12
「ファルゴ様! 私はまだ、ルシニア様とお話が終わっていません!」
ユーリツィアは自身を抱きかかえるファルゴの肩を控え目に叩いて、下ろすようにと抗議する。
ユーリツィアの目には先程不敵に笑むブラムバシアンの顔が残っており、せっかく友人になれたルシニアを独り占めされると思うと、いても立ってもいられない。今すぐ戻ってルシニアの手を取らねば、ブラムバシアンにすべてを取られるような気がしてならなかった。
ファルゴはようやくその歩みを止め、ユーリツィアを下ろした。けれど、手は固く握られており、これではルシニアのもとへは戻れない。
見上げるファルゴの顔は未だに渋いままで、和解をしたというのにルシニアのことが気に食わないといった面持ちだ。
ユーリツィアはなぜそうもルシニアに食ってかかるのか、それが疑問でならないのだ。仮にも婚約者として短くない時を過ごしたパートナーだろうに、彼は往年の宿敵かのようにルシニアを睨むのだ。
なにもユーリツィアに向けるような甘い瞳で彼女を見るなとは言わないし、そんなことがあってはユーリツィアは泣いてしまう。だがそれでも、あの完璧で美しいルシニアに向ける瞳が敵意だというのはなにか悲しい気持ちにさせられる。
ユーリツィアはファルゴを見上げ、そして胸元に頭を押し付ける。固いけれど、それが鍛えている男の体だと思うと、自身を守ってくれるのだという安心感に変わる。
「......どうしてそこまで、あの方に心を閉ざすのですか」
やり切れない思いは言葉に乗り、沈んだ声音で訊ねる。
ファルゴの手がユーリツィアの頭を優しく撫でるのは、彼が好意を抱いてくれているからだ。だが、ルシニアに向けるあの冷たい眼差しを思い出しては不安になる。
そう、ユーリツィアはずっと不安なのだ。いつあの瞳がユーリツィアを向くか分からない。そう考えれば考えるほどにユーリツィアはルシニアに罪悪感が募るばかりで、ファルゴがなにを考えているのか分からなくなるのだ。
ファルゴはユーリツィアの不安を感じ取ったのか、耳を擽るように親指が触れた。毎日欠かさず剣の鍛錬をしているからか、その親指はユーリツィアよりも固い。けれど温かいそれが触れることに不快さなどなく、むしろこそばゆいのだから身をよじる。
真面目な話をしているのだと、ユーリツィアはファルゴの顔を見ようとするが、彼の顎がユーリツィアの頭を押さえて表情を隠してしまう。
「わたしは、あの者が恐ろしいんだ」
ユーリツィアの手を握っていたファルゴの大きな手が力み、彼の声は感情を押し殺すように震えていた。
どうせ答えてくれぬだろうと思っていた矢先、吐露された本心にユーリツィアは顔を見ることも出来ない。穏やかな心臓の音が聞こえるだけで、ユーリツィアは手を握り返した。
「わたしが、幾度となく命を狙われたことがあるのは知っているな?」
ユーリツィアはその問いに、こくりと頷く。
貴い身分というのは、家督争いによって血族同士で殺し合うことが起こり得る。王族はことさらにその傾向が強く、生まれた子供たちは母親の胎にいる頃から命の危機と常に隣り合わせとなる。
ファルゴには弟が2人おり、彼らは皆母親が違う。故に誰の子が王座を獲得するかで熾烈な争いが繰り広げられており、王太子の座にいる今とて磐石な地位にいるとは言えない。
誰もが敵となり得る王宮では、毒を盛られることも刺客を送られることも少なくはない。
ユーリツィアを愛おしむ手は幾度となく苦しみ喘ぎ、それらを呑み干すべくして剣を握っている。王冠の重みに耐えるために傷を負うファルゴに頬を寄せ、目を伏せて鼓動の音に耳を傾けた。
「あれはな、何度もわたしと同じように命を狙われて来たんだ」
「そんな......! メルカトラ公爵家と敵対するだなんて、そんな愚かな者がいるというのですか」
絶句するユーリツィアに、ファルゴは自嘲めいた笑みを重ねる。
