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ブランを見上げるかたちとなって、ルシニアはもう一度頭の中の記憶を引き出してみる。やはりこの男に関する情報はあってないようなものだ。
間違ってもおじゃま虫の悪役令嬢であるルシニアと関わることのない、そんな登場人物であったはずだ。なにがどうしてそうなったかと言えば、もちろんルシニア自身の行動の結果だが、突然の変化過ぎてついていけない。
ルシニアの頬に伸ばされた手を避けようとするが、その手は指先から滑るように頬を捉える。そして、柔く包む手からじんわりとした熱が覆い、腫れが一気に引くどころか、口の中の傷さえも癒えていくのが分かる。
その熱は徐々に消え、離された手の行方を目で追っていた。
「お転婆なようには見えなかったが、なにかに激しくぶつけでもしたのか?」
彼は隣に腰掛けると背もたれに肘をかけ、手に顎を乗せてこちらを見る。それだけの仕草だが、なんとも絵になるでは無いかと感心する。
ファルゴとはまた違った整った顔立ちに、ルシニアはふいっと顔を背けた。
「昨日今日会ったばかりのあなたが、わたくしのなにを見たと言うのでしょうか」
その言葉に喉を鳴らして笑うブランは、ルシニアに手を伸ばそうとする。
「今日は感謝がないな。それに、随分と冷たい」
軽く叩き落とされた手をわざとらしく振り、心外だとばかりに眉をひそめる。
ルシニアはじろりと睨め上げた。
そんな風にしてみても、マリーゴールドの瞳から何を考えているのかまったく読めず、厄介とばかりにまた目を逸らす。
「恩着せがましい人だとは思いませんでしたわ」
「昨日今日会ったばかりの俺の、なにが分かると?」
自分の言葉を返されたルシニアは、怒りではなく呆れを覚える他ない。
怒りを滲ませるとでも思っていたのか、ブランは意外だとでも言いたげな顔をしていたのが視界に入り、自身を一度落ち着かせるためにも殊更に長い溜息を吐いて鎮める。
いちいち腹を立てていてはキリがない。ルシニアは、そう心の内で呟きながら向き直る。
「ではお互いなにも知らないので、わたくしは失礼させていただきます」
付き合ってられるか。
やっと解放されたばかりだと言うのに、なぜこのように他者と関わらねばならないのか。それも主人公たちとよろしくやっているはずの人物とだ。
何らかの悪意が働いているかと疑いたくなるような、そんな出会いなど、原作を回避した時点ですべて自動回避になる特典を、そろそろ付けてくれてもいい頃合いだ。
もう何度目だと思っているのかと憤慨してみても、ルシニアの意見など誰も汲み取ってはくれないし、汲み取ってくれているのならルシニアがこうなることもなかった。
ルシニアは行き場のない怒りを散々に内心で吐き散らし、ブランには満面の作り笑顔でそう告げる。
だが、目の前の男はどこまでもふてぶてしいもので、何の気なしに口にするのはルシニアにとってまさに最悪なもの。
「なぜ? 今から知ればいい話だろう。人の縁は大切にするものだと、俗世では言うんじゃないのか?」
まるで自身はもう俗世の者ではないかのような口振りだ。口振りでもなく事実なのだが、それでも純粋さが垣間見えてしまえば、その向こうにある偏りがやたらと目に付いた。
人の世に身を置きながらなにをと、腹に据えかねるものが込み上げて呑み飲む。極力顔には出さないように、表情を取り繕う理性を掻き集めることに集中した。
「悪縁は断ち切った方が良いとも言いますから」
「悪縁か。短時間で随分と嫌われたものだな」
「あら、好かれるとでも思っていましたか?」
「好意を得るのには時間が掛かるとは思っていたが、敵意を向けられるのは存外容易いことなんだな」
まったくもって話にならないと、ルシニアは頭を抱える。
会話は出来ている。出来ているというのに、なにかが致命的に噛み合わないというか、なにを言っても彼はそれを上手い具合にいなすのだ。
なによりも腹立たしいのは、そんなやり取りをまるで楽しいと言わんばかりに目を細めながら行っていることで、ルシニアは何度目かの悪態を内心でこれでもかというほどつきまくる。
何故こんなにも掻き乱されるのか。何かしらの要因があるに違いない。
「ブランだ。ブラムバシアン・ウィル・エニウム、ブランと呼んでくれ」
手が差し出され、ルシニアはそれを見詰められる。
