19
はたしてそこには、ブラムバシアンとファルゴの姿があった。静まり返った教室内に新たな人物が現れたおかげで、陽がだいぶ傾いていたことに気付く。
「なんだ、増えているな」
ファルゴがそう呟くとベルナンが席を立ち、ぽかんとしていたディエラも無理矢理立ち上がらせると礼をする。
「王太子殿下に拝謁いたします」
「よい、ここは王宮ではないのだ。学友として扱え。ユーリ、すまないな。わたしもともにいたいのだが、少しばかり立て込んでいる」
ベルナンとディエラの礼を片手で制しながら、ユーリツィアに歩み寄るとその頬を手の甲で撫でる。ふわりとして笑んだユーリツィアを愛おしげな目で見るファルゴは、疲労の色が滲んでいる。
そんな2人を見ていると、ルシニアの傍に寄っていたブラムバシアンが手を取った。指先に唇を落とし、手の甲にもキスを振らせる。マリーゴールドの瞳が上目遣いで見てくるのを、ルシニアは頬を染めることなく微笑む。
「触れる許可は与えていないわよ」
「許すよ、お前は。お前は存外、お人好しだからな」
「ブラン、過ぎた口は要らないと思うわ」
ブラムバシアンは手に口付けを終わらせると、流れるようにベルナンとディエラを向いた。マリーゴールドの瞳にはこれといった感慨は浮かんでおらず、ただその存在を捉えるように向けられているだけだというのに、なぜか凄みがあった。
ベルナンはその目に肩を揺らし、後退りしそうになる。けれどディエラが背中を軽く叩いたことでなんとかその場に踏み止まり、半ば睨むようにその瞳を見返した。
こうして対峙するのは初めてで、ベルナンは自身より少し背の高いブラムバシアンを見上げるかたちとなっていた。机を挟んでいるとはいえ、威圧感を覚えるような出で立ちにはともすれば足が震えそうになる。
そもそも気が強いわけでもないベルナンが、商談以外でこうして睨み返すだけでも上出来なのだ。隣にディエラがいなかったらすごすごと逃げていたかもしれない。
けれど先に視線を外したのはブラムバシアンであり、彼はルシニア相手には途端に甘い瞳を向ける。ルシニアの方はなにも反応がないのが唯一の救いではあるが、ベルナンとしては既に手を触れていることが許せなかったし、羨ましかった。
ルシニアはそこでふと気付いたようにブラムバシアンの首元にかかる眼鏡を見つけると、手を伸ばしてそれを取ろうとする。空いた手を躊躇なく伸ばし、そしてブラムバシアンも当然のように身をかがめて取りやすいようにしてやる。
ベルナンの時には届かなかった手は、あっさりと目的のものを収めており、ルシニアはブラムバシアンを見上げた。
「これ、あんまり外で付けちゃ駄目よ」
そう言ってブラムバシアンの眼鏡を自身でつけるルシニアに、ベルナンは心臓が痛めつけられるようで奥歯を噛み締める。自身では踏み込めないと、早々に悟ってしまったのだ。
足元が泥濘に嵌った時のように重くなり、指先から冷えてくる感覚が不快だった。輝く笑顔も砕けた口調も、そして触れる許可さえも、自身には届かないもの。
鬱屈とした考えが胸中に染みを広げ、やがては傷になるのが理解出来る。それでも、ルシニアから目が逸らせない自分がいっそ恨めしく、ベルナンは手をぐっと握った。
「もう遅い。今日は帰ることにしよう」
そう言い出したのはファルゴで、ベルナンはその言葉でようやく釘付けになっていた視線を逸らすことが出来た。
ファルゴとユーリツィアは先に教室を出て、ベルナンとディエラが出ようとした時、ルシニアがその背を呼び止めた。
「エープル様、ディエラ様、今日はお付き合いいただきありがとうございました。わたくしとユーリは試験まで続ける予定ですが、おふたりも機会がありましたらいつでもいらしてくださいね」
当然のようにルシニアの腰に手を回すブラムバシアンが、こちらを見透かすような目で見ていたことも相まって、口の中が妙に渇いて仕方ない。ベルナンはその視線に意趣返しのように、笑って返した。
「ぜひまたご一緒させてください」
そうして教室を去り、ベルナンとディエラは同じ馬車の中で押し黙ったまま向かい合って座っていた。
ガタガタと揺れる馬車は今日はいつもよりも気にならず、かといって胸の中に澱のようにたまる嫉妬心が落ち着くようなことはない。普段なら揶揄ってくるだろうディエラが構ってこないのは好都合だが、いやに静かなのが逆に不安になり、窓からディエラに顔を向ける。
ディエラも外を見ていたのか、視線に気付いて向けられた顔は凪いでいた。こんな顔付きは初めてであり、ベルナンは訝しげに眉を寄せた。
「どうしたんだ?」
「んー、あー? うーん」
ディエラは腕を組み、首を傾げてから項垂れたかと思うと、やはり顔を上げては目を瞑る。口からは言葉では無い音を漏らしつつ、そんな奇怪な行動を取り始めた幼なじみにいよいよどうしたのかと心配になる。