「いないさ、いるわけがない。本来であればな。だが、あれは公爵にひどく疎まれているのだ。故に挿げ替えようと画策する者があとを絶たなかったが、公爵はな、どんな時でも傍観していたよ。ルシニアが死ねば、本来わたしの婚約者に就くはずだった姉が後釜に座る。たとえ体が弱くとも、ルシニアを守れなかった責任を王家に問うつもりだったのだろうな」
メルカトラ公爵家の姉は体が弱く、自領地からも出られないほどだというのは有名な話だ。だからこそ本来であればファルゴの婚約者は姉だったが、ルシニアがその代わりのように宛てがわれていた。
そんな事情を知ってか、王宮にいる大人は小さな少女の命を容易く弄ぶ。
ユーリツィアの手が震え、それはルシニアの耐えて来たものの重さを垣間見えてしまったからだった。色恋に浮かれてはならない。その言葉が頭に浮かび、ぎゅっと目を瞑ってかき消そうとする。
ファルゴの手があやすようにユーリツィアの背を撫で、顔を上げればようやく目が合った。
「そなたを守るだけの力はつけた。それに、アグライア伯爵家もそなたを守ることに尽力するだろう。そなたが恐れるものはないし、そんなものを近付けさせる気は無い」
不安を拭うように触れたキスは軽く、ユーリツィアの頬が薄く色づいた。
怖いものは何もない。その言葉はユーリツィアの弱い心には響き、確かな安心感に包まれる。けれど、ただ守られるだけではいけないのだと、ルシニアのチャコールグレーの瞳を思い出し、意を決したように口を開いた。
「ルシニア様を恐れる理由を、お聞かせください」
ユーリツィアが頬に触れると、ファルゴは泣きそうに眉をしかめ、その手を強く握って口付ける。
ユーリツィアはそこで気付いた。ファルゴもまた、罪悪感に苛まれているということに。
「わたしはずっと恐ろしかった。いつ死ぬやもしれぬと思えば、夜を寝ずに明かすことも多かった。食事を摂るのが恐ろしい、廊下を歩くだけでも恐ろしい、誰かに背を向けることなんて、もっと恐ろしかった」
抱えていたものを吐き出すのは辛い。
ファルゴの立っている場所がひどく不安定であることを、何よりも自身が理解しているからこそ苦しいのだ。だが為政者は弱点を晒せないし、弱音を吐くことも出来ない。
だというのに、ファルゴを見詰める眼差しの温かさを知ってから、胸の内に溜めていた恐怖が口から出て止まらなくなっていた。情けない姿を見せたいわけではないのに、それすらも受け止め、目尻に溜めた涙を堪えて見詰める瞳が愛おしいと感じる。
ファルゴはあのチャコールグレーを思い出し、そしてその薄い唇から出た赤い血が脳裏に浮かび上がる。
「あれは死を恐れぬ、生を拒む者だ。毒を含んでも、剣で刺されようとも、微笑むのだ。死に直面してもなお、なんの後悔も映さない、あの瞳が怖いのだ。あれはな、既に死んでいるんだよ。ルシニアは、死んでいるのだ」
ファルゴの皿に盛られた料理は熱を失っている。毒味を済ませてから運ばれるそれらは時間が経ち、冷めきった頃にようやくファルゴの前に並べられる。
親と共にすることはないその食卓に、向かい合うようにルシニアがいる。
小さなテーブルだった。まだ幼いルシニアと2人、足のつかない椅子に座って食べる食事は冷たい。
婚約者として目の前に座る彼女はいつも遠くを見ていて、ファルゴのことを見ることは無い。ファルゴとしてもそんな瞳に映りたいと思った試しはなく、澄ました女だとしか思っていなかった。
ファルゴの部屋で行われる食事会はいつも無言で、終始食器の音だけが部屋にある。お世辞にも楽しいとも、ましてやこの冷めた料理が美味しいとも言えない。
食事は結局作業の延長であり、ファルゴにとっては恐怖の対象でもある。
そしてその日も、これまでと大差のないものだと思っていた。
ファルゴとは違い、ルシニアの食事の手には迷いがない。ファルゴは食事にも恐怖を抱いていたため、その手はいつも遅かった。
ルシニアがスープに口をつけているのを見ながら、自身は意味もなくスプーンで掬っては落としてを繰り返す。マナーがなっていないその行いに、けれどルシニアが言及してきたことは一度もない。
ルシニアは何度目かのスプーンを口に付けてから、その手を止めた。ゆるりとした動きでスプーンを置き、珍しくも席を立つ。
