地がしない。
「本当に禁じたいのなら、そもそも記さなければ良かったんだ。記すということは残すということ。残すのであれば、伝えねば意味が無い」
「口が軽いことで良いことなどありません。知るに足る資格がなければ、混乱を招くだけ。だからこそ、禁じられているのだとわたくしは思います」
ルシニアの拒絶にブラムバシアンは首を傾げるが、やがて鷹揚に頷くと了承する。
理解しているとは思えないが、少なくとも早々に危うい情報は出すことはなくなることを願うばかりだ。
ルシニアは自身の情報に欠落があることは理解している。結局のところ、メインストーリーに関わりのない事柄に関する細部の設定は、各世界ごとに異なる。
これまで見てきた中でも大本の設定は似通ったところがあるものの、それらにはルシニアが知識としてインストール出来なかったものも含まれていた。生きていくうちに自ずと知れていく情報も、既に脳内に入った知識に紐付くものなのだ。
ルシニアは緩く頭を振ると、ブラムバシアンを見上げた。
「エニウム様は、ファルゴ殿下とどのような関係なのか、お聞きしてもよろしいでしょうか」
知識としての関係性は知っていても、それは所詮紙面の上のものに過ぎない。彼らの本当のところの関係性は、今となっては変わっているかもしれない。
ルシニアとブラムバシアンのように、ブラムバシアンとファルゴの関係性にも予備知識と齟齬があるかもしれない。仲の良い設定だったはずだが、彼はファルゴに対してどちらかと言えば冷たい目を向けているのだ。
「そうだな、面倒な男としか言いようがないな。ルシニアをまるで悪として断ずる姿には軽蔑すら覚えるくらいなのだから、あまり仲が良いということでもないだろうし」
「仲が良くない? ファルゴ殿下はあなたのことを友人だとおっしゃっていましたが......?」
「互いがそう思っているわけではないだろう。俺がお前を好いていても、お前が俺を煩わしく思うようにな。ファルゴとは単に、幼少の頃より付き合いがあっただけだ。あれは俺にとっては所詮、数多の人間の1人に過ぎない」
ブラムバシアンが悪戯めいたように笑うもので、ルシニアはどこかバツが悪く目を逸らしてしまう。
そんなルシニアの髪を一房持ち上げると、いつものように編み始める。
「お前は違うよ。お前だけは違う」
「なにを......わたくしこそ、数多の人間の1人に過ぎません」
編み込む手は止まらず、優しく穏やかな声が耳には心地好い。
落ち着かない気持ちを誤魔化すために、ルシニアは手にしていた本の表紙をなぞる。ザラりとした質感のそれがルシニアの心のようで、視線の向ける先に戸惑いが生まれる。
「お前に近付くのに大層な理由はないと言ったが、あれは少し違うんだ。お前にとって大層なものではないが、俺にとっては死活問題な理由がある」
思わぬ告白に、ルシニアは本を撫でていた手を止める。
今さらというか、なぜこのタイミングでと思えども、その先を待つことにして口を噤む。
「お前の血が、忘れられなかった」
「は?」
ブラムバシアンは淡々と、そう理解し難いことを言う。
ルシニアの頭の中には疑問符がいくつも浮かび、血という単語を何度も噛み砕く。けれどそれが忘れられないという、下手をすれば猟奇的なことを言う彼に思わず令嬢らしからぬ、疑問の声が口から転び出てしまう。
「なぜ唐突に距離を空ける? ほら、あまり離れるとまた頭を痛めるぞ」
「いえ、あの出来れば離してください。決してあなたの趣味嗜好は人に話しませんので、わたくしに二度と関わらないでいただきたいです」
ブラムバシアンに掴まれたままの髪を返せと引っ張れば、彼は珍しくも焦ったような顔をする。
「おい、お前の考えるような意味合いではないぞ。傷付けて悦を覚えるような意味合いはない!」
「誤魔化さなくても大丈夫ですよ、人の嗜好は千差万別ですもの。あまり人に話すようなものではありませんが、それでも胸の内に留めておくくらいなら問題ないかと。実際に行動に移さなければ、たぶん、おそらく、えぇ、きっと問題ないかと」
