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渡り鳥のあなた  作者: 加永原
第1章
21/24

20

 ルシニアは邸宅内の図書室にいながらも、珍しく本を脇に置いて腰掛けたまま、物思いにふけっていた。灯した火がルシニアの頬をちろちろと照らしながら、その長い睫毛に影を落とす。

 こつこつと、人差し指が一定のリズムを刻む。室内にはその音だけが響いているだけだが、ルシニアは無意識に行っているその手遊びに気付いてすらいなかった。

 胸中を締めるのは、とある提案についてのことだった。

 試験対策と銘打った放課後の練習会は、ベルナンとディエラが加わったことが切っ掛けで、ちらほらと人が増え始めていた。あまり人前に出なかったものの、次期魔塔主となるブラムバシアンがいることが大きいのだろう。

 ルシニアという嫌われ者がいても尚、試験前にはそんなことも言っていられない。

 そんな中、やはりルシニアの魔法の上達は遅々として進まなかった。良くなりはしたが、それでもやはり乏しい魔力で扱えるのは及第点にも及ばない粗末なもの。

 本人のルシニア以上に悔しげに口を引き結ぶユーリツィアが意を決したのは、何度目かの練習の時だった。ユーリツィアの手がルシニアの手を握ると、一瞬の躊躇いを見せた後に眉尻を下げた碧い瞳が真っ直ぐに見詰める。

 話があると告げられ、他の人が帰るまで待って欲しいと言う言葉にルシニアは頷いた。今日はブラムバシアンとファルゴはまたも用があるため席を外していたので、ベルナンとディエラを見送ってから向き合ったユーリツィアは、薄く色付く唇を重々しげに開いた。


「お嬢様、今夜はハーブティーをご用意いたしました」


 ふと掛けられた声に、回想の海に沈んでいた思考が現実へと浮き上がる。緩慢な動きでお茶の用意をしているタルデヘ視線を上げるも、彼女はルシニアに視線を合わせることなく黙々と用意を調える。

 そうして湯気がほんのりとたつカップが目の前に置かれると、ルシニアはそれに手を伸ばす。気の利く侍女に、気を利かせる相手を間違えていると言ったところで、彼女は粛々とした態度で仕事をしているだけだと言うだろう。

 そのくせルシニアが傷を負うことだけに反抗ばかりするのだから、すっかりと丸くなったものだと思わずにはいられない。

 温かいお茶が喉を通って胃にまで届けば、じわりと冷えていた思考までが溶かされるように温まる。


「あなたはやっぱり、領地に残してくるべきだったわ」


 ルシニアがカップを見詰めながらそう零せば、タルデを見るまでもなく息を呑む気配が伝わる。

 悲壮な雰囲気がタルデから発せられるも、ルシニアは敢えてそちらを見ずに言う。


「こんなに美味しいお茶なら、お姉様のために淹れるべきだもの」


 つぅっと、長い指が縁をなぞる。

 揺れる水面がルシニアの心情を表しているようで、自身が不安を感じていることをようやく自覚する。そうして認めてしまえば受け入れるだけであり、ルシニアはふっと一息吐いて侍女を見上げた。

 泣き虫になってしまったタルデは、首を振った。


「私にとって、ルシニアお嬢様も大切なお嬢様です。どうか、そのようなことはおっしゃらないでください」


「褒めているのよ。あなたのお茶はいつもわたくしに安らぎをくれるから、お姉様も恋しがっているかと思ったの」


 ルシニアはタルデヘと手を伸ばすと、その手に指を絡ませる。タルデは肩を揺らして大仰に驚くと、おどおどして主人の手を振り解けはしない。困惑の中に、どこか嬉心が垣間見えるその表情に、ルシニアは微笑んだ。

 ルシニアの冷えた指先にタルデは熱を分けようと擦るように握り、自身の主人を窺う。


「大丈夫だから、そんなにわたくしのことに心を砕く必要はないのよ。“まだ”あなたたちを置いて行くことはないわ」


 そうしてルシニアが手を離してしまえば、タルデはその言葉により一層の不安が胸に残る。わざと引っ掛かるような物言いをしてしまったのは、可愛い子ほどいじめたくなるという、幼稚な悪戯心故だった。