握手を求められているのだろうが、どうしてここまでの会話から握手をしようなどと思えるのか。
ルシニアは、胸中にある彼に対する評価を正直に吐露してしまおうかとも思い、やはり得策ではないとその考えを打ち消す。
「......あなたには、誠実さが見えません」
ルシニアは常に貼り付けていた笑顔を消し、敢えて真顔でそう告げた。
彼もまたその動きを止め、ルシニアを見ていた瞳が鋭くなるの同時に、その空気が塗り替えられる。
下手なことを言ったという気持ちもなく、確信を持って口にしたそれには確かな手応えがあった。
ブラムバシアンはおもむろに立ち上がると、それから扉に手をかけると完全に閉め切った。
パタリと無情にも閉められた扉に、ルシニアはようやく退路を確保しなかった自身の過ちに気が付いた。気付いたところで唯一の出入口はブラムバシアンが押さえており、ルシニアはやられたとばかりに唇を噛んだ。
ブラムバシアンは扉を背に、ルシニアへ向くと腕を組んで品定めをするかのような目に変わる。
「人々へ誤解を招くような印象を与え、さらにはわたくしに恩を売るかのような振る舞い。かと思えばわたくしに興味を示す言葉で試して、一体なにが目的なのかは口にしない。回りくどい方なのですね」
ここで乱暴な真似はブラムバシアンにとって悪手だ。だからこそわざと挑発し、彼が扉から離れるのを誘う。
怒りを引き出せたら、扉の前から動くかもしれない。そんな風に願いながらわざとらしく、馬鹿にするように鼻にかけた物言いをする。
だがブラムバシアンは顔色を変えず、座るルシニアを見下ろしたままだ。
「人はこういうことを好むのでは?」
「社交界ならいざ知らず、貴族でもないあなたが腹を割らない道理があると? わたくしのことを上辺だけの言葉で籠絡出来るなどと思っているのであれば、わたくしは随分と安く見られているということ。はっきり言いますと、わたくしはあなたに対し、不快感を覚えているのですよ」
ブラムバシアンを捉えたチャコールグレーの瞳に、怒りが確かに煮えている。ぐつぐつと熱いそれを見て、ブラムバシアンは何やら思案したかと思えばこれみよがしに眉をしかめた。
不快だと面と向かって言われたことに気分を害したのかと、ルシニアはその顔に怯む。怯んでもなお凛とした表情を保っていられるのは、ただのこれまでの蓄積だ。努力の結果と呼ぶほどではないが、それでも経験は少なからず実を結ぶものだった。
「女性――特に俺と同じ歳頃の女性は少し強引でキザな台詞に弱いと聞いたが、人の好みにも寄りけりなんだな。加えて、婉曲な表現を好む貴族が多いとあるが、時と場合が重要なのは想定外だった。......すまないな、俺はどうしたらお前の不快感を拭ってやれるだろうか?」
独り言のように呟いたかと思えば、ルシニアに懇願の眼差しを向けるブラムバシアン。
ブラムバシアンは学園に入る際、自身の師匠である現魔塔主に俗世について教わっていた。ブラムバシアンは幼少の頃より俗世と離れ、魔法に没頭していたためか、少しばかり他者との関わることが苦手だ。
王太子であるファルゴとは交流が少なからずあったのだが、それでもブラムバシアンにとって友人として認識するほどのものではなかった。実際にはファルゴからは友人であると、なんなら親友であるとさえ思われているというのに、ブラムバシアンにとって彼は他者の1人でしかない。
魔塔主は友人の作り方として、ブラムバシアンの顔の良さを活かした交流法を教えていたつもりだったが、如何せん相手が悪かった。ルシニアでなければ彼は教わった通り実践するだけで、それだけで想定以上の結果を出せていたに違いない。
ルシニアはどうしたら良いのか本当に分からない顔をしているブラムバシアンを見て、胸の内にあった小さな憤りが小さく萎んでいく。まるで路頭に迷った子供のような、そんな顔をしているのだ。
それがまた演技であるのなら大したものだが、嘘にも感じられずに戸惑うばかりだ。
「目的があるのなら、それをおっしゃってください」
依然として扉の前に立っていることから、なにも許しを得たいだけではないのだろう。まして意図を問う言葉に対して扉を閉めたのだから、その内容は秘匿したいものであることも推察出来る。
出来ることなら聞きたくないが、それを聞かねばこの場を離れることすら叶わないことに歯噛みしたくなる気持ちが声色に現れる。
