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渡り鳥のあなた  作者: 加永原
第1章
4/24

3

 馬車の中は一人なので、静かに物思いに(ふけ)るには最高だ。時折小石を踏み付けて跳ねるのを気にしなければ、カーテンの隙間から景色を眺めているのは飽きないでいられる。

 左の頬に手を当ててみると腫れは収まったものの、鈍痛が残っていてルシニアは思わず目を(つむ)った。少しでも赤みを隠すために施した化粧は、口元に貼られたテープによってあまり意味を為さないだろう。

 流れる景色に視線を戻したものの、既に学園には到着したようだった。御者の声に扉を開け、手を取られて降り立つ。

 昨日のことは既に学園中に広まっていることはルシニアも知っており、向けられる視線は気にならなかった。ただ口元に怪我をしたであろうことは誰の目にも明白で、何かあったのではないかとひそひそと小声で(ささや)く声が耳に入る。

 それらはすべてルシニアの意識を向けるほどの影響力はなく、常と変わらぬ微笑みを持って自身の教室へと向かうのだ。いつもなら挨拶を掛けてくる人たちも、今日ばかりは皆一定の距離を持って見ているだけだ。

 腫れ物扱いされたところで痛む心もなく、ルシニアは顔色一つ変えずに進んで行く。

 ルシニアが扉を開けると教室内は静まり返り、視線が一身に注がれる。ルシニアは先日婚約破棄を言い渡された王太子と、後釜に据えられたアグライア伯爵令嬢とは同じ教室であった。

 部屋の中には緊張感が生まれ、誰もが口を閉ざして行く末を見守る中、ルシニアは涼しい顔をしたまま自身の席に着く。

 まさか昨日の今日で来るとは思っていなかったのか、視界の端に映った王太子は目を丸くしていた。

 滑稽(こっけい)な顔をしないで欲しいと思いながら、ルシニアは授業の用意をする。室内は完全に冷えきった空気をしており、言葉を発することに抵抗を覚えるほど重苦しかった。

 そんな中、ルシニアに好き好んで話し掛けようとする人などいないだろう。

 アグライア伯爵令嬢は、罪悪感に俯いているのが見えた。そんな彼女を王太子であるファルゴが慰め、ルシニアの視線に気付くと睨み付ける。

 責任転嫁も良いところだと目を逸らすと、じっとこちらを見詰めている視線に気付く。とはいえ、それに気付いたのはルシニアが視線を動かしていたからで、そうでなかったらこんなにも色んな目がある中で気付きようがなかった。

 マリーゴールドの瞳がルシニアと合う。

 普段ならばその席は空席で、どんな授業にも顔を出さない幻の生徒。幽霊学生と密かに陰で言われるくらい、姿を現さなかったはずの席の主が座っていた。

 斜めに後ろを向き、壁際のその席は陽射しが緋色の髪に当たって淡く見える。

 あっ、と声を出さなかったのは、口を開いたものの吐息だけが漏れたからだ。

 ルシニアにはその顔に見覚えがあった。昨日、ルシニアに硝子を降らせた男であり、ルシニアの手の傷を癒した男だ。

 目が合うと僅かに目を細めた彼は、おもむろに席を立つ。

 ルシニアの存在が目を引いていたものの、幽霊学生が突然姿を現しているのだ。他の生徒にとっては彼のことも当然関心を引くもので、その動きに合わせて皆の視線が一斉に向いたのが分かった。

 室内は依然として静かなままで、誰もが固唾を飲んでその行方を目で追っていた。

 彼はルシニアの前に来ると懐に手を入れ、何かを取り出すと差し出した。そこには真っ白なハンカチが綺麗に畳まれた状態であった。

 一瞬思わず眉を顰めてしまったものの、それが先日のハンカチであることを思い出し、男を見上げてしまう。付着していたはずの血液は綺麗に抜かれており、新品かと見間違うほどに皺一つない状態だ。


