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ルシニアは研究室として勝手に使われている部屋を出ると、無人の廊下を歩く。あまり人が立ち寄るような場所では無いため、自身の足音がいやに耳に響くように感じられた。
ルシニアは運命という言葉を頭の中で反芻していた。
幾度となく見た現実。幾度となく突き付けられた事実。微小な変化はあれど、ルシニアが手放すように見送ったそれら。
憎しみを向けられた。浅ましさを笑われた。無力さを嘆いた。もう思い出せないことに涙した。
ルシニアは喉の奥の苦味に息を吐く。
休み時間に入った今、徐々に人々の声が鮮明になってくるのに反して、ルシニアの頭はずっと抜け出せないままだ。運命という言葉が呪詛のように絡み付き、ルシニアが何をしようとも逃れられないと嘲笑している。
気付けば自身の所属するクラスへと辿り着いており、ルシニアが姿を現すと教室内は静まり返る。
好奇の目と侮蔑の目。両方が入り交じったそれはルシニアを今へと引き戻すには十分で、ようやく地に足が着いたような心地になる。
涼しい顔で何事も無かったかのように自身の席に着けば、彼らはひそひそと何事かを囁いている。ルシニアにはその声が言葉としては届かず、けれど聞く気もないので無視をする。髪型についての指摘の声も含まれているだろうが、それらを気にしたところで、ルシニアは何の意味もないのだからとすました顔だ。
「そなたが男を容易く惑わせるような女だとはついぞ知らなかった」
突然ルシニアの前に来たかと思えば、ファルゴが軽蔑の目でルシニアを見下ろしていた。
言葉はキツくルシニアを責めるようで、何がそこまで彼の気に触るのかとルシニアは微笑む。
「わたくしも殿下がそこまで直情的な方とは存じませんでしたわ」
「笑わせるな、女狐。本性を現したかと思えば、わたしの友人に手を出すとは。そなたの毒牙にブランが簡単に堕ちるとは思わぬが、それでも黙って見過ごすわけにはいかぬ」
そう義憤に駆られたファルゴを見上げながら、ルシニアは呆れた気持ちでいた。
なんとも友達思いなことだと、他人事のように思う。ただ不快なのは、ルシニアがブラムバシアンを誘惑しているとされていることで、ルシニアはそのような気持ちは一切ない。
何のメリットがあって主要人物に近い登場人物と今さら親密になろうと言うのか、そう問おうにもこの世の根幹を知らない者に言ったところで、狂ったのではないかと妄言扱いされるのが目に見えている。
「随分な物言いですね、殿下。わたくしがあの時、喜んであの方について行ったように見えたのでしょうか」
「そなたには演技くらい容易いであろう。だがブランに演技をするような理由はない。ブランがそなたのような人間に手を出すこともないのだから、そなたがブランの目を曇らせた以外になかろう」
なんとも勝手な言いがかりに、ルシニアは閉口する。
それがファルゴにとっては本当のところを突かれたせいで黙るしかないと見えているようで、返す言葉もないだろうとばかりに口元を歪めている。親の敵でも取ったかのような振る舞いには、ルシニアとて憤りを感じる。
だがこれもまたルシニアの与えられた役によるものだと理解しているからこそ、冷静さを欠くことなく表情もまた変わらない。
「王太子であろうと、尊厳を踏み躙るようなお言葉は慎むべきかと思いますわ。ましてや真偽の定かでない事柄への断定は、後々殿下の首を絞めることになりかねません」
「そなたがわたしに説教をするのか? 真偽など、とうに知れている。そなたの愚かさは私がよく知っているのだからな。なにを企もうとも、そなたの愚行を見過ごすことはないと思え」
「愚か――わたくしを愚かとおっしゃいますか」
ルシニアはすぅっと目を細める。