「目的と呼ぶほどのものではないよ。お前と静かに話がしたかったし、お前の頬の傷も治したかった。それだけだ」
「ではもう話もしましたし、傷も治して貰いました。感謝を求めるのならばいくらでもしましょう。そのように扉を塞がれていては、何かまだあるのではないかと思えてなりませんので、どうかそこを退いて貰えないでしょうか」
「このまま教室に戻ったところでファルゴに騒がれるだけだが、それでもまだ戻りたいのか?」
「関係ありません。あなたとこの空間にいることよりもマシでしょうから」
「俺のなにがそこまでお前に嫌悪させるのか、聞いても良いか?」
なおも会話を続けようとするところにも腹が立つが、ルシニアは最早目を見ることも無く顔を背けて言う。
「わたくし、殿下に婚約破棄をされたばかりなのですよ? 最早なんの使い道もない女に近付くのは、なにか良からぬ企みを抱えている者だけとしか思えませんから」
しおらしく、ファルゴに振られた女であることを演じながら、ルシニアは冷めきった気持ちでいた。
ただその言葉は本心であり、いくら魔塔の者と言えどこのタイミングで近寄るならば、何かしらの悪事に加担させられるのではないかとも思えてならなかった。
ルシニアは、悪事を働くことに抵抗があるわけではなく、悪事を働くこと自体が面倒なのだ。だからこそ悪役令嬢という役割を与えられていたものの、悪役らしい悪事はしたことなかったし、すべてにおいて放任主義であった。
ファルゴがヒロインと仲良しであるのを見ても素通りし、ヒロインが気に食わないと陰口してきた他の令嬢の言葉も聞き流す。反転してヒロインに取り入ろうとルシニアが悪し様に言われようと、それすらも涼しい顔で受け流していたのだ。
振り返ってみれば、ルシニアがまともに婚約者としての役を演じたのは社交会のパーティーと、昨日の断罪イベントでの出来事だけだ。
公爵家の令嬢は演じれど、婚約者は演じない。
だが他人から見ればその違いは微々たるものであり、だからこそルシニアに同情的な目も少なくなかった。それに混じる悪意の篭った目がいい気味とばかりに歪んでいたのは知っていたし、そこにブラムバシアンがいなかっただけで含まれていないと言い難い。
昨日は何も知らなくとも、今日は何かしらの意図があったと考えてもおかしくはない。
彼はファルゴに対して辛辣な言葉を掛けていたが、それもルシニアを油断させるためのものだとしたら食えない男だ。
ルシニアは婚約破棄され、文字通りなんの使い道もない女になったのだ。本来であれば既に退場している身なのだから、主要キャラに近付きたくない。
利用しようとするのなら、ルシニアは全力でもってこれを拒否するまでだ。
「お前のその目がファルゴが原因と言うのなら、ファルゴの目を焼いてしまうしかないな」
しれっと、そんなことを言うブラムバシアン。
「俺がお前と仲良くなれないのはファルゴが原因なのだろう? ならば、ファルゴを消せばお前は俺と仲良く出来る。そうだろう?」
「そんなわけないでしょう!?」
ルシニアは思わず大きな声を上げていた。
なんという短絡的な思考回路だ。魔塔は俗世と離れていると言えば聞こえはいいが、単なる世間知らずも良いところ。その上自分本位な考え方にはルシニアも目を見開いた。
マリーゴールドの瞳が分からないとばかりにルシニアを見つめてきて、隠すことも無く溜息が出てしまう。
「あなたは、何を口にしているか理解しているのでしょうか」
「人は自身の言葉を理解しないことがあるのか?」
開いた口が塞がらないとはまさにこのことで、ルシニアの方が途方に暮れたような気持ちになる。
「王太子殿下に向かってその言葉は、反逆罪に問われかねない言葉です。たとえあなたが魔塔の者として罪に問われないとしても、わたくしが共謀罪で捕らえられかねません」
「そうか、すまない。俺の言葉でお前が罪を被るのは望まない」
「ええ、どうかお言葉にはお気を付けください」
落ち込んで肩を落としたブラムバシアンは、本当に申し訳なさそうな顔をしている。
ルシニアは段々と目の前の人物の危険度が下がると同時に、面倒くささが一段と上がったのが見えた。仲良くしたいと言いながら、ルシニアを窮地に陥れかねない発言に、またなにを言い出すか分からない爆弾のように見えてしまう。
そんなもの抱えていたら穏やかな暮らしも、怠惰な余生も過ごせるはずがない。ルシニアにはそんな余裕が無いのだ。




