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渡り鳥のあなた  作者: 加永原
第1章
14/24

13

 体が波間を漂っているような心地だった。

 揺らぐ狭間は自信を曖昧にさせ、時間さえも虚ろなものにする。ルシニアがルシニアである以前の記憶が脇をすり抜け、追いかけようとしても体があるのかすら分からない。

 意識はあるというのに、動かす術を知らないのだからそれらを見送ることしか出来ない。失った人、愛しい人、憎んだ人、抗えない人。

 それらは走馬灯のように浮かんでは消え、けれどどれもルシニアを振り返りはしない。ただうわ言のように置いて行かないでと繰り返しても、すべては泡となって消えて行く。

 いつかの人魚のように、海に溶けてしまうだけの自分。潰された喉は息をすることすらままならず、唐突に腹部に強烈な痛みが走った。それは何度なく差し込まれる剣であり、胸を焼いたのが致死量を超えた毒だと分かるのは、こちらを見下げる瞳に幼いルシニアが映っていたからだ。

 その姿は次第に変化し、ルシニアではなく今までのすべてに成り代わる。全部自身であることは理解出来るのに、その容姿と名前、与えられた役割だって覚えていた。けれど、どうしたって起源を思い出せない。

 伸ばした手の先が黒く薄汚れ、灰を掴めば諸共に崩れ落ちる。

 なんで、と問いただしても返す声はもちろんない。呪えば呪うほどに祝福され、ルシニアは死を求めて彷徨う亡霊になる。

 後悔はルシニアの体に、願いは魂に焼き付いて離れない。

 悲劇は喜劇にはなり得ず、喜劇もまた悲劇へと堕ちることはない。役者は舞台上のスポットライトの上でしか生きることを許されないのだから、ルシニアが舞台袖で願っても死は訪れない。

 自我すらも溶け始めた頃になって、ルシニアはようやく自身が泣いていることに気が付いた。泣き声はあまりにも惨めで、こんなことならしなければ良かったのにと、心無い自分の声が響く。

 それでも終わらない嘆く声は、ルシニアの鼓膜を破ってようやく現実へと引き戻した。

 重い瞼と一層気だるさを増した体。白い天井を見上げても、鈍くなった頭ではここがどこであるのかを正確に理解出来ずにいた。

 差し込む夕日が白いカーテンを照らすのが眩しく、細めた瞳で周りを見渡せば、マリーゴールドがこちらを見ていた。その表情は安堵と罪悪感に複雑に揺れていて、けれど一度目を伏せてから開けられたそこにあるのは迷子になった幼子ような色だった。


「――すまない。またお前に傷をつけた」


 赤い夕日がブラムバシアンの緋色の髪をさらに燃えて染めていた。

 眩しさに目を閉じようとも、重い瞼は意思に反して彼の顔を見詰める。マリーゴールドの瞳が逃げるように逸れ、ルシニアは痛む首を気にすることなく声を出した。


「......満たされたのかしら?」


 思った以上に声は掠れており、不思議と軽い口調だった。

 傷はブラムバシアンが治しているだろうが、それでも記憶は残っているものだ。引き攣る喉は彼に捕食されそうになったことを覚えており、ルシニアはこともなげに訊いてみる。

 くしゃりと眉間に皺がより、けれど確かに頷く彼にルシニアはそう、とだけ返す。


「俺は、魔力の制御が出来ないんだ」


 固く閉ざしたかと思えば、絞り出すように言われた言葉に、ルシニアはふと訝しげな目を向ける。

 次期魔塔主とも謳われる存在であるというのに、魔力制御が出来ない。そんなはずがないと言う瞳に、ブラムバシアンは苦笑を返した。

 

「あの部屋に閉じ篭っているのも、俺の魔力が原因だ。不意に暴走して他の生徒に危害を加えるわけにはいかないからな」


「......わたくしなら良かったと?」


 ルシニアは身を起こし、ブラムバシアンにそう挑発的に笑む。

 ファルゴの友人ならルシニアが、死なない体だということを知っていたのかもしれない。だから不意に暴走した時の抑制剤として使おうと、そう思って近付いて来たのだと思えば、妙に納得した気持ちにさせられる。

