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翌日からルシニアは、学園に通うことを初めて苦痛に感じた。
朝教室に入れば待ち構えているのはブラムバシアンで、他の生徒からの訝しむ声とともに、ファルゴの怒りの声まで上がる。そしてそれらが煩わしいとばかりにルシニアは連れ去られ、彼の気が済むまで研究室に閉じ込められる。
厳密に言えば扉は半開きなので閉じ込められているのではないのだが、それでも彼が出て行くことを許可しない限り部屋からは出られない。出ようとすれば何かしらの魔法が掛かっているのか、見えない壁に阻まれるのだから才能の無駄遣いと言えよう。
ルシニアがブラムバシアンに連れ去られてからというもの、婚約破棄を言い渡された当初は同情的な目が多かったが、今では学園には仄暗い噂が流れていた。
曰く、婚約破棄を言い渡したのはそもそも、ルシニアがブラムバシアンと不貞の仲であったため、ファルゴは無垢に慕ってくれるアグライア伯爵令嬢に心変わりをしたのだと。
もちろんこれは完全なるデマだ。ルシニアはかねてよりブラムバシアンと付き合いがあったわけではないし、誘惑をしたつもりもない。言い掛かりも甚だしいその噂の真偽が、既にどちらになっていても構わないというところが問題だった。
王家はこれを利用し既に正式な婚約破棄を公爵家に送り、メルカトラ公爵家もこれを受理した。どのような話し合いがされたのかはルシニアは定かではないが、およそ穏やかなものであったとは考えにくい。何かしらの取引めいたやり取りがあったに違いないとは思うが、今のところ知る術はないだろう。
本来王家にあるはずの醜聞は、ルシニアが被ることで落ち着いたのは確かだ。
波及を呼ぶ噂はその真偽が定かではないまま、さも真実であるかのように人々に流れる。それと同時にルシニアに今まで表立って意見することのなかった、ルシニアを快く思っていなかった者たちは、これ幸いとばかりに声高にルシニアを非難していた。
ルシニアにとっては戯言にかまける時間はないからと捨て置いたものの、いつまでも涼しい顔を崩さないことに苛立ちを募らせているのが窺える。このまま決定的になるような何かをしでかしてくれないものかと、ルシニアは餌をぶら下げた馬を思い浮かべるだけだ。
「お前の目はいつもここにないな」
そう唐突に話し掛けられ、窓に向けていた視線をそちらへと流す。
マリーゴールドの瞳は柔く細められており、眼鏡が掛けられているというのにその熱は遮られずにいた。
ブラムバシアンは研究時、眼鏡を掛けるのだと知ったのは、ルシニアがここへ連れ去られるようになってから五日目のことだった。これまでは他愛のない話をぽつぽつとするだけだったが、ルシニアへの噂が大きくなるにつれ、居座る時間が伸びた頃合だ。
彼との会話が苦痛ではなかったものの、ルシニアは研究を続けて欲しいと言った。ルシニアもただ静かに過ごしたいと告げれば、彼は了承とともに窓際に席を設けてくれた。
時折会話は生まれるが、彼は研究に、ルシニアは自身の思考の海に沈んでいることが増え始めていた。あんなにも不快だったブラムバシアンとの会話も、時折思考の海から引き揚げられるように変われば不思議と気にならない。
ルシニアは眼鏡の位置を直すブラムバシアンから目を離すと、また窓の外に広がる空へ視線を戻した。
「目がなければなにも見えませんよ」
「比喩だよ、ルシニア」
「揶揄しているんですよ」
わざとらしく名前で呼ぶものだから、ルシニアは軽口で返す。カタンッと、背後で音がしたのはその直後だ。
ブラムバシアンが立ち上がり、ルシニアの横に立つと同じように窓の外を覗く。そこにはもちろん何も無く、ただ空が広がるだけだ。視界の脇には木が立っており、時折揺れては影を揺らめかせているのだから心地好い。
穏やかで、緩やかな時間だ。ルシニアが得られない、ルシニアが選ばない時間。手が届かなかったはずのそれに、ようやくありつけたという疲労感に襲われているのだ。
ルシニアが気だるげに視線を持ち上げると、ブランの手が伸びた。ルシニアは再三女性の髪に触れることへの苦言を呈してきたが、彼はその度に魔塔を縛れるものは無いとそれを無視するのだ。そこは魔塔云々ではなく、礼儀的な問題なのだと言っても意味はなく、彼は彼のしたいようにしかしない。