 ルシニアはじんわりとタルデの瞳に涙が浮かび始めるのを見やると、足を組んでから問いかける。


「お姉様はなんとおっしゃっていたの?」


 タルデを見詰めるチャコールグレーの瞳が、これまでのからかいに煌めいていたものから、いつものどこか沈んだ色へと変わった。

 はた、と目をぱちくりさせるタルデの瞳に張った水の膜は、その問いかけに一瞬で引いてしまう。

 ルシニアは、ルーナとタルデが定期的に文通をしていることを知っていた。というよりも、情報交換に近いそれを咎める必要も無いので、黙認している状態だ。

 本来であれば監視と報告のような真似をされ、罰しても良いような類のようなもの。ルシニアがタルデの行いを咎めることがあっても、ルーナを諌めることなど到底出来ない。

 ここでタルデも動揺をすればまだ可愛げがあるものの、タルデもまたルシニアがそれを黙認していることを察しているし、背筋を伸ばして立ち直り平然と口にする。


「口外することを許可されておりませんので、私の口からお話することは出来ません」


 そうして頭を下げれば従順な侍女であり、ルシニアはそう、とだけ返して顎に手を当てる。

 脳裏に上品に笑うルーナが浮かび、振り払うようにして思考を切り替える。なにをどうしたってルーナがルシニアの不利になるように働くことはないので、たとえ結果だけを知ることになろうと面倒にならない限り口を出すつもりはない。

 ルシニアは本の上に置いていた封筒を取ると、それをタルデへと向けた。訝しげな目でそれを受け取るタルデに、ルシニアは肩を落とした。


「お姉様へ紹介したい商会があるのよ」


「商会、ですか......?」


 ルシニアの意図を汲めずに眉間に皺を寄せ、タルデはそう繰り返した。

 ルシニアがルーナに何かを紹介するというのは珍しいことで、基本的にルーナがルシニアに紹介することの方が多い。タルデもそうしてルシニアと出会ったことは忘れられない運命とも思っており、あの全てに受動的な彼女が口添えするほどの商会とはどこなのか、まじまじと手紙を見詰めてしまう。


「エープル商会は知っている?」


「ええ、存じております。確か、ここ最近特に活気づいていると、私も耳にはしていますが、“貴族としては”あまり好意的に見られていないとも聞き及んでおります」


「そう、知っているのね。わたくしはあまり興味が無いから詳しくは知らないけれど、あなたが知っているのならお姉様が存在を知らないわけないわね」


 ルシニアのカップからお茶がなくなり、タルデはおかわりを淹れようとするも、それを軽く手で制する。ルシニアはカップを下げたところに新聞を広げると、それを捲りながら話を続ける。


「試験対策中に思いがけず縁があったから、たまにはお姉様に紹介をするのも悪くないと思うのよ」


「そのような価値がおありなのでしょうか」


 タルデは不快そうに零した。

 貴賤の関係なしに交流を持てる学園と言えど、本来ならばルシニアのような公爵令嬢に成り上がり貴族の子が親しくすることなど厚かましいとすらタルデは思っていた。ルシニアが学園内でどのような立ち位置を有しているのかは知らないが、もし王太子との婚約破棄によって侮り近寄っているのだとしたら憤慨するどころではない。

 タルデはルシニアに仕える者として、そんな分不相応な愚か者を見過ごすことは出来ないのだ。

 頬を膨らませそうなほどに何やら納得いかない面持ちのタルデに、ルシニアは新聞に落としていた視線を持ち上げる。


「価値を見出すのはお姉様なのだから、彼らがお姉様のお眼鏡にかなわなければそれまでよ」


「可能性があるからご紹介されるのではないですか......」


「可能性の有無は関係ないわよ。それは紹介への最低条件であって、採用への担保にはなり得ないわ。わたくしは憶測で見繕っただけなのだから、お姉様が必要なければ捨てるでしょう」


 タルデはそれでも不服そうに唇を尖らせているのだから、ルシニアは溜息を吐いた。


「あなたは少し、過保護よ」


「ですがお嬢様。もしその商会の者がお嬢様を利用なさっているのでしたら、私はそのような者のためにルーナお嬢様にまで取り次ぐ必要はないと思ってしまうのです」


「あなた、わたくしの目を疑うというのかしら」


 タルデは慌てて違うと訂正しても、確かに先の言葉はルシニアに見る目がないと言っているようなものだった。

 どれだけ主人のためを思っての言葉とはいえ、失言をしていたことを指摘されるまで気付かなかったことに、タルデは己を強く責める。震えながらに謝罪を繰り返すタルデは、ルシニアがそんなことでは怒らないということの方が余程辛い。

 叱責はなくても、失望されるのが怖いのだ。

 しかしルシニアはそんなタルデを見やることなく、はらりと新聞を捲る音だけを響かせる。恐る恐る顔を上げるタルデの目には、ちろちろと揺れる火の光に照らされるルシニアがなんの感慨も抱いていないことに胸を撫で下ろす。