 けれど、どこかそれを認めたくない気持ちがルシニアに湧き起こり、柄にもなく意地の悪いことを口にした。

 ブラムバシアンは身を乗り出し、ルシニアの肩に手を置いた。反射的に跳ねた肩に後悔を滲ませた顔になり、長い溜息を吐いてからルシニアの肩に頭を乗せる。

 さらりとした髪が首元をくすぐり、ルシニアは常識的に考えてあるまじき距離感に苦言を呈そうとして、それでもやはりもう一度口を噤んだ。


「お前を傷付けたいと心から思うことはない。俺はただ、お前に触れていたいだけなんだ」


 自身が医務室にいることは既に理解し始めており、ルシニアは彼以外の気配がないことを探る。

 室内には2人分の鼓動しかなく、近付いてくるような足音もない。取り残されたとも言うべき静寂の心地良さに、ルシニアは彼の頭に手を伸ばしていた。


「わたくしに触れていいなんて許可は、あげていないのよ」


 揺れた体はそれでもルシニアから離れず、ぎゅっと抱き締めるように寄せられる。抵抗する力の戻っていないルシニアは、身を任せたままに目を伏せた。


「これまではどうしていたの?」


「限界が来そうになる前に、師匠の創った部屋に収まるまで閉じ篭っていた。制御出来ない魔力のままに暴れては、普通の部屋になどいられないからな」


「暴れるって......それならその部屋に閉じ篭もりなさいよ」


「ルシニアと、一日でも会えないのは耐え難い」


 しれっとそう言うブラムバシアンに、ルシニアは呆れたと思いつつも頬を寄せた。

 夕日が次第に落ちると同時に、薄暗くなり始める部屋。誰にも咎められないのをいいことに、ルシニアは本音を零した。


「――どうせなら、あのまま殺してくれれば良かったのに」


 落胆の色の濃い声音に、ブラムバシアンの身が強ばった。ゆっくりと離された体に見上げた顔は、薄暗くて見えづらい。互いに表情の窺いづらい状況を狙って口にしたのだから、それで良いと思えどももどかしさが胸を焼く。

 ルシニアは失言だったかと、そこで気付いた。

 彼にとって魔力の暴走は次期魔塔主として唯一の汚点だろうに、それを利用して殺してくれと頼んでいるようなもの。死にたいと願えども、他者に殺人者になれと強要したいとは思っていない。

 前言撤回すべく、忘れてくれと口を開こうとして、ルシニアは言葉を奪われる。

 ブラムバシアンはルシニアの額にキスを落とし、そのまま額を合わせて視線が交わる。鼻先が擦れ、視界に広がるマリーゴールドに自身の瞳の色が移ったように見える。

 薄暗い中、少し身動ぎしただけで唇が触れてしまいそうになる。そんな距離で見詰められ、ルシニアは喉の奥が引き攣る感覚がした。


「――お前が死を望むなら、俺がお前を殺してやろう」


 細められた瞳に囚われる。そう思った時点で既に半ば引き摺り込まれているようなものだというのに、構わずにブラムバシアンは続ける。


「お前が死にたいと思うのはお前の勝手であり、それを矯正しようなどと俺は思わないさ。だが、それを他者に委ねるのなら、俺に委ねろ。ルシニア、俺にその特権を与える許可を出せ」


「なにを――」


 肩を掴む手が食いこみ、怒りがこもっているのだとルシニアにも分かった。

 静かな怒りだった。それが何故ブラムバシアンに沸き起こっているのか、ルシニアには分からない。分からないから逃げようとするが、強く掴んで離れない手がルシニアの動きを封じる。


「お前の死を、俺がもたらす。俺がもたらす死で、お前を幸福にしてやりたい」


 なんだそれは、と頭では思っても口が開かない。

 そんな馬鹿げた殺人宣言があるのかと。死を幸福だと、何故言い切れるのかと。

 これまでも、ルシニアを殺そうとした者がいた。それらは例外なくルシニアを殺せなかったし、舞台から颯爽と消えて行くだけだった。

 だというのに、ルシニアを殺すなどと。ルシニアを幸福にするなどと宣うブラムバシアンに、徐々に怒りが込み上げた。

 ルシニアは頭を一度後ろに引くと、思いっきり額を打ち付けた。ゴンッという鈍い音が脳を揺らして響き、ブラムバシアンがよろけて手が離される。視界がチカチカと明滅し、痛みと吐き気がルシニアを支配する。

 頭突きをされたブラムバシアンよりも、した本人であるルシニアの方がダメージが高いのはポテンシャルの差だろうが、そんなことはお構い無しにルシニアは口の端を持ち上げた。


「あなたに幸福を与えられるほど、わたくしは落ちぶれてなどいない」


 ぐらぐらと揺れる視界が気持ち悪いが、それでも怒りがふつふつと滾っている中では大したものではない。結局のところ怒りでほとんど前は見えていないのだから、ルシニアはブラムバシアンの胸ぐらを掴んで引き寄せる。