「すまない、返しそびれてしまったんだ」


 男はルシニアの手を取ると、そこへハンカチを乗せる。

 女生徒の視線が羨望に変わるのを肌で感じながら、ルシニアは引き攣りそうな頬に鞭打って微笑む。


「捨てていただいて構わなかったのですが、ご迷惑をおかけしたようですね」


「いや、こうしてまたお前に会える口実が出来たのだから、なにも苦ではなかった」


 その言葉にはどよめきが生まれる。

 なんてことを口走っているんだと、正気を疑うような眼差しを送る。何かに心を動かされるほどの言葉を交わした記憶はないからだ。

 けれど男は意に介した風もなく、さりげなくルシニアの手の甲にキスを落とした。

 女生徒からは甲高い悲鳴、男子生徒からは口笛が送られる。

 どんな状況だこれはと、混乱しそうになる頭でいれば、彼はルシニアの頬に視線を向けている。


「お前に傷を付けていいのは俺だけかと思ったが、どうやら違うらしいな」


 すっと、頬に伸ばされた手が口元に貼られたテープに触れ、思わずその手を叩き落としていた。

 野次と好奇に包まれていた空気は一瞬にして冷めきり、誰もがまた一様に口を噤む。


「あなたには、わたくしからの感謝を受け取る許可しか与えていません。どうか、不躾(ぶしつけ)に触るのはやめていただけますか」


「では改めて、お前に触れる許可を貰えるだろうか」


 ルシニアを見詰める瞳には懇願の色が含まれており、それが妙に色っぽい。昨日とは打って変わり、軽薄さが浮き彫りになったような態度を取る。

 誰かの生唾を呑み込む音が聞こえ、ルシニアは返答に迷う。

 昨日の今日でなんだってここまで絡んで来るのか。王太子に婚約破棄をされたことで、公爵家に取り込もうとするような家の者ではないかと勘繰ってしまう。

 ルシニアに何かしらの期待をしているというのなら、それは到底叶えられないものであり、ルシニアもまた自身を安売りするつもりは毛頭ない。

 原作のルートを外れた今、気ままに細く長く、早く死ぬことを望んでいるだけなのだから。

 断りを入れようと口を開く前に、大きな声によって遮られる。


「ブラン! ようやく姿を現したかと思えば血迷ったか! そなたのような男がそんな女に惑わされるとは!!」


 ルシニアは、この言葉にはさすがにじとりとした視線を隠すことなく送る。ルシニアの視線に動じることもなく、ファルゴはブランと呼ばれた男に尚も訴える。


「その女はそなたのような者が触れるほど、綺麗なものではないのだぞ!」


「ファルゴ様! お言葉が過ぎます!」


 すかさずアグライア伯爵令嬢があんまりだと宥めるが、聞く耳を持たないファルゴは尚も続けようとする。

 しかし、ブランが大きな溜息を吐いてその言葉を遮ってしまう。そして、心底軽蔑しているという、突き放すような視線で王太子であるファルゴを睨み付ける。


「――俺はお前のことも綺麗だとは思っていない」


 汚らわしいとさえ思っていそうな、そんな凄みを持たせた声色だ。

 ぐっと堪えるようにファルゴは黙り込み、そんな彼に追い打ちをかけるように吐き捨てる。


「盲目的であることを非難するつもりはないが、今のお前では到底王となる素質があるとは思えんな」


 学園内では貴族の階級は適用されない。

 というのも、魔力を持った者たちが集うのだから、そこには貴族もいれば平民もいる。それらの垣根を越え、新たな関係性を築き他者と関わる術を知る。そして、自身の立ち位置を知ることで将来人脈を築く上での素養を磨くのだと、教育理念を掲げているのだ。

 だがそうは言っても、身に染みている階級制度から貴族と平民との交流はほとんどないようなもので、貴族内だけでも上下関係は家柄によるところが大きい。

 そんな中、本来であれば誰よりも尊ばれるべき存在である王太子に面と向かい、王の素質を疑うなど正気の沙汰ではない。いくら学園内とはいえ、それが外に知られれば王族に刃向かった愚か者でしかないのだ。

 目を剥く他者など気にならないのか、ブランはファルゴを鼻で笑い飛ばした。


「失礼ですが、それはあまりにも、ファルゴ様に対して無礼ですわ」


 アグライア伯爵令嬢が、ふるふると震えながらブランに抗議の声を上げる。

 恋人が侮辱されたことに我慢ならなかったのか、恐怖を押し殺してでも立ち上がるその姿には好ましいとルシニアは思う。清廉潔白で、間違ったことには違うと言えるだけの度胸があるのがアグライア伯爵令嬢で、その真白い信念には目を見張るものがあった。


「いや、よい。構うな、ユーリ」


「ですが、ファルゴ様っ」


 アグライア伯爵令嬢に庇われるかたちとなったファルゴは、苦虫を噛み潰したような表情のままに(たしな)める。

 それでも納得がいかないと食い下がろうとするアグライア伯爵令嬢だが、それを制するように口を開いた。


「あれは魔塔の者だ。どれだけ不遜であろうと、法に縛られる者ではない」


 魔塔――それは不可侵の者たちが属する総称だ。

 この世界において魔塔はどこの国にも属さず、故になんの法にも縛られない。時に助言者として扱われることもあるが、彼らは皆一様に魔法の研究のため俗世に関わることは無い。

 だからこそ、何故こんなところに魔塔の者がいるのか。

 脳内にある知識を呼び起こしても、彼の情報は淡々としたものだ。いわく彼は脇役にしか過ぎず、幼少期にファルゴとの縁があったから登場しているのだと言う。

 そんな雑なキャラ設定あるのかともう一度洗っても、同じようなことしか知ることは出来ず、どこにもルシニアという悪役との接点は見当たらない。

 ルシニアが見上げるとファルゴに向けていた荒い瞳が柔らかく細められ、ルシニアの手を引いた。軽く引かれたものの、気を抜いていたからか容易に引き寄せられ、よろけたところをブランの手が支える。

