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渡り鳥のあなた  作者: 加永原
第1章
3/24

2

 翌日、ルシニアはいつもの時間に起きていた。気だるさは常時体に残っているもので、朝に爽快感を求めたのはいつが最後だったか。

 身を起こしたくともまだ微睡んでいたい欲求には抗えず、誰の目もないのをいいことに二度寝でもしようかと思い始める。

 たとえルシニアが公衆の面前で婚約破棄を言い渡されようと、それで学園が閉鎖されるわけではない。今日も変わらず授業はあるのだから、起きて支度をしなければならないことは承知の上だ。

 だが今日くらい、傷心のためにズル休みをしても、バチは当たらないだろう。時間になっても起きてこない主人を気遣い、部屋へとやって来るであろう侍女には気分が優れないと言えば良い。

 そう決めてしまえばルシニアは半分夢の中へと突っ込んでいた体を起こすことなく、そのまま深い底へと向かうように意識を投げようとする。

 しかし、そんなルシニアを許さないかのように、カーテンも開けられていない部屋にノックが響く。

 心地好い夢に抱かれていた体はその音に急激に現実へと引き戻され、ルシニアは一拍ののちに重たい体を起こした。


「支度はまだ終えていないのだけれど」


 支度もなにも、今日はベッドから離れるつもりはないのだが、ルシニアは扉へと向かってそう声を掛ける。

 入室の許可は得られていない侍女の声は、扉越しでも分かるほどに震えていた。


「――旦那様がお見えです」


 ルシニアはこのままもう一度横になればすぐにでも眠れたであろう。

 だがしかし、その言葉には眠気など吹き飛んでしまうのだから、目が飛び出なかったことを奇跡と呼ぶしかない。驚きは一瞬の後に疑念へと変わり、面倒なことが始まる前触れに頭が痛くなる。


「支度を終えたら直ぐに行くわ」


 かしこまりましたと、侍女の去る気配にルシニアはベッドから下りる。

 掛けてあった制服は侍女がアイロンを掛けていてくれたのか、昨日作った皺はどこにも見当たらない。それどころか新品のように思えるほどで、仕事熱心だこととシャツに袖を通す。

 旦那様――そう呼ばれるのは公爵家においてただ一人。元メルカトラ公爵家当主であり、ルシニアの父に他ならない。

 普段は自領にいるというのに、どうして王都にいるのか。

 答えは明白だ。昨日の婚約破棄が既に公爵の耳に入っているということだ。

 そうでなければ公爵がルシニアを訪ねるわけがないし、ルシニアに用がなくともわざわざルシニアがいる邸宅に来ることはないはずだ。

 叱責は免れないことは承知しているが、それでも面倒なものは面倒であり、許容しているかと言われればもちろんするはずがない。なんだって朝から怒られればならぬのかと憤慨してみても、それはやはりルシニアが責務を果たさなかったどころか、その役目をむざむざと奪われたからである。

 あぁ、まったくもって、


「面倒だわね――」


 鏡に映る自身の顔は何も考えていないようで、それでもチャコールグレーの瞳には鬱屈とした色が乗っていた。サンドベージュの柔らかな髪を耳にかけ、やる気のまったく出ない声で喝を入れてから立ち上がる。

 部屋を出れば侍女が控えており、彼女を引き連れて公爵の待つ部屋へと向かう。

 屋敷は人が少ないからそこまで賑やかなものとは言えないものの、いつもよりも静まり返った廊下はやけに長く感じた。

 扉の前に着くと侍女がノックをし、ルシニアの到着を知らせる。数秒後に入室の許可が下りると侍女の開けた扉をくぐり、重苦しい空気の漂う部屋へと足を踏み入れる。

 侍女はおろか、そこには公爵しかおらず、ルシニアはおはようございますと挨拶を口にする。にこやかにした挨拶も、公爵は侮蔑の色を孕む瞳で無視し、部屋には静寂が物理的な重さを持って支配していた。

 用があって呼んだのなら、さっさと済ませて欲しいものだと思う。思うだけで顔には出さないが、ルシニアは微笑みを浮かべたままに公爵の言葉を待つ。


「......お前は、与えられた役目すら満足にこなせないのか」


 父親が娘に向ける声色とは、到底思えない言葉だった。

 ルシニアは特段期待していたわけではないし、それでもやはりこの醜悪さには眉をしかめたくなる。

 けれど殊勝な娘を演じるルシニアは、眉を八の字に歪めて目を伏せる。自身の犯した過ちを、酷く恥じ入るように。


「申し訳ございません。わたくしには、元より到底務まるはずのない大役でした」


その言葉に公爵は目を見開いた。


「お前ごときが私の采配に異を唱えるなど、無礼と知れ! 何かしらの役には立つだろうと、そうでなくとも駒ぐらいにはなるだろうと思い生かしたのが間違いであった。男児にもなれず、母親を殺して生まれ、生かしておいてやれば不利益ばかりを生む」