どこまでも自由な男だと、ルシニアは溜息を零した。
指先が髪に触れ、優しく梳いていく。滑らかで丁寧な手つきに、ルシニアは目を細める。
「あのような侮辱に腹は立たないのか?」
ブラムバシアンの声は鋭く、噂についてのことを口にしているのだろうとすぐに分かった。
ルシニアはただ外を眺めながら、静かに頷いて返す。
「いずれこの屈辱は晴らすことになるのですから、今は彼らが存分に無様を晒せば良いとしか思っていません」
「お前の苛烈なところは少し恐ろしくもあるが、それもまた美しく思うよ」
歯が浮くような台詞もブラムバシアンのような美形が言えば様になるもので、ルシニアは敢えてじとりとした目を向けるだけに済ませる。彼はそんな目すらも愛おしいと言うように笑むだけだ。
彼はルシニアに好意を向ける。何が原因なのか、何を意図しているのか。それを聞いても頑なに口にしなかった。
理由なき好意はルシニアにとって脅威でしかない。そんな得体の知れないものは受け取りたくないのだ。
だからいくらブラムバシアンがルシニアに愛を向けようと、ルシニアは涼しい顔のまま受け流す。
「ファルゴの言動もまた一因だな。あれはお前になんの恨みがあるんだ?」
「さぁ? ようやく目障りだった前任者を排除したと思ったら、今度はそれが友人を惑わせたと信じ込んでいるのだから騒ぎ立てるのでしょう。どうやら殿下の目にはわたくしが、生粋の悪女のように映っているようですから」
教室が同じなせいで、毎度毎度喧しく詰め寄られるのもいい加減うんざりしていた。
その度にアグライア伯爵令嬢がファルゴをとめたり、ブラムバシアンがあしらってくれたりするのだが、ファルゴは一向にその怒りを収めない。
正式に婚約破棄が受理されたのだから、大人しくアグライア伯爵令嬢との恋愛に耽っていればいいものの、何が楽しくて未だにルシニアに絡むのか。
皆目見当もつかない動機を聞かれても、ルシニアは首を傾げる他ない。
「あれには見る目がない。婚約破棄して正解だったな」
「ええ、おかげでこの先わたくしには当分縁談なんて来ないでしょうが。嫁き遅れる未来に胸が踊りますわ」
「なら俺がお前を貰おうか?」
髪を編んでいた手が止まり、そのまま持ち上げたかと思えばそこへ口付ける。
どんな令嬢でも、ブラムバシアンの今の顔を見たらうっとりとするだろう。事実、今までブラムバシアンの見てきた令嬢たちは皆、彼が視線を向けるだけで頬を染めた。
ファルゴの隣にいてもいなくても、彼は王太子に負けず劣らずの整った顔立ちだ。それを理解しているからこそ武器として、ルシニアに真剣な眼差しと柔らかな笑みでそう提案した。
しかし、眼鏡越しに煌めくマリーゴールドと目が合うと、ルシニアは目を丸くさせたあとに眉間に皺を寄せて不快さを露わにする。
「毒にも薬にもならないあなたが?」
貴族の婚姻は家門同士の結び付きを強めるためであり、政治的な意味合いも含まれるものがある。たとえ跡継ぎでもない次女であろうと、その血は十分に価値あるものだ。
それをただ空いているからと、貴族でもなければどこにも属さない魔塔の者が手を挙げたところで、一笑にふされるだけだ。
冗談も大概にしろと睨み付ける。
ブラムバシアンはルシニアに袖にされたことにさして驚きもせず、多少大袈裟に首を傾げて見せた。
「家門のためにならなければ、意味がないと言うのか?」
「当たり前でしょう。わたくしは貴族なのだから、己の家門のことこそ第一に考えるのです。いいえ、考えなければならないのですよ」
「詭弁だな。お前にそんな情はないだろう」
ルシニアは見抜かれたことに動揺もせず、冷えていく頭に痛みが増した。ブラムバシアンの手を叩くと、体ごと向き直る。
見上げた彼は叩かれた手に視線を向けていたが、ルシニアが体を向けるとその視線を落とす。
マリーゴールドの瞳は凪いでいて、ルシニアの瞳もまた静けさを保っていた。
「昨日今日の仲ではないのだから、お前のことは多少知れたはずだ」
「多少でわたくしのことを語るとは、愚弄しているとしか思えません」
穏やかなものとは言い難い、緊迫した空気が漂い始める。
「ルシニア。お前は少し、本音を隠すクセがあるな」
「それが貴族というものです。己の心など容易く晒すものではありません」
「俺はお前の本音が聞きたいんだ」