 かつての婚約者、ファルゴともここまで密着したことは、社交界でのダンスを除いては初めてだ。

 ルシニアの困惑を知らずか、きゃあという黄色い声が女生徒から上がった。

 昨日の今日で新しい男を作ったように見える構図に、ルシニアは手から逃れようとするが、ブランの手は強くルシニアを抱き寄せていてビクともしない。


「ここは少し、騒がしいな」


 そう言って教室を出て行こうとするのだから、手を引かれたルシニアは半ば引き摺られるようにしてついて行く。

 授業が始まるというのにどこへ行こうと言うのか。なぜ会ったばかりのルシニアに好意の目を向けるのか。

 そんなことを聞こうと思っても口が開かない。思ったよりも混乱しているのか、それとも息苦しさから解放されたことへの安堵か。

 始業前だからか廊下には人がおらず、それでもそれぞれの教室から煩雑な声が漏れている。

 つかつかと早い足取りは、ルシニアへの気遣いなどまるでない。手を掴まれているから転びはしないものの、それでも何度か足が縺れそうになる。

 彼にされるがまま連れて行かれたのは中庭に面しているであろう教室で、ごちゃごちゃとした部屋は研究室のようにも見える。乱雑に置かれた資料と、使いかけの何かの材料。

 いかにもな雰囲気のそこに入ると、ブランはようやくルシニアから手を離した。


「すまない、あまりにも人が多過ぎて急いてしまった」


 ブランはどこかげんなりした顔をしており、魔塔の者が人間を嫌うのは本当だったのだと実感した。


「......わたくしには、あなたの歩幅は大き過ぎます」


「次があれば気を付けよう。人の手を引くというのは初めてだから、考慮が足らなかったようだ」


「あなたの場合、人ではなく、女性をエスコートする方法を身に付けたほうが賢明でしょうね」


 ルシニアは目の前の男を到底理解出来ない。

 解放感に浸ったのは認めるが、それでもこのような密室に連れ込まれるいわれはない。

 扉の前に立ちはだかるブランに、警戒心をあらわにした面持ちで見上げる。ルシニアよりも体が大きく、魔法に傾倒している割にがっしりとした体付き。緋色の髪にマリーゴールドの瞳を持つ、お世辞を抜きにした整った顔立ち。

 脇役だというのに、こんなにも見目の整った人は珍しいのではないだろうか。

 ブランはふむと、なにやら考えるような素振りを見せ、一歩踏み出した。半ば無意識にルシニアは一歩下がれば、何を考えているのかもう一歩詰め寄る。

 ルシニアは焦燥感を覚えながらまた下がり、詰め寄るブランから逃げようと、また一歩下がろうとすると何かに足が当たる。逃げられないことに妙に恐怖を覚え、ふるりと体が震えた。

 父親の威圧感には震えもしなかったというのに、目の前の男に近寄られると逃げたくなる。マリーゴールドの瞳に言い知れぬ何かを感じ、ルシニアは思わず唇を固く引き結ぶ。

 

「......っ、なにかご用がおありですか?」


 声が上擦ることがなかったのが救いだ。もしそうなっていればルシニアは羞恥に耐えられないし、貴族令嬢にあるまじきはしたなさで駆け出してしまっていた。

 努めて平静を装った声に、ブランは指をさす。


「そこに、掛けて欲しい」


 ルシニアの背後、足元の椅子に向かい指されたそれ。

 短いものの、有無を言わさぬ言葉にルシニアは従わない。


「このような、密室で男性と二人きりになるなど、許されることではありません」


 ブランは一瞬きょとんとした顔をすると、ついで視線を上向かせ、次いでにっこりとルシニアに向かって笑む。


「婚約者はいないのだから、気にする相手はいないと思うが?」


「たとえ婚約破棄されたとしても、今後新たに婚約する方に不誠実ですから」


「魔塔に誠実なんて言葉はない」


「ここは魔塔ではなく学園です」


 細められた瞳は面白くないとばかりに冷めていて、恐怖がぶり返して身を震わせる。けれど、ここで弱気な姿勢を見せるのはあまり良いとも思えず、あくまでも冷静に常識を説く。

 とはいえ、彼は魔塔の者であり、常識に縛られる俗世の者ではない。

 ルシニアの手元を見たブランは、溜息を一つ落とすと、背後の扉を半分だけ開けた。


「密室でないなら問題はないはずだ。そこへ掛けて欲しい」


 そういうことではないし、それは詭弁だと返そうにもこれ以上の譲歩はないと目で分かる。

 この場において主導権を握っているのはブランであり、ルシニアは警戒を解かないままに、取り敢えず指定された椅子に腰掛けた。

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