食事の最中に席を立ったことなど一度もなかったというのに、彼女はあろうことかそのままテーブルをひっくり返した。当然並べられていた食事は床にぶちまけられ、悲鳴が上がるのも無視して彼女はワゴンに乗せられていた他の食事もすべて床に叩き落とした。
突然の奇行に呆気に取られていたファルゴだが、ようやく我に返ってルシニアの行動を止めようとする。けれど彼女はファルゴに振り向くと、その唇から赤い血を滴らせながら近寄った。立ち上がったものの、そのただならぬ様子にファルゴは思わず椅子に尻もちをつく。
ルシニアに恐怖を抱きながら、その唇から流れる血から目が離せない。どうしたのかと問うことも出来ず、ルシニアの手がファルゴに伸びる。
反射的に目を瞑ったが、ルシニアに無理やり口を開けさせられ、反動で開けた目の前に無機質なチャコールグレーが飛び込んだ。
『口にしましたか?』
淡々とした口調だった。
訳が分からないでその手を退けようとするが、彼女は常とは違う圧倒的な力で持ってファルゴを押さえつける。半ばパニックになったファルゴをものともせず、掴んだその手を引っ掻いても彼女は動じない。
返答がないというよりも、返答すら出来ないファルゴに痺れを切らした彼女は、侍女たちの制止の声すら振り切ってファルゴの喉奥に指を突っ込んだ。
唐突な異物感に胃の奥から迫り上がる嘔吐感。それらは喉に苦味を残して吐き出され、ルシニアの白い手を汚していく。
ファルゴはまだなにも口にしていなかったので、出てきたのはほとんど胃液だったのだが、朝食の残りもちらほらと残っていた。それを見てもう一度吐いて見上げた彼女は青白い顔をしており、何事かと駆け付けた騎士たちに取り押さえられていた。
部屋はまさに凄惨な現場と化し、ルシニアが突如奇行に走ったと侍女たちが口々に言う。ルシニアが口から血を流しているというのに、誰も食事に毒が盛られていたことを口にしない。
ルシニアがテーブルをひっくり返さねば、ファルゴもその毒を口にしていたと思うと恐ろしくなり、騎士たちにルシニアを医師に診せるように指示する。侍女たちはこの時をもって暇を言い渡しても、脳裏に焼き付いた赤い血がファルゴに頭痛をもたらす。
もうなにも出ないというのに、強い吐き気ばかりが襲い、その光景を直視出来ない。
その後ルシニアは数日間生死の境を彷徨うことになったが、けれども変わらず澄ました顔をして王宮内ですれ違った時にはファルゴでも感謝と謝罪を口にした。だが返ってきたのは当たり障りのないもので、ファルゴはやはりルシニアは澄ました女だと思うしかなかった。
ルシニアの含んだその毒が、致死量以上の量をもって盛られていたということを知ったのは、そのさらに数日後だった。
ファルゴは剣の鍛錬を終え、自室に戻ろうとしていた時だった。なにかが聞こえた気がして、胸騒ぎを感じたファルゴはその音の在処を探し始める。
人通りが少なく、やや影になるような廊下の隅だった。妖しく濡れた床が目に入り、なんだと思えば供をしていた護衛に目を塞がれる。
護衛の声に剣がぶつかる音と、何かが切り裂かれる音。それが硬い肉を裂く音だったとあとになって気付いたが、最初に聞いた、段々と大きくなっていた音が柔らかい肉を裂く音だということは最初から知っていた。
指の隙間から見えたサンドベージュの髪は見覚えのあるものだったし、チャコールグレーの瞳は変わらず微笑んでいた。それが、ルシニアに正しく恐怖を覚えた最初の出来事だった。
「死を恐れぬのではない、死を受け入れるあの瞳は、死こそ最大の幸福とばかりに輝いていた。あんなものを受け入れるなど、臆病者の私には到底無理なのだ。生きることの尊さを知れば知るほど、死を尊ぶあれが恐ろしくて堪らないんだ」
死は尊いものではなく、生き抜いた先にあるからこそ意味がある。そうファルゴは考えていた。
故に死ぬことにしか意味が無いとばかりに何度も死に向かうルシニアに、確かに命を救われていた。だがそれと同時に、自身が何かに侵食されