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メルカトラ公爵家の保有する王都別邸。ルシニアが学園に身を置く間、住まいとして与えられたのはその中でも小さな屋敷だ。とはいえ、平民やそこいらの貴族の屋敷よりも立派な佇まいをしている。
そんな小さくて大きい屋敷は、領地よりルシニアと共に来た使用人たちが管理する。昼間はルシニアが不在のため、皆彼女が帰宅する前に屋敷中を駆け回って掃除をし、夕食のためには毎日腕によりをかけての食事を準備する。
普通の邸宅より人数が少ないのは、雇用主である公爵の意向が関係していた。しかし、彼女について行くと決めたのは彼らの意思だ。
その中でも、ルシニアの侍女として長らく勤めているタルデは、使用人用として割り当てられた部屋で一人、机の前に座っていた。手には手紙があり、目を素早く走らせる。
侍女のタルデはルシニアより一つ年上の、貧しい男爵家の末娘だった。奉公に出されたのは7歳になる少し前。公爵家の娘たちと歳が近いことが幸いして、雇ってもらえることになったのだと言っていた親の顔をタルデは忘れない。
口減らしのために捨てられたも同然だと悟ったのは、公爵家に来てすぐのことだった。
タルデが公爵家に慣れるまでに要したのは半年で、その頃には物覚えの良い子供として先輩たちには可愛がられた。そしてタルデは幸運なことに、ルシニアの姉、ルーナ・ノヴァ・シルヴァトスに呼ばれることが増えた。
単純に歳が近いことと、子供の使用人の珍しさに惹かれたのだろう。公爵家では子供の使用人はタルデだけだったのだ。
ルーナのために、色々な本を持って行ったり、おつかいで出た街の様子など、聞かれる度に色々なことを話した。時には自身が使える立場だということを忘れそうになったが、優しいことにルーナはそんなことをまったく気にすることなく、タルデにもっと色々な話を聞かせてとせがんだ。
ルーナは体が弱く、ほとんどベッドの上で生活している。体調が良くても屋敷から出ることはなく、あまり外の世界に触れることがなかったのだ。
そして、タルデがルーナに部屋に招かれるようになってからひと月後。まともにルシニアと対面したのは、それが初めてのことだった。
自身より一つ歳下の、ルーナより二つ歳下のルシニア。チャコールグレーの瞳の凪いだ湖面を覗いた時のような、言いようのない不安がタルデの胸に湧いた。
こちらの全てを見透かしているからか、達観したその瞳に映る自身が、酷く幼稚に思えて羞恥心がタルデの頬に火をつける。人見知りをするような子供ではなかったが、分別のある子供のつもりであった。
だが、タルデはルシニアを前に言葉を発することが出来なかった。あんなにも子供らしくない子供など、いていいものかとじっとりとした汗が手の内に浮かぶ。
『ルシニア、この子がタルデよ。わたくしに、色々なことを教えてくれるの』
ルシニアを手招いて、その小さな手で小さな頭を抱く。姉妹のよく似た顔立ちが並んでタルデを見るが、2人の雰囲気はまったくもって違う。似ているのは顔だけで、ルシニアにはおよそ人間らしさが足りないと、不遜にも思ってしまったのだ。
『あら......これは?』
そう言って身を離したルーナは、ルシニアの額にかかる前髪を持ち上げた。そこには切り傷のような、なにかにぶつけたような、そんな傷が腫れ上がっていた。
ルーナの言葉にルシニアはちらりとタルデを見やり、その視線ひとつで肩が跳ね上がる。けれど彼女はルーナに視線を戻し、淡々と事実を語る。
『教育の一環です。私は不出来なものですから、公爵閣下の望むものを提示出来ない罰を受けました』
『そう――そうなのね。可哀想なルシニア、可愛いルシニア。あなたはこんなにもいい子だだというのに、お父様はあなたにばかり無理を強いるのね』
ルシニアの頭を撫でながら、ルーナは眉を寄せる。
姉からすれば健常な体を持つ妹が疎ましいだろうに、その妹は愛されることなく暴力を振るわれる。そんなだからなのだろうか、二人の仲はとても良好に見えたし、実際本当に仲は良いとタルデは他の使用人たちから聞いていた。
タルデは救急箱でも持って来て手当てをすると言うべきか否かで悩んでいたが、ルシニアの動向が気になって体が動かない。雇用主のメルカトラ公爵を前にした時とはまた違う、震え上がるような緊張が肌を粟立たせ、こんなところに一秒だっていたくないとタルデは泣きたくなる。
けれどそんなことをするわけにはいかないという、半人前ながら使用人としての矜恃が許さずにじっと静かに佇んでいた。
『――ねぇ、タルデ』
不意に、ルーナがタルデを呼んだ。
『はい、お嬢様』