ルシニアの酷薄な笑みに恐れをなしたか、それとも王太子に拝謁したということに衝撃でも受けたか。繊細とは言い難いディエラが、そんな殊勝な心を持っていたことに驚きだが、常とは違う様子にベルナンはここが場所でなかったら胸倉を掴んで揺すっていたことだろう。
「本当にどうしたんだ、いつも以上に奇怪だぞ」
「そこは“らしくない”と言うべきで、奇怪という言葉は不適切だぞ。だからお前はメルカトラ嬢との仲を見せつけられるんだよ」
「それはメルカトラ嬢に失礼だぞ! 彼女は見せつけようとなんて――」
「彼女はそうでも、男の方はそうではないよ。あの目は自分の獲物を見せつけ、手を出すようなら殺すことも厭わない目だったね」
「大袈裟だよ。まさか君、さっきまでの奇怪な言動はそんな妄想をしていたからか?」
「大袈裟なものか。お前、当事者なんだからもっとしっかりしろよ。逃げなかったのは褒めてやるけれど、負けずに少しくらいアピールでもしとけば良かったものの。立ち尽くすだけで目を逸らせもしないでいたのには嘆かずにはいられないな」
やれやれと溜息をついてみせるディエラだが、やはりその顔はいつものような軽さがない。
ベルナンが再度どうしたのかと問うと、ディエラは顔を背けた。横顔はさして変わらず、瞳の色だけが暗く見える。
「ただの既視感だ」
「既視感?」
「そう。それだよ、そういうことにした。俺だってもう十分に恵まれているんだ。境遇にこれ以上の贅沢は求めないし、資質なんてもってのほかだ。元より得られるものなんてたかが知れてるのだから、俺はもうどうしようもなく幸せなんだよなぁ」
「......君、なにを言っているんだ?」
段々と、まるで自身に言い聞かせるためだけに言葉を並べるディエラだが、ベルナンはその意味をまったく理解出来ない。
ベルナンはどうしようもない不安に駆られる中、そうしてゆっくりと問い詰めるように吐き出した。
外を向いていた顔はこちらを振り向き、いつもと変わらない軽薄な笑みを浮かべた。
「お前が腑抜けた野郎だってことさ! いいか、男なら好いた女を奪うくらいの気概でなきゃいけないんだぞ」
「はぁ!? なんでそこに戻るんだよ! そもそも僕は腑抜けてなんかいないし、奪うもなにも、彼女はまだ誰のものでもないはずだ!」
勢いづいて立ち上がりそうになったベルナンだが、ガタリと馬車が揺れると慌てて席につく。そんなベルナンの前に座るディエラは、人差し指を立てて左右に振った。
「チッチッチッ、そんな甘い考えじゃ爪痕なんて残せねぇよ?」
「なんだよ爪痕って。僕は別にそんな大層なことなんて」
「お前ってほんと、好きな女にはとことん弱気になるよなぁ。確かに今はまだ誰のものでもないかもしれないが、いずれ彼女は誰かのものになる。お前だって解るだろ、貴族の端くれなんだから」
「......解ってるさ」
貴族は婚姻によって家門の繋がりを深める。
ルシニアは婚約破棄をして今はまだ、誰とも婚約をしていない。だが、いずれ彼女はまた誰かと婚約をすることになるだろう。
商人から成り上がったエープルとは違い、メルカトラは由緒正しい歴史ある貴族だ。その婚約関係の重さは比べものにはならないだろう。
そんな彼女とベルナンのような成り上がりが婚約関係になれるとは露ほどにも思わないが、一時の火遊び相手くらいにはなれるということをディエラは言っていた。
実際、ブラムバシアンともそんな関係に見えていた。彼は次期魔塔主と謳われているものの、その身分は平民であることはベルナンも知っている。故に結局どれだけ羨ましがろうと、ルシニアが婚約を新たに結ぶまでの間だけの関係なのだ。どれだけ長くとも卒業までであり、ベルナンは俯きがちに零した。
「彼のように突出した才能もない僕なんか、彼女とともに試験勉強出来るだけでも光栄なことだよ。それも君に背中を押されるまで話し掛けることすら出来なかったんだ。僕は彼女に相応しくない」
「才能は関係ないさ。単に向こうが早く声を掛けただけだろう。相応しくないのは元より承知だろうが。卑屈になるなよ、ベルナン。いいか? 彼女はそこらの女とは違って美貌と賢さを持っている上、なにより家が良い。今はあいつが独占しているらしいが、その様も主人と犬のようで一部に大層ウケているらしいから、狙ってる奴も多いんだぜ?」
「なんだよそれ、どこからの情報だよ」
「まぁ、俺らの年頃の男は妄想と願望が特に激しいって話だよ。だからな、お前がうじうじしていれば、また別の誰かに先を越されるぞ。高嶺の花かと思ってたが、平民にも気安いと知られりゃ火傷してでも触れたくなるんだろうよ。まぁそれで実際火傷したような奴もいるらしいが」
