18
ルシニアとベルナン、ユーリツィアとディエラとで向かい合って座る。では始めましょうかで始められるほど、打ち解けたようなことはない。
席に着いたはいいものの、クリスタルは2個しかないのだから人数も限られる。かと言ってじゃあ交代ごうたいでやりましょうね、などと声を上げるような雰囲気でもない。ましてルシニアが積極的に場を取り仕切るような性格ではないのだから、座ったままに沈黙が数秒続く。
居心地の悪さはベルナンが一段と多く感じているのだろう。ディエラの足元を小突いて助けを求めるが、けれど彼はにこにこと人好きのいい笑みを浮かべたまま無視をしていた。
薄情者め、とベルナンは心の中で幼なじみを散々に言ってみるが、口にしていない以上彼は何処吹く風だ。目の前に座るルシニアのチャコールグレーの瞳が向けられているかと思うと、ベルナンは頬に熱が集まるのを感じる。
「クリスタルは限られていますし、向かい合った者同士で使えばよろしいでしょうか」
口火を切ってそう割り振ってくれたのはユーリツィアであり、ベルナンはパァッと表情を明るくさせて頷いた。女神のようだと心中で賛辞を送るが、やはり言葉にしていない分、ユーリツィアからしてみれば無言で見詰められて疑問しかない。
ユーリツィアの進行にディエラが了承の意を示すと、2人はベルナンに向かってぐっと拳を握ってみせた。なぜか2人は協力体制を敷いており、生あたたかい目でベルナンを見てくるのだ。
嬉しいが嬉しくない応援に、ベルナンは胃がきゅうと締まる心地に喉が詰まった。油の切れたブリキのごとく首を動かし、ルシニアの方へと視線を向ける。
じっとクリスタルに落とされていた瞳がベルナンを捉え、それだけで心臓が大きく跳ね上がる。いや、体ごと跳ねていたような気さえした。
ルシニアは眉を寄せ、困ったように頬に手を添える。
「ご存知でしょうが、わたくし、魔法が得意ではありませんので、お邪魔をしてしまったら申し訳ありません」
「いや、そんなっ......、ぼ、僕も魔法はあまり得意じゃありませんから」
無意味に眼鏡を掛け直すのは手持ち無沙汰なのを誤魔化すためであり、羞恥心がふつふつと煮立って全身が熱くて堪らない。
ベルナンはいつもこうだった。
普段ならば対人においてこのような醜態を晒すようなことはないというのに、気になる異性の前では情けない姿を晒してしまう。顔は真っ赤に茹で上がり、言葉だってどもって聞き取りづらいだろう。そもそも話しかけることすらままならない有り様になるのが常で、そうなればディエラに引き摺られでもしないと、どうしたって近付くことも容易ではないのだ。
あら、と目を丸くしてから柔らかく細められる様に、ベルナンはまたもどきりと胸が高鳴った。
以前からルシニアの評判があまり良くないというのは、ベルナンとて知っていた。というよりも、同じクラスなのだから否が応でも耳に入って来るのだ。
だが、それでもその容姿に惹かれて目で追うようになってからというもの、彼女が噂にあるような悪しき人柄をしているようにはどうにも思えなかった。彼女は王太子が他の女性に現を抜かしていても、その微笑みを絶やさないまま気高さを貫き、婚約破棄されても見苦しく取り乱すこともなかった。
粛々と受け入れる姿勢には、ベルナンはもっと怒れば良いものをと思わずにはいられなかった。
そんなふうに、ベルナンはルシニアをいつも目で追っていたことを、幼なじみのディエラに知られたのは意外にも、最近のことだった。ディエラとは違うクラスなのが幸いし、これまで隠せていたのだが、予期せぬ事態に露見してしまったのだ。
ルシニアがブラムバシアンという、今まで姿も見せなかったクラスメイトと親しくしている様子を見てからというもの、どうにもざわついた気持ちを抑えられなくなっていたのだ。王太子が相手なら憧れるだけで済んだというのに、そこへ誰とも知らぬ男が付け入るように現れたともなれば、落ち着いてなどいられない。
ルシニアが魔力を込めてクリスタルに触れる。その指の細さに息を飲み、ベルナンは食い入るように魅入っていた。
内部で魔法が構築され、熱球体が現れると間もなくしてそれは儚くも霧散する。なにかを堪えるように眉間に皺が寄るのでさえも美しいと、ベルナンは感嘆の息を漏らしそうになって慌てて呑み込んだ。
「あんまり見られると、少しだけ恥ずかしいですわ」