 彼が戸惑いを乗せる隙すら与えず、もう一度額を突き合わせて吼える。


「わたくしは誰にも殺せないのよ、ブラン」


 マリーゴールドを呑み込むように、チャコールグレーが不敵に笑んでいた。

 けれどくらりと視界が揺れ、ルシニアはブラムバシアンの胸ぐらを掴んでいた手を離せば、仰向けに倒れそうになる。それを支えたのはもちろんブラムバシアンで、ゆっくりと横たわらせる。

 目が回る気持ち悪さが不快感を催す中、ルシニアの手を取ったブラムバシアンはくつくつと笑みを零す。それがあまりにも憎たらしく聞こえるが、ルシニアに反抗する余裕は残っていない。

 指先に口付けられ、唇が甲へと上がっていく。


「ルシニア、お前の願いを尊重しよう。俺はお前の力になることは厭わない。だがやはり、お前が死んだら悲しいと思ってしまうような気もするよ」


「......気がするだけなら、それは気のせいというものね」


「なら試してみるか?」


「あなた、随分と猟奇的なのね」


 ルシニアは構ってられないとばかりに手を引き抜き、背を向ける。その背に甘えるようにのしかかる重みはしつこく、ブラムバシアンが頭を押し付けているのだ。

 大きな犬のようなその仕草に、けれど可愛いとは到底思えない。


「さっきまではあんなに泣きそうになっていたというのに、憎たらしいほど上機嫌ね」


「ああ、やっとお前が名を呼んでくれたからな。それに、お前が本音を隠さなくなったのもとても愛おしい」


「わたくしはずっと本音しか口にしていないわよ」


「お前は正直者だからな」


 鬱陶しさに耐えかね頭を押し退けるが、体が全快していない以前に、男と女では基本的な力に差があり過ぎる。

 不毛な戦いに諦めるのは早く、ルシニアは溜息を殺して振り返る。

 さらりと撫で付けた髪は指通りが良い。ルシニアはブラムバシアンの髪を弄びながら、眠気が徐々に忍び寄る気配を感じた。


「わたくしの魔力を取り込んで、それで、安定はしたの?」


 ぎしりとベッドが軋み、ルシニアに陰がかかる。

 薄暗い中にマリーゴールドの瞳が輝くようにルシニアを見下ろしていた。


「ああ、実際に体験してみて運命をより強く感じたよ」


「陳腐な台詞ね......。運命っていう言葉はやめてくれるかしら。嫌いなのよ、それ」


「うん? そうか、そう言うのなら二度と口にしない。だが、俺の魔力がこれまでにないくらい安定したことは事実だ。礼を言おう、ルシニア」


「結構よ。一方的に利益を貪っておいて、薄い言葉一つで清算されるつもりはないわ」


 これは借りだと、ルシニアは言う。

 微睡みに片脚が沈み始め、ルシニアの頭は次第にぼんやりとしていく。瞼が重くなり、瞬きすらも緩慢な動きになる。


「いずれ利子を付けて返して貰うわ。だからまた、苦しくなったら存分に、わたくしの魔力を貪る許可をあげる。だからいつか――」


 ほとんど寝言に近いその声は、最後まで紡ぐことなく夢に落ちていく。

 固く閉ざされた瞼はブラムバシアンを残し、1人だけ違う世界へと旅に出る。ルシニアの規則正しい寝息が耳に響き、満たされたと思っていたものとは違う、別の渇きがブラムバシアンを蝕む。

 まさに死んだように眠るルシニアの額に、ブラムバシアンは口付けを落とした。そして眠りを深くする魔法を施してやれば、大抵の振動等では目を覚ますことはなくなる。


「......甘い夢を見ろ、所詮お前にとってこの世は夢と変わらないはずだ」


 ルシニアを横抱きに抱え上げると、ブラムバシアンはそう囁いた。

 口付けをまたひとつ、頬に落としてから医務室を後にする。メルカトラ公爵家の馬車はずっと校門で主を待っていたのだ。

 事情は伝わっているだろうが、それでもルシニアを目にした御者は驚きと安堵に目を丸くしながら涙を流していて、ブラムバシアンの手からひったくるようにしてルシニアを預かる。丁重な手つきで馬車に乗せると、ブラムバシアンに深くお辞儀をする。

 早く主を休ませてやりたいという気持ちがひしひしと伝わるのだから、ブラムバシアンは謝礼は不要だと急かすように手を振った。メルカトラ公爵家の馬車は早々に去って行き、取り残されたブラムバシアンは空を見上げた。

 月は雲に翳り、快晴とは言い難い夜空だ。

 

「死に触れ過ぎた者と同じ目をしているな、お前は」


 誰に言うでもなく、そう独り言ちたところで拾うものはいない。

 ブラムバシアンは校舎へと向き直ると、静まり返るそこへ戻って行くのだった。

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