 苛立ちを押さえるかのように大きく溜息を吐く公爵は立ち上がり、ルシニアの前へと歩み寄る。そして、大きなその手で持ってルシニアの頬を叩いた。

 乾いた音が部屋に木霊し、耳鳴りがする中、視界にはチカチカと火花が散る。じんじんと熱を持った頬は次第に痛みを呼び、頬を張られたのだと気付けばそれはもう一度降りかかる。

 

「お前という存在が公爵家には恥だというのに、家名に泥を塗るばかりのお前が、何故こうものうのうと生きているのだ? お前の姉を見ろ。お前のせいで満足に屋敷を出ることも叶わない。お前のせいで満足に息をすることもままならない。だというのに、お前は何故生きているのだ?」


 何度も何度も、執拗に同じ左頬ばかりが叩かれる。口の中は血が滲み、鉄の味が広がっているのが酷く不快だった。

 口を挟む暇さえ与えられず頬を叩かれ続け、理不尽な言葉を並べ立てて幾度となく生きている理由を問われる。

 なんともまぁ無意味なことをと、内心で嘲笑う。生きている理由など、そんなもの、ルシニアが知りたいくらいだというのに。

 いっそのこと殺せばいいのに、それすらも出来ない小心者の父親に、ルシニアは腫れた頬のままに微笑んだ。


「お前のような醜悪な者が生まれたことこそが、我がシルヴァトス家の最大の不幸だ」


 勢いよく叩かれたせいか、体勢を崩して床に倒れ込めば、蔑みの目で見下ろされる。


「――ご満足、いただけましたか?」


 ルシニアはやはり、変わらぬ微笑みでもって公爵を見上げた。

 公爵はこれでもかというほど顔を歪めたかと思うと、身を屈めてまでルシニアの頬を叩く。執拗に何度も叩き、それでも笑みを崩さないルシニアに恐怖の色さえ見え始める。

 先に始めたのは公爵だというのに、手応えのなさにルシニアは唇の端から血を流しながら笑う。

 肩で息をしながらルシニアを見下ろす公爵は、乱れた髪を撫で付けながら吐き捨てる。最早公爵は、ルシニアを見ることはない。


「――碌な使い方も出来んだろうが、追って考えるとしよう」


 横たわるルシニアをそのままに、彼は部屋を出て行く。

 このためだけに来たのだとしたらご苦労なことだ。叩かれ過ぎた頬に最早感覚はなく、酷く腫れ上がっているだろうことを思えば、面白い顔になっているだろうかと想像する。

 当主の部屋の天井は思ったよりも低く、そしてあまりにも殺風景だった。

 せっかく皺を伸ばしてくれた制服は、既に昨晩よりもしわくちゃになっているのだから申し訳なさが滲む。体を起こすのが億劫で、しばらくそのままにしていると侍女が静かに扉を開けた。

 ルシニアは起き上がることなく眼球だけをそちらへと向ければ、彼女は今にも溢れそうな涙を堪えていた。


「おかしな話ね。あなたはわたくしの心を奪ってしまったのかしら」


 ぽろりぽろりと落ちていく涙は、絨毯に染みをつくっては消えていく。ルシニアを覗き込む瞳の美しさに、どこかやるせなさを感じてしまうのだ。

 こんなにも親身になってくれるというのに、ルシニアは侍女の名を呼んではあげないのだ。


「わたくしの痛みを、あなたが奪うというのなら、わたくしは持て余した怒りをどこへ捨てればいいのかしらね」


 頬に当てられるのは氷を布で包んだものだ。この屋敷には魔法を使えるものはおらず、かといって医者を呼ぶことも出来ないのだから、このような応急処置しか出来ない。

 侍女は唇を噛み締めているのか、固く引き結ばれたそこへルシニアは手を伸ばす。ぽろぽろ零れる涙はルシニアの頬にも降り注ぎ、雨にしては少しばかり塩気が強過ぎた。


「お嬢様......、痛みも、怒りも、私がっ」


 引き結ばれていた唇から漏れ出るのは、ルシニアと同じように行き場のない感情だ。

 口の中は鉄と塩が混ざり合い、今もまだ不快なのだが、それでも侍女から向けられる感情は不思議と不快ではなかった。


「あなたにわたくしのものはあげないわ」


 ルシニアは身を起こすと、未だに涙の零れる目元を拭ってやる。それでも栓を無くした瞳からは絶えず雫が流れ落ち、それを見ていることでルシニアも泣いているように感じられた。