震えそうになったが、笑顔で答えるタルデに、ルーナもまたにっこりと微笑んだ。
『あなたにルシニアのことをお願いするわ』
えっ、と思わず出てしまったのは、本当に思ってもみないことだったからだ。
タルデは密かにルーナつきになりたいと思っていたし、そのためにも色々とルーナのためにこれまでの仕事を素早くこなし、空いた時間で勉強して彼女を支えられるようにと努力していた。だというのに、今日初めてまともに顔を合わせた、ルシニアにつけとそのルーナが言う。
なにか気に触ることをしたのか、きちんと挨拶出来なかったのが悪いのか。それともこれまでのタルデの態度が悪かったのか。ルーナが許すからと、あまりにも親しげに話し過ぎたか。
頭の中では悪い憶測が駆け回り、ルーナに不要だと言われたように聞こえて、徐々に視線が落ちていく。
『タルデのこと、わたくしはとっても信頼しているの。だからね、タルデ。わたくしのいちばん大切な妹、ルシニアのことをあなたに頼みたいのよ』
落ちる視線にタルデが目に見えて落ち込んでいるのが分かったのか、ルーナは慌ててそう付け加えた。
現金なもので、敬愛するルーナにそう言ってもらえたらのが、タルデは嬉しくて仕方なかった。タルデはその一言でやる気に溢れたし、正直怖いルシニアのことも好きになれるかもしれない。あのルーナの妹なのだから、とそう思ったのだ。
未だに黙ったまま、本人抜きで進められる会話に、ルシニアは他人事のように見ているだけだった。
『いいのよ、タルデ。あなたが私に頑張ることはなにもない。私はお姉様ではないのだから、あなたが尽くすような人ではないの』
その頃はまだ、名前だって呼ばれていたし、ルシニアは自身のことを“私”と言っていた。
公爵からも正式にルシニアつきとして任命されたタルデに、ルシニアはそう言って扉を閉めた。絶対に自身の中へと踏み込ませないルシニアは、どんな人でも受け入れるルーナとは正反対だった。
公爵からの折檻は日常的に行われており、タルデは救急箱をもってルシニアを追い掛けることが多い。ルシニアの部屋の前に辿り着き、タルデを振り返ることなく告げられた言葉は、タルデの浅ましい考えを見透かしていたのだ。
ルシニアに取り入って、ゆくゆくはルーナつきに戻ろうと、そう考えていたのがあっさりと看破されていた。羞恥よりも、ふつふつと怒りが沸き上がり、だから公爵に可愛がられないんだとタルデは憤慨しながらその場を離れた。
タルデの中でルシニアに対しての嫌悪感が募っていくが、誰にも話せるようなことではなかった。誰もがルシニアを憐れんでいたからだ。
ルーナが憐れまれることは分かるが、健康で自由に歩き回れるルシニアのどこに憐れむ要素があるのかタルデには理解出来ない。子供らしくもない表情の乏しさもいけ好かないし、こちらの考えを見透かすような言葉だっていつも不快にさせられる。
だからたとえ公爵に折檻されることがあっても、それは単にルシニアが悪いのではないかと思っていた。ルーナとは違い愛想の欠けらも無いルシニアが、公爵の気に触るような言動ばかりするのだろう。
ルシニアが教育を受けているとされる、公爵の私室付近にはタルデは行ったことがなかった。割り振られていない仕事場に行くほど暇ではないし、ルシニアつきと言えどタルデも日頃ルシニアについて回っているわけでもなかった。
侍女長が、タルデに苦々しい面持ちのまま肩を掴み、至極沈んだ声で言った。
『ルシニアお嬢様のおつきなら、一度きちんとあのお方の置かれている状況について、その目で、耳で知った方が良いわ』
――あのお方に、同情を抱くことは許されないけれど。
そんな言葉と共に、タルデは公爵の私室付近にある窓辺の花瓶に、水を交換に行くようにと命じられた。
疑問も浮かばずに、タルデはただその通りにした。本当は単に好奇心から動いていたのを、タルデは自身がいちばんよく理解していた。
『まったくもって忌々しい! 貴様のような出来損ないがなぜ生きている! お前の姉に少しでも詫びる気持ちがあるのなら、なぜ死なない!』
なにかが割れる音が響く廊下は、重苦しい空気に包まれている。
罵詈雑言の嵐が扉から漏れ出ており、タルデを誘うように一室から光が見えていた。行ってはいけない、そう思えども、震える足は扉に近付く。
長い廊下はやけに暗く、だというのにその一室から漏れ出る光だけが虫を誘う光のように眩い。
ほんの一瞬だけ。ほんの一瞬だけ見たらすぐに花瓶を持って引き返そう。そう思っていたのだ。
『――用向きを頼んだ覚えはないぞ』
ぐっと、上から押さえつけるような低い声。
タルデが覗いた扉が開き、こちらを見下ろす双眸は恐ろしい程に冷たかった。カタカタと震え、言葉すら発せない。