途端に薄ら寒い空気が教室に流れ、傍観しているだけの級友の顔が強ばっているのが視界に入る。だがファルゴも臆することなく、再度愚かだと口にする。
相手は仮にも王太子だからと、流すことを優先にしていたが、あまりにも埒が明かない論争は面倒でしかない。ルシニアは罰せられることが怖いのではないし、その先で死んだとて構わない。
誰かが息を呑んだ音に合わせて、これまでになく妖艶に笑んでみせた。
それは誰もが手を伸ばしたくなるような笑顔であり、同時に誰かに背筋を撫でられるような薄ら寒いものだった。
「少し、不快ですわね」
ただ一言、呟くように放たれた。
「わたくしを愚かだとするのであれば、ファルゴ・オルダ・レクティオ王太子殿下。あなたは一体、なんなのでしょうね?」
「ルシニア・フォルト・シルヴァトス! それは王族に対する無礼だと知っての言葉か!」
「ええ、知っていますし理解もしています。だからこそ問いましょう。あなたは一体、なんだとおっしゃいますか?」
「そなたの言動は目に余るぞ! メルカトラ公爵家の問題にもなるのだ、慎むべきは己と知れ!!」
「目に余る、とはどの目のことでしょうか。わたくしには殿下に目が付いているとは、到底思えないのですが」
ファルゴの激しい憤りに反し、ルシニアはどこまでも静かだった。だがその静けさがより恐ろしいものを内包しているのだと否応なしに察せられ、この場にいる誰もがそこへ入り込むことは出来ない。
ファルゴの怒りを隠さない荒い声よりも、ルシニアの穏やかでありながら一言一言に含ませる毒の方が余程恐ろしいのだ。不敬罪に問われても文句の言えない言葉に後悔など微塵もなく、かと言って我を失っているようにも見えない。
あくまでも理性を保ったまま、自身の言葉の重みを知ったままにファルゴを切り捨てる。その笑顔が何よりも級友たちに言い知れぬ恐怖を植え付ける。
ルシニアがファルゴに苦言を呈した姿は見たことがない。たとえ婚約者というものがありながら、他の女に現を抜かす姿を目の前で見せつけられても、彼女は何も言わなかったのだ。嫉妬に歪むことなく、見守るように微笑んでいただけのルシニア。
それがただ、見逃していただけだと知るには遅過ぎる。ルシニアは大人しい女ではなく、あくまでも理性的な女なだけなのだと。
「王になろうというお方が、そのように感情に身を任せていてはなりませんよ、殿下。そのように、みっともない姿を晒すのは、それこそ目に余るというものです」
怒りに震えるファルゴを見据え、ルシニアは幼子を諭すかのように柔らかな口調のまま語る。
「わたくしを愚かだと言うのであれば、殿下、あなたはきっと浅ましい。そう返さざるを得ないでしょう。婚約者が在りながら、他の女と恥ずかしげもなく恋仲であることを公言し、公爵家に泥を塗るまでか、王家の意向にもそぐわぬ態度。さて、愚かなのは一体どちらだったのでしょうか」
ちらりと視線を向けた先にいるのはアグライア伯爵令嬢だ。彼女はファルゴの言葉に困惑した様子を見せていたが、ルシニアがそう語り始めれば顔を真っ青にして俯いていた。
彼女に対する恨みはない。まして嫉妬などするはずがない。もともとルシニアがファルゴに向ける感情などないに等しいのだから、恋する人を奪ったと思われては堪らない。
ルシニアが目を向けたのは、家門を背負っていることの自覚があるのかを問うためだ。
いやむしろ、自覚があるからこそそう出たのかとも考えたが、彼女の性格上たとえ家長の命でもそれはないだろうと断言出来る。さらに言えばこれは決められたシナリオであり、彼女は紛うことなき恋によってファルゴとの仲を得たのだ。
「貴族の婚姻は家門の結び付きを強めるため。ましてや王族ともなれば、臣下の忠誠を求めるものでもあります。幼少の頃より定められたそれを、今さら色恋によって反故にされたとあれば王家への信頼が揺らぎます。わたくしは、今まで遊ぶことには許容していましたが、そのような心を蔑ろにされたばかりか、娼婦のようだとおっしゃられては黙ってなどいられません」