「今は俺の嗜好より、お前の思考が問題だ」
パッと離された手は、降参だとばかりに上げられる。
ルシニアは椅子の隅に寄り、自身の身を抱くようにしながら彼を見上げている。血が忘れられないなど、そんなことを言われて危機感を覚えないほど鈍くはない。
ルシニアの警戒心が露な瞳に、ブラムバシアンは床に膝をつく。そうして屈んでしまうとルシニアより視線は低くなり、見上げるように覗いてくる瞳は潔白だと訴えていた。
ルシニアは一つ間を置くと、そろそろと手を伸ばす。彼の眼鏡に手を掛けると目が伏せられ、それを取り上げてしまえばマリーゴールドの瞳がルシニアを見詰める。
「それでどういった意味なのか、お聞かせくださいますか?」
説明をする余地を与えず誤解したのはルシニアの方だが機会をくれてやると、ブラムバシアンはもちろんだと安堵しながら肘掛けに座り直した。
彼から奪った眼鏡を覗いてみれば、それは幾重にも魔法が施されていた魔道具だった。だが、ルシニアの乏しい魔力では起動出来ず、掛けてみたところでなんの反応もない。ブラムバシアンの魔力に合わせられたものなのだから当然だが、ルシニアがどれだけうなろうとも、魔道具である眼鏡は虚しく伊達眼鏡に成り下がる。
「以前、運命について教えると言っただろう」
見兼ねたブラムバシアンが眼鏡の縁に触れると、視界に何やら文字が浮かび上がる。彼はルシニアの持つ神学に関する本を取り上げ、ある場所を開いて目の前に差し出した。
それを覗き込めば、古代語で書かれた一説が現代語に訳され、あまりの便利さにルシニアは目を丸くする。画期的な魔道具だと見上げると、ブラムバシアンの目が細められていることに気付いて咳払いをして気を取り直す。
「まさか、こんなに早く機会があるとは思いませんでしたわ」
「お前を釣っておくための餌だからな。だが、お前はもう、俺にそこまでの警戒心はないようだから」
「先程改めてあなたに警戒心を抱いたところですが」
「だから今それを解消しようとしているだろう」
ブラムバシアンは先程の問答で乱れたルシニアの髪を取り、どこからか櫛を取り出して梳かしていく。
人に興味がないと言いながら、このように世話を焼きたがる。その矛盾がルシニアには理解出来ず、本から目を離さないままに先を急かした。
「魔塔の定義する運命とは、魔力の相性によって決められるものだ」
「魔力の相性?」
「ああ。人の中には魔力を持って生まれる者がいるが、普通それらは人によって異なるもので、同一の波長を持つ魔力保有者はいない。だが、稀に呼応した魔力を持つ者がいるんだ」
呼応した魔力、と口内で噛むように呟くと、ブラムバシアンがルシニアの頬に手を添え、顔を向けさせられる。
「呼応と言っても、同一の波長ではないよ。そこが覆ることは無い。簡単に言えば裏の波長を持った者で、対となる魔力を持つという意味だ」
「対となる魔力? 波長があることは知っていますが、そんなこと、聞いたこともありませんわ」
「それはそうだろう。魔塔は定めたそれを公表はしていないからな」
飄々とした口調で言うブラムバシアンに、ルシニアは目を瞬かせる。
マリーゴールドをじっと見詰めてくるルシニアの瞳の丸さに、ブラムバシアンはふっと微笑んで頬に触れている親指の腹で撫でてやる。擽ったいと睫毛を震わせるが、振り払わないのをいいことに頬から首筋へと手を下げていく。
喉元を這う指先にルシニアは不快さを滲ませながらも、ブラムバシアンから目を逸らさない。かといって痩せ我慢をしているようでもなく、ブラムバシアンは敵わないなと手を離した。
「公表するようなことではないからな。運命の人とはそう易々と出会えるようなものではない。一般的なものとも変わりがないのさ」
「変わりがないとは言っても、魔塔が定めるということは何かしらの作用があるのではないですか?」
「ああ。呼応する魔力を持った者同士が出会えば、惹かれずにはいられない。波長は穏やかなものに変化し、増幅効果まで得られるとされているが、検証が足りないからそこまでの信憑性はない。殆ど世迷言に近いためか、公表されないのはそういったせいもあるんだ」