涙がじんわりと浮かぶが、けれど目を逸らすことが出来ない。
『申し訳ございません、旦那様。扉を閉めようとしたのですが、お邪魔をしてしまいました』
タルデの頭を押さえ付け、無理矢理に礼をさせたのはこの屋敷の執事だ。どこからか現れた彼は、きっとタルデの行動すべてを見ていたに違いない。
『好奇心ばかりある子供など、やはり無用の長物だ。ルーナのためになるかとも思ったが、もうそれは不要だな』
執事が咄嗟に庇ってくれたものの、公爵は舌打ち混じりにタルデの処分を言い渡した。
捨てられる、そう思ったものの、公爵の中での処分は死を意味すると悟ったのは直感だ。公爵にとってタルデのような、貧しい貧乏貴族が口減らしのために差し出した人間を消すことなど、造作もないだろう。
執事が食い下がろうとするが、公爵は煩わしいと一言吐いて捨てる。
目の前が歪み、ぼたぼたと廊下の絨毯に染みを作っていく。全身が震えて力が入らないが、今ここで倒れでもしたらもう起き上がることは出来ない。
タルデが恐怖に震え、執事がかしこまりましたと、そう告げた。死を言い渡された瞬間だった。
『――お父様』
ルシニアの声が耳に入った瞬間、鈍い音が響く。
公爵の袖を掴んだルシニアを、公爵の手が頬を殴っていた。侮蔑の込めた目がルシニアを睨み、けれどルシニアは微笑む。
『それはお姉様のお気に入りです。捨てたと分かればお姉様は悲しみに暮れ、ますます体調を崩されるかと思います』
『お前ごときが私の決定に異を唱えるなど、烏滸がましいにもほどがあるぞ』
獣の唸り声よりも恐ろしい声音に、ルシニアは怯んだ様子もなく告げる。
『浅慮な人だと、そう私は言っているのですよ』
ちらりと顔を上げたタルデは、涙で視界が歪む中にとても美しい微笑みを見た。
なぜ立っているのか不思議な程に身体中が傷だらけで、ぶらりと垂れ下がった腕はきっと折れていた。だというのに、腫れ上がった頬のままに公爵を見上げる双眸はいつもの凪いだ瞳がある。
扉が勢い良く閉められ、タルデの全身から力が抜けてその場にへたり込む。
タルデを抱え上げた執事がしきりに良かったと言っており、その手は震えていた。
『旦那様のお怒りは、いつもルシニアお嬢様が一身に受けておられる。ルシニアお嬢様は、誰も見捨てられない、お優しいお方なんだよ』
しゃくりを上げて泣くタルデは、ルシニアのぼろぼろでありながら涙ひとつ零さない姿を思い出しては、後悔に塗れて喉が枯れるほど泣きじゃくった。
そして、タルデはようやく公爵家の歪さを知った。
公爵はいつも仕事に忙しい人であり、小さなミスをも許さない人だ。完璧を常に求め、使用人にもそれを求める。少しでもミスがあれば文字通り首が飛ぶほどで、だけど誰もが皆五体満足で働いている。
すべてはルシニアがその小さな体で怒りのすべてを受け止めているからだ。ルシニアは特異な体質で、どれだけの傷を負おうとも、数日で快復してみせる。魔法によるものなのかは定かではないが、まさに死なない体に生傷は耐えない。
振り返れば、タルデが泣き虫になったのはあの、自分の代わりに死んでいく小さな主を見た日からだった。
小さな主が目の裏に浮かび、過去に思いを馳せていたタルデはようやく便箋を取り出した。
それは領地にいるルシニアの姉、ルーナに宛ててのものだ。タルデはルシニアの近況をこうしてルーナによって求められている。
そして同時にルーナからは公爵の動向が送られて来るのだが、今回もまた吉報とは言い難い内容だった。
「お嬢様はもっと、幸せになられるべきだというのに」
貴族にとって娘は政治的な駒だ。より優位な結婚をし、自身の政治での立場を強めるための道具に過ぎない。
ルーナから送られてきた手紙には、ルシニアの新しい婚約者の選定が始まったという旨が綴られている。まだ本決まりではないものの、既に絞られているそれが通達されるのも、そう遠くないだろうと。
王太子殿下との婚約破棄が決まってから、まだそんなに時間も経っていない。最近は学園で新しい友人が出来たと、そうぽろりと零していたルシニアを思えば、もっとその楽しい時間を堪能させてやりたいと願うのだ。
タルデはルシニアに友人が出来たということを手紙に綴ると、封筒に入れて蝋を垂らす。ルーナから貰ったシーリングスタンプを押して、それを持つと部屋を出た。
「これを本邸へ」
他の手紙とまとめて別の使用人に任せると、タルデは一息ついて窓から外を見た。日はまだ高いが、やることはまだいっぱいある。
ルシニアが帰って来た時に汚い部屋に通すなど、使用人としての矜恃が許さない。使用人の数に比べて広い屋敷だが、それでも公爵家の邸宅としては小さい方だ