 実際のところ感じたそれは紛うことなき錯覚で、ルシニアの頬には一滴たりともルシニアの涙は流れていない。

 泣き虫な子ね、とルシニアが微笑めば、侍女は首を振る。


「ねぇ、わたくし学園に向かわなければならないの。でもこの通り、制服が皺だらけになってしまったから、直してくれるかしら」


 これにはこくこくと、首を縦に頷く侍女の手を取り立ち上がる。

 鼻をすする侍女と部屋に戻り、一度制服を脱いで任せると、彼女は急いで出て行ってしまう。去り際の彼女に渡された氷嚢を片手に、ドレッサーへと向かった。

 気だるげに、伏し目がちなチャコールグレーと目が合う。頬は腫れ上がり、口の端まで切っていたようで、口を開けてみればピリッとした痛みが残る。部屋に戻る前に口の中はすすいだが、それでも若干血が滲んでいるのか、微かに鉄の味が残っていた。

 朝から随分と気分の悪い。そう思ってもこの後学園を休むことなどルシニアには許されない。

 監視の目と耳は思った以上に優秀で、半日と経たず公爵を召喚したのだ。下手に動けばまた面倒が再来すると思えば、頬が腫れ上がったままの醜態を晒してでもいつも通りの日々を送るしかない。

 鏡と睨めっこしながら考えに耽っていると、ノックが響いた。律儀に許可を待つ侍女に許しを与えると、制服と救急箱を持った侍女が現れる。

 急いでアイロンを掛け走って来たのだろう、渡された制服はほんのりとまだ熱が残っていた。健気で働き者な侍女に振り返り、ルシニアは櫛を手渡した。


「ねぇ、髪を梳いて貰えるかしら」


 救急箱を傍らに置いた侍女はかしこまりましたと受け取ると、椅子に座るルシニアの髪を梳いていく。

 ルシニアはいつもなら身支度は一人でするのだが、今日は任せてみるのもいいかもしれないと思った。単なる気まぐれで、公爵の来訪がなければ起きることのなかった変化だ。

 優しく丁寧に梳かれていく髪は、先程まではぐしゃぐしゃであったが、整えられればその美しさを遺憾無く発揮する。

 鏡越しに見る侍女は熱心にルシニアの髪に視線を注いでおり、ルシニアが見ていることなど気付いていないようだ。その目元は赤くなっており、止まらない涙を何度も擦ったのだろう。

 ルシニアの制服に涙を落とすまいとした痕跡に、いじらしいと思わずにはいられない。

 優しい子であり、ルシニアの姉と同類なのだろう。他人の痛みを自身の痛みとして受け取ろうとしてしまう、そんな愚かで優しい人なのだ。

 

「お嬢様、切れたところに薬を塗らせていただいてもよろしいでしょうか」


 髪を梳き終えた侍女の言葉に、ルシニアはお願いと頷くと安堵した表情を浮かべた。

 今さら断りなどしないというのに、なにがそんなに嬉しかったのか。

 救急箱から取り出した薬を右手の薬指につけると、侍女は切れたルシニアの唇の端につけていく。ピリッとする衝撃に伏せた睫毛を震わせれば、すみませんと言いながら薬を馴染ませるためのテープを小さく貼る。

 腫れ上がっていた頬は治まりを見せてきており、鏡に映った自身の姿にルシニアは及第点だろうと立ち上がる。救急箱を抱えた侍女は不安げに目をうるませており、ルシニアはその手を取って微笑んだ。


「あなたにわたくしの感情はあげていないのだから、そんな顔をしていないで、笑って見送ってくれるかしら。そしてまた、帰って来た時もあなたの笑顔が見れるのなら、わたくしはきっと、頑張れると思うの」


 侍女はまたも泣きそうになってしまうが、他ならぬ主人が言うのであれば笑わねばならなかった。

 泣きそうに笑う顔はあまり美しいとは言えないだろうに、主人であるルシニアは眩いものを見るかのように目を細める。

 美しくも悲しい少女の傷が癒える日を願い、侍女はルシニアの乗る馬車が見えなくなるまで頭を下げていた。

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