魔力は常に波があり、普通それはある程度抑えられる。人は無意識にでも行えるのだが、稀に意識的に行っていても難しい者がいた。
だが運命の人と出会えば、その波が安定した上に、魔力量の増幅も見られたのだから魔塔は新しく定義付けを行った。だが、サンプルデータの少なさから検証が不十分であるため、世間に公表するには至らず、魔塔の中でも少数の記憶にしか残っていないのだとブラムバシアンは語る。
ルシニアはふと首を傾げ、胸に湧いた疑問を口にする。
「惹かれずにはいられないとは言いますが、わたくしはあなたに何かを感じたことはないのですけれど」
「ああ、だから俺はお前が運命であれば良いと願うしかないんだ。俺はこんなにもお前に惹かれるというのに、お前は少しも俺を見ないのだからな」
手を取られ、指先に口付けを落とされる。
熱を持つ瞳で見詰められ、吐息が指先に触れるとルシニアは眉根を寄せる。
「運命以前に、こうも無反応を貫かれると男としての自信を失くすな。俺はそんなに魅力がないのか?」
「いいえ、きちんと嫌悪感は抱いているので、決して無反応というわけではありませんよ。魅力より不信が勝るだけです。そもそもこのように軽率に触れてくること自体、非常識であると言っているはずなのですが?」
ルシニアがいい加減にしろと言外に込めれば、彼は渋々手を離す。彼はどうにも気軽に触れてくる節があり、度が過ぎるようなことがないように止めるのも疲れる。
言うことは聞くのに、言われたことは覚えていない。まるで小さな子供だと、彼が髪をいじり始めるのには文句が喉に渋滞して出て来ない。
最近はルシニアの髪型の変化に、侍女が不思議だと口にしていたのだが、それがまさか男によって作られたものだとは思わないだろう。ルシニアとてその手先の器用さには毎度舌を巻くくらいで、侍女が目を輝かせるのを見れば止める気にもならない。
基本的にルシニアの身支度は自身で行っているから、彼女に髪を遊ばせたことは無い。それでも彼女が食い入るように見ているのだから、今度試させてみるのもいいかもしれないと思った。
「血液には魔力が多く含まれる。だから俺にとって、ルシニアの血はそこらの香水よりも芳しく感じるんだ」
「そんなに違うものなのですか?」
「違うよ。お前の血を嗅いだ時の高揚感と安堵感。矛盾する気持ちに目眩がしたほどだ。気になるなら俺の血を嗅いでみるか?」
「あなたの趣味にはわたくしは沿えませんわ」
ルシニアの全力の拒否にブラムバシアンは肩を落とすが、流石に血を嗅いでみたいとは思えない。わざわざ傷を作る必要もないのだから、そこで残念がられても困るとルシニアは溜息を吐く。
ルシニアは少々理解に苦しむところがありながらも、近付いてきた理由が判明したことでほっとする。とはいえ、その理由が理由なだけに正直ルシニアとしては余計に近付きたくないのだが、それを敢えて言う必要はないだろう。
彼がルシニアに感じる、運命的なものがまったく感じられない原理はなんなのだろうかと思案する。
単なる彼の勘違いなのかとも思うが、嗅覚や魔力自体にも作用する変化であればそうとも限らない。お互いに惹かれ合うと言うのに、ルシニアが少しも彼に感じるものがないとすれば、魔力量の差によるものなのか。
ルシニアの魔力量は一般的に見てもとても低い。だから魔法があまり得意ではないし、それを補うために座学では優秀な成績を修めているのだ。
本来王太子の婚約者は魔法の才も秀でているべきなのだが、ルシニアの品行方正な態度と学力の高さから多少大目に見られていたのだ。ましてや公爵家からの圧があれば、誰も文句は言えなかった。
とはいえ、ルシニアは既に正式に婚約者の座を降りているのだから、彼女を悪し様に語る者の中にはその魔力量について言及されることも多い。あってないに等しい魔力を笑い、そもそも王太子妃としては相応しくなかったのだと指を指される。
幾度となくその指をへし折ってやろうかと考えたルシニアだが、後々のことを思えば笑って済ませてやったのだ。