「はっ、今さら王太子妃の地位が惜しいと言うか」
「それこそ勘違い甚だしいですわ。元より執着のないものに対して惜しむべき心など、持ち合わせていませんので」
見上げるファルゴは苦虫を噛み潰したような表情で、最早返す言葉を失っていた。
教室内には息を飲む音さえもなく、しんとした沈黙だけが痛く全員にのしかかっていた。
「王となるあなたに必要なのは個を想うことではなく、国と民を思う気持ちだということをお忘れですか?」
ルシニアの言葉にファルゴはますます眉間の皺を濃くし、その麗しい顔立ちは険しいものとなる。
貴族の婚姻に恋愛などという浮かれたものがないのと同様に、王族の婚姻にはさらに政治色が複雑に絡まり合う。そのことを、よもや忘れたわけではあるまいと、他ならぬルシニアに問われればファルゴとて自身が棚に上げていた気持ちを思い出す。
アグライア伯爵令嬢を選んだことに後悔はないが、王太子として婚約者であるメルカトラ公爵令嬢を蔑ろにしたことは正しいとは言い難い。ましてそれは王家と公爵家の決定に異を唱えるものであり、いくら王太子と言えども下手を打てばその地位を剥奪されかねない行いだ。
王家は王として国の頂点に立つが、かといって他の貴族をおいそれと袖に出来るものではない。
「わ、私が、私がファルゴ様に想いを寄せたせいです! 私がファルゴ様に言い寄ったから」
アグライア伯爵令嬢は、涙をぽろぽろと落としながら立ち上がる。ルシニアに懇願するように言う姿は、弱々しくありながらもファルゴを守ろうとすることが窺える。
自責の念に駆られていたところ、ルシニアの言葉によりその愚かさを自覚してしまえば、彼女は慈悲を乞うしかない。ルシニアの言葉は正当性のあるものであり、非道であったのは自身の方であったと嘆く。
ルシニアは立ち上がって彼女の前に立つ。
ルシニアより少し背の低い彼女は、涙を零しながらも目を背ける訳にはいかないと、ふるふると震えていた。
これではまるで、ルシニアがいじめているようではないかと嫌になる。ヒロインのあまりのヒロインさに呆れながら、自身の悪役さ加減にもほとほと嫌気がさすのだ。
正論は時として、ただの暴力だとルシニアは微笑んだ。
細く長い指先でアグライア伯爵令嬢の涙を掬い、優しく頬を撫でた。
「受け入れたのは殿下なのですよ。あなたが恋に浮かれることがあっても、殿下はそれに溺れてはならなかった。そういう話なのです。だからあなたの涙は意味が無いし、あなたの綺麗な目が零れてしまうのは勿体ないですわ」
静謐さで隠した毒を内包する少女と、涙に濡れるも勇ましく可憐な少女。正反対に見えるが、二人が並ぶ姿は目を奪われるように美しかった。
でも、と涙を流すアグライア伯爵令嬢に、ルシニアはハンカチを取り出す。それはブラムバシアンから返却されたものではなく、今朝持参したものだ。
「アグライア伯爵令嬢、あなたは貴族の娘。アグライア伯爵家の娘。そのように、人前で涙を流すことはやめなさい。あなたはもっと、気高く思慮深い女性なのだから」
「――っ、申し訳、」
アグライア伯爵令嬢が言葉を続ける前に、ファルゴがその腕の中に彼女を閉じ込めていた。
その瞳は怒りに未だ燃えているようで、悪女から愛する人を守ろうと睨んでいる。ただ言い返すこともなく、ルシニアを見続けることしか出来ない彼に、無力さを味合わせたのは気分が良かった。
ルシニアが微笑むとちょうど教師が部屋に入って来て、立ち込めた空気の悪さに困惑の声を上げた。それに対して誰も返せずに、ルシニアもまた静かに席に戻る。
授業が始まってもなお、空気の悪さは残ったままであり、ブラムバシアンの席が埋まることもなかった。