「あっ、も、申し訳ございません!」
あまりにも見過ぎていたのだろうか。手を胸元できゅっと握り締め、恥じ入るように苦笑するルシニアに、ベルナンは慌てて謝罪する。
茶々を入れらるかと思ったが、隣のユーリツィアとディエラは2人で話しているままだ。
安堵に少しだけ頬の熱が冷め、交代だと差し出されたクリスタルにおずおずと触れてみる。そして指先から魔力を送って魔法を構築し、内部に展開させれば熱球体が生まれる。
ルシニアよりも長く持っていたそれは、一度不安定な揺らぎを見せるとたちまち弾けるように霧散してしまった。
ベルナンは見ていたルシニアに顔を上げると、声がうわずらないように努めて意識する。
「僕はご覧の通り、安定性の維持が苦手なのです」
頬をかくベルナンだが、確かに安定性だけが不得手のように思えた。
ルシニアは、ふっと笑む。
「一緒に頑張りましょう」
頭から煙が出そうなほどに赤くなった顔で俯いたベルナンは、はい、とか細い声で鳴いた。
あのどこか無愛想な赤い男とは違い、その表情の変化にはルシニアも面白いと思っていた。その純粋な好意はくすぐったく、どこか甘美にも思えるのだから困りものだ。最近では何かと面倒な輩に絡まれることが多かったからか、余計にベルナンのような者と話すことに、新鮮ささえ感じる。
ルシニアは幾度目かの挑戦を見守りつつ、ふいにその眼鏡に触れようとして手を引っこめる。唐突に伸ばされた手に、目を丸くしていたベルナンを見て、ルシニアは失敗したと内心で反省する。
淑女はみだりに異性に手を伸ばしたりしないというのに、ブラムバシアンと過ごす時間が長くなればなるほどにそのことを忘れそうになるのだ。今となっては染み付いているはずの距離感を、気になったというだけで忘れてしまったというのは、不甲斐ないどころの話ではなかった。
「ごめんなさい......最近少し、抜けてしまうときがあるのです」
ほんのりと頬を赤らめ、恥ずべきことをしたと肩を落とすルシニア。ベルナンは驚きこそすれ、責めるような気持ちは微塵もない。
故に慌てて問題ないと告げれば、ほっとしたように笑みを浮かべるのだから、今度はベルナンが頬を赤らめる。
頬の熱がバレないようにクリスタルに集中しながら、なんでもない風を装う。
「えっと、なにか気になることでも?」
「大したことではないのですが、その......」
言い淀むルシニアにベルナンは顔を上げると、じっと瞳を覗き込まれている。
ドキドキと胸がうるさいのが一体何故なのか、ベルナンにはそれすらも分からなくなる。刹那が永遠にも取れる感覚に、ベルナンは丸い瞳を見詰め返すことしかできない。
そして、薄い唇が意を決したように開かれた。
「......あなたの眼鏡も、魔道具なのでしょうか?」
「へ?」
「え?」
「ん?」
ルシニアの問いに、3つの間の抜けた声が返された。
ベルナンとユーリツィア、ディエラの3人は一様に口をぽかんと開け、肩透かしを食らったように見える。これまで別の話に花を咲かせていたはずのユーリツィアとディエラが、いつの間にかこちらに耳を傾けていたのか。
勘違いとはいえ、落胆が顕著に動揺を生んだ。もちろん、まともに知り合って直ぐに浮ついた思いを向けられるなどという幻想は抱いていなかった。だが、それでもあまりにも思わせぶりな仕草に都合のいい期待をしたのも事実で、それを隠すようにベルナンはじろりとディエラを睨んだ。
「ルシニア様、魔道具として扱われるような眼鏡は学内での使用を禁じられていますので、それはないかと思いますよ」
ベルナンがディエラを睨み付けて八つ当たりをしているうちに、こっそりとユーリツィアがルシニアに耳打ちする。
初めて知った事実に、えっ、と小さな声を上げる。
学則を全て覚えているほど頭の容量が良い訳では無いルシニアは、そもそも学則を読むことなどしていない。自身の脳内に事前に入れられた情報だけでもこれまでは事足りていたから、今世でも余計な知識を入れることをしなかったのだ。
こほんと、咳払いをしたベルナンに目を向けると、ディエラの頬を引っ張ったまま彼は首を傾げた。
「僕のは至って普通の眼鏡ですよ。えっと、気になるようでしたらお貸しいたしましょうか?」
「いえ、お気遣いいただきありがとうございます」
せっかくの申し出だが、別にただの眼鏡を手に取ろうとは思わない。