ルシニアは王太子の婚約者であった頃から密かな人気を博していたが、今やそれを隠す必要性がなくなった。今でも彼女に対して批判的な噂が多く流れているものの、肯定的な話も徐々にではあるが増えつつあるのだ。
ディエラはそこでふと真剣な眼差しに変わった。
「当たって砕けろよ、ベルナン。恋がダメでも俺らは商人だ。あのメルカトラ公爵家とお近づきになれる絶好の機会を逃すな、これは人脈作りの一環だよ。あの貿易都市を通せばもっと色んな商品を取り扱えるだろうよ。というか本当ならもっと早くに接触しているべきだったのに、お前は同じクラスにいながら何をしてたんだか」
「......ああ、そうだな。解ってはいるが、あの瞳に僕が映っているかと思うと、まともに会話なんて出来ないんだよ。なんであいつはあんなに平然と手を取って、あまつさえその甲にキスまで! 羨ましいとか以前にあんなの不埒だろうが! 貞節を重んじて軽率な行動は慎むべきだろうに、あんな風に触れるなんて」
「意気地無しのくせに一丁前に嫉妬だけはするなんて、まったくお前ってやつはつくづく玉無しだなぁ」
「嫉妬!? 僕は嫉妬なんてしていない! それにそんな下品な言葉を口にするな!」
うじうじとした考えを口から垂れ流し始めたベルナンに、ディエラは肩を竦める。
あからさまに嫉妬をしているというのに、憤慨して否定するベルナンにじとりとした目が向けられる。
「自分は出来ないのに簡単に触れるのが許せないんだろう。やっとまともに話せたくらいだというのに、もう独占欲丸出しとはねぇ」
「僕は彼女を独占したいとは思っていない!」
「でも好きだろ? 振り向いて欲しいし触れてもみたい、あわよくば一時であろうとも恋人のような甘い関係を夢見ているんだろう? そしてそれを既に他者が手にしているということが許せないんだろう?」
ディエラの刺すような言葉にベルナンは図星を付かれて眉間に皺を寄せる。
ベルナンが遠くから見ていた間に掠め取られ、当然のごとく彼女の関心を一身に受けているブラムバシアンを、心底羨ましいと思う。そして同時に、彼女に易々と触れることが酷く妬ましいのだ。
まさに負け犬の遠吠えのような有り様に、ベルナンは項垂れてじめっとした雰囲気を纏い始める。
そんな手の焼ける幼なじみに、ディエラはやれやれとばかりに首を振った。
「人づてに聞いた話では相当に苛烈な性格をしているらしいが、案外気さくなお人だったんだな」
ディエラがそうぽつりと呟いた。俯いているベルナンは未だ顔を上げないで、静かに頷いて肯定する。
「お前からも話は聞いていたが、やっぱり貴族な上に公爵令嬢ともなれば、高飛車で鼻につくような奴だろうと思っていたよ。殿下から婚約破棄を言い渡されるような女なんだから、性格も最悪なんだろうとな」
「彼女はそんなんじゃないよ、皆誤解しているんだ。殿下と対立なさっているような場面があったから、特に口さがない連中にあることないこと言われたりもしているが、彼女は誰かを貶めたりするような人でもなければ、誰かに貶められて良いような人ではない」
ベルナンは拳を握り、やり場のない怒りを込めて断言した。
「殿下の新しい婚約者であるアグライア伯爵令嬢とも仲が良さげだったし、やっぱ噂はアテにならないな」
馬車の揺れが収まると、家に着いたことを知らせる声が聞こえる。既に外は暗くなっており、月が頭上に輝いていた。
邸宅には未だ多くの馬車と人が行き交い、そのうちの何人かはベルナンに気付くと軽い会釈をしていく。先に降りたものの、ディエラが降りて来ないことに気付いて振り向くと、彼は馬車の中からこちらを見下ろしていた。
何してるんだと、問い掛けるより前に口を開いたディエラの表情は暗くてよく見えなかった。
「――お前が本気なら、俺も本気で手伝う」
ディエラは微動だにせず、ベルナンの指示を待つ。
少し戸惑った面持ちで様子を窺う御者の姿が視界に入り、ベルナンは呆れに長い溜息を吐いた。
「ディエラ、僕は身の程知らずじゃない。それに、君をそんなふうに使うわけないだろ。さっさと降りろよ、邪魔になるから」
ベルナンはさっさと振り返って歩き出せば、背後から勢い良く飛び出したディエラがそのまま肩を組んでくる。思わずつんのめりそうになり、ズレた眼鏡を押さえて睨み付けると、にんまりと満足そうな顔のディエラがいる。
「ははっ、お前はやっぱり俺のことがいちばん好きなんだな!」
「やめろ、気色悪いし歩きづらい。僕は将来性のないことに投資をしないだけだ」
「恥ずかしがるなよ、この寂しがり屋さんめ。俺のこと愛してるって囁くまで離してやらねぇよ、愛い奴め!」
頭をわしゃわしゃと掻き乱してくるディエラに、ベルナンは怒りを爆発させたのは言うまでもない。