ブラムバシアンの目は伏せられると、彼は背を向けて研究に戻った。
存外にも、こういった時に彼は潔く引くのだから、ルシニアはさして面白くもないと鼻を鳴らす。
自分はなにも見せないのに、なぜルシニアの本心だけを欲しがるのか。
じっと見ていたが、彼の視線は既に手元の研究にしか注がれておらず、自分勝手な人と呟いた。
聞こえていないのをいいことに、これこそが本心だと笑ってやれば彼が口角を上げたのが見えた気がした。
ルシニアはその面白くなさに背を向け、またも窓の外に目をやる。空の青さに目が焼かれ、確かに自身がここにいないかのように感じる。
ルシニアはいつだって地に足がつかない心地で、けれど人に認識されて初めて今を生きていることを実感する。だからこそ、この穏やかな時間はルシニアを優しく殺してくれるのだ。
そんなルシニアに、ブラムバシアンは本を提供することが増えた。それは魔塔の蔵書であったり、王宮から拝借してきたものであったりと、種類も多岐に及んだ。
次第にルシニアの目は空ではなく、文字に向けられるようになり、ブラムバシアンがそのことに心做しか安堵していたことも気付いていた。
本は知識であり、知識は糧となる。ルシニアはそう思い、目を通していたがその大半はこれまでのものと大して違いはない。
魔法に関するものと神学に関する本に限定して望み始めるのに、そう時間は掛からなかった。
それらはこれまでの知識が宛にならないことが多く、この世界でも同様だった。ルシニアの邸宅にも多くの本があるが、それは殆ど読み終えていた。
ブラムバシアンから渡される本はあらゆるところから集められ、ルシニアが手にした事の無いものも多く含まれる。
静かな部屋にページを捲る音と、何かを書き連ねるペンの音が響く。
2人は何やらいかがわしいことをしているに違いないと、噂があらぬ方向にも向かいつつあるが、真相で言えば2人の間には常に沈黙が横たわっていた。言葉を介することよりも、静寂に包まれている割合の方が多いのだ。
ルシニアが神学に関する本から顔を上げると、それに合わせてペンの音がやんだ。ルシニアが凝り固まった体を解すように伸びをしていれば、ブラムバシアンはルシニアが座る1人がけの椅子の肘掛けに腰を下ろしてくる。
行儀が悪いと睨んでも、ブラムバシアンは何処吹く風とばかりに手元を覗き込む。
「ルシニアは勉強熱心だな」
「あなたに言われても喜べないですわ」
若くして次期魔塔主に定められているばかりか、一日中殆どの時間を研究に費やしているブラムバシアンに比べ、ルシニアはただこの部屋にいる時に本を読んでいるだけ。
それも知識を身に付けたいというよりも、今となってはただ探しているものがあるからという理由の方が強い。
そんなところへ賛辞を送られても、ルシニアは素直に喜べずに突き返す。
「魔法に関する書物を求めるのは魔法を修める者として理解出来るが、神学に関する書物まで求める理由はなんだ?」
ブラムバシアンはこれまで訊いて来なかった疑問をここでようやく口にした。本当なら求められたその時に聞きたかったのだが、それではルシニアは答えない。
答えるくらいなら要求を引き戻すような女なのは、ブラムバシアンにはとうに知れている。
求めるものを与え、その見返りを求める状況を作り上げ、ようやくその問いは正当に回答を求められる。
案の定、彼女は渋々と言った面持ちで重く口を開いた。
「......魔法は神からの賜り物。魔法を知るには神を知る必要もあると、そう考えただけですわ」
ルシニアの髪に手を伸ばせば、彼女の肩が僅かに跳ねる。それだけが理由ではないと、その仕草で悟る。
「魔法は既に本来のかたちを失っている。“断わりの言葉”が失われたのが最たる例だろう。神の齎したものといえど、神代のものとは異なる」
「起源を知るのも大事なことですから」
「現代のものは既に起源も違うと言えるものだよ。そもそも、神学に在るのは神の教えについての文言だけだ。魔法の起源など、そこに記されているわけがない」
「神の御業として描かれているのではないのですか?」
「神の御業と魔法は違うものだ」
サンドベージュの髪を指先で撫でながら、彼は本にも書かれていないことを口にする。
なぜ分かるのか、そう問おうとして考えつく。
だがそれを容易く口にしていいものかと逡巡していると、彼の指がルシニアの髪を弄ぶ。