眼鏡型の魔道具は学内での使用を禁じられているというのに、ブラムバシアンは堂々と使っていたことを思い出して唸りを上げたくなる。とはいえ、ほとんど研究室として勝手に使ってる空き教室で付けているのだから、他の人が知らないのも無理はない。
ルシニアが熱くなった頬を冷ますようにぱたぱたと手で顔を扇いでいると、いやに機嫌良く笑みを浮かべたディエラの目とふいに視線が重なる。ぱちりと、ルシニアが目を見開くと、彼の瞳はさらに猫のようにしなる。
「そう言えば、メルカトラ嬢はなにやら懇意にしている方がいらっしゃると、噂されていますね」
「おい、ディエラ! 失礼だぞ!」
「なんだよ、気になることは聞けるうちに聞かないと。情報は聞き出せる時に、聞き出せる以上に聞き出すのがモットーだろうが」
「商会のモットーはそんな低俗な話題のために掲げられてるんじゃない!」
ベルナンの手がディエラの胸倉目掛けて伸ばされるが、それをがしりと掴んで阻止する。これまではわざと抵抗しなかっただけなのだと、ルシニアはディエラの好奇心を殺さない瞳に感心する。
彼はブラムバシアンとの関係について訊いているのだろう。もっと言えば、婚約破棄された直後から別の男性と親しくしているのは、ブラムバシアンがいたから婚約破棄されたのではと。そう言外に含めて訊ねていた。
ちろりと視界に入るユーリツィアを捉えると、居心地が悪そうに少し俯いており、彼女にとっては別の言葉を深読み出来てしまったのだろう。
ルシニアは優雅な笑みを湛えたまま、怖いもの知らずで正直者に極めて優しい声音で告げる。
「わたくしが、あなたの好奇心を満たすことで得られるものはありますか?」
彼らは商会に属する者であり、情報が時に商品としてなり得ることを知っている。だからこそ、ルシニアは対価を寄越せと口にした。
すると、一瞬面食らったような顔をしたディエラだが、それは次第に満面の笑みへと変わる。
「ははっ、こりゃ手厳しい。いや、あなたが正しいからこそ、俺が未熟だっただけだな」
「申し訳ございません、メルカトラ嬢。ディエラの無礼をお許しください。僕もよく言って聞かせますので、どうかご容赦ください」
ディエラと違い、ベルナンは冷や汗を垂らしながら即座に非礼を詫びた。いくら好奇心が旺盛とはいえ、相手を選ぶべきであったのだ。
ルシニアらと違い、ディエラは平民である。それをルシニアが知っているか定かではないが、それでも公爵令嬢のルシニアより貴い者などこの場にはいない。
軽薄さが身を滅ぼすのが貴族社会であり、平民の命など吹けば飛ぶようなちっぽけなもの。ベルナンは未だへらへらとするディエラを小突いて黙らせ、ルシニアに頭を下げて許しを乞うしかない。
ここは学園であり、貴賎の無い場として言われてはいるものの、それでも彼女が貴い人であることは変わらない。ルシニアがそのような行いをすることはないだろうと、これまでの観察からベルナンは予測しているものの、結局彼が見てきたのはほんの一部に過ぎない。
気になる相手ではあることは確かだが、かといってディエラを見捨てるなんてことはベルナンには到底出来ないのだ。
「そのような謝罪は不要ですよ。ここは学園ですし、わたくしたちは今や皆同輩。多少の軽口がある方が健全だと思います」
そう言って笑んだルシニアに安堵したベルナンに、ディエラが考え過ぎたなどと言うもので、湧き上がる怒りをなんとか呑み込もうと努力した。いつかこの幼なじみが軽口で処されてしまう前に、説教をしなくてはいけないとベルナンはやり切れない思いに溜息を吐く。
そんな2人に、けれどルシニアはすぅっと目を細めて纏う雰囲気を変えた。
「――けれど、侮る相手を間違えてはなりませんよ」
背筋が凍るような笑みは、これまでのものとは違う。
ベルナンは一度、ルシニアとファルゴが教室内で言い争っている場に居合わせたことがある。だが、居合わせるのと対峙するのではまったくもって違った。彼女はあくまでも公爵令嬢であり、生粋の貴族であるのを思い出す。
これにはディエラも笑みをなくして首を何度も縦に振り、ルシニアが良かったと零すと同時に凍っていた空気が霧散する。
ルシニアは美しいが、棘を持つ華である。そう改めてベルナンが認識すると同時に、沈黙が重く広がった教室の扉が開かれた。