「あなたたちは全員、いずれお姉様にお返しするのだから、きちんと言葉には気を付けなさい。お姉様は決して、わたくしのように甘くはないのよ」


「肝に銘じ、今後このようなことがないようにいたします」


「それが賢明よ。だから、お姉様への手紙をしっかり送っておいてね」


「承知いたしました」


 タルデがしっかりとその手紙を別トレイに載せ、ルシニアは読み終えた新聞を広げたまま頬杖をついた。はしたないと言えど、ここにそれを咎める者などいない。

 ルシニアは、しばらく言葉にすべきかどうか躊躇ったものの、従順に主人の口から発せられる音を逃すまいとするタルデの姿勢に苦笑を零した。


「わたくしに、すべてを曝け出すような真似が出来ると思う?」


 タルデは目を見開き、ついでその真意を測ろうと眉根を寄せる。

 ルシニアは、理解されたくて口にしたわけではなかった。単に頭で考え続けるよりも言葉にしてみた方が案外、気が楽になれるかもしれないと思っただけである。

 戯れに、深く考える必要も無いその問いに、けれど侍女は深刻な表情で追い詰められていく。

 タルデの思考はこれまでにない程の速さで回転し、何度もルシニアの言葉を脳内で反芻していた。すべてを曝け出す、その言葉がなにを指すものかを探るべく、ルシニアに関するすべての事柄を思い出す。もちろん、タルデが知る限りとなるのだが、それでも何かしらの答えがあるのではないかと巡らせる。

 動揺を押し隠し、ひたすらに思考に沈むタルデを見ながら、ルシニアはくすくすと笑っていた。

 ふと何かに思い当たったかのようなタルデは、やがてその瞳に怒りを滲ませながら口を開いた。


「もしや、以前お嬢様がお倒れになったことと関係がおありでしょうか?」


 ルシニアが学園で倒れ、日がすっかり暮れた頃に眠ったまま屋敷に着いた時、タルデは死んだかのような心地だった。いつもより遅い主人の帰りに、屋敷にいた使用人たちは皆何か良からぬことでもあったのではと、気が気ではなかったのだ。

 ルシニアを慕う者はなにも、タルデだけではない。その証拠に、領地からルシニアに着いて来た者がこの屋敷で働いているのだ。

 御者が事情を説明したものの、それならそうと連絡をしなさいと、他の使用人たちに詰め寄られているのをタルデは横目に、ルシニアを早く部屋に運ぶ男手に着いて行った。まるで糸が切れた人形のように懇々と眠り続けるルシニアを、起きやしないかと冷や冷やしながらも着替えさせてようやく安堵の息を漏らしたのだ。

 主人の眠りを妨げまいと、静かに扉を閉めた。本当ならずっと傍に控え、目が覚める瞬間を見るまで気が済まない思いだが、ルシニアはきっとそんなことを望まない。

 後ろ髪引かれる思いでいると、ふとルシニアの制服に血液が付着していたことに気が付く。誰の血であるかなどと考える余裕もなく、ルシニアが傷付いたという思いに一気に怒りが沸き起こり、次いで目の前が涙で歪む。

 あの日を思い起こしたタルデは、ルシニアを傷付けた輩がまたルシニアを苛んでいるのではないかと、腹が煮えくり返る思いに震えそうになる。

 しかし、ルシニアは一瞬目をぱちくりさせたかと思うと、チャコールグレーの瞳を細めた。


「ああそうね、あなたたちにはなにも教えていないのだから、そっちを思い浮かべるのも仕方ないわね」


「やはり何者かによって害されたのですね!」


「落ち着きなさい。あれは害されたわけではなくて、慰めただけよ」


「な、慰め!? お嬢様を慰みものにするなんて、そんな輩生かしておけません! そんな者を野放しにしておくなんて、私はルーナお嬢様に顔向け出来ません! ああ、一刻も早く亡き者にしなければ!」


 わなわなと震えたかと思えば、憤慨に顔を真っ赤にして拳を握るタルデ。名前と所在さえ聞き出せば、本当にブラムバシアンに突撃しに行きそうなその勢いに、ルシニアが再度窘めても怒りは収まりそうにない。

 言葉とは時折異なった意味合いで伝わりがちなのだから、これはルシニアが慎重にならなかったが故の暴走だ。ルシニアは頬杖をついていたのをやめ、白い手を伸ばした。

 すると吸い寄せられるようにタルデはその手を求めて跪き、頬に触れられると怒りが徐々に悲しみへと撃ち落とされていく。はらはらと流れる涙を掬い、ルシニアは泣き虫ね、と微笑む。タルデの潤む瞳が揺れ、慈悲を請う。

 けれど、ルシニアは彼女には決してなにもあげないと決めているのだ。


「あなたにわたくしの怒りはあげないと、何度言えば分かるのかしらね。あなたが心配するようなことは何もないのよ、だから余計なことは考えなくて良いの」


 ルシニアは頬を一撫でするとその手を引き抜き、名残惜しさに追おうとするタルデを視線だけで制する。

 今はルシニアの侍女として在るものの、いずれルーナの元へと戻ることになるのを、きちんと理解しているのだろうか。行き過ぎたタルデからの干渉に、そうルシニアは時折思ってしまう。それでなくとも、侍女がここまで主人に傾倒するのは些か健全とも思えず、突き放すようにしてどうにかルシニアは均衡を保とうとするしかなかった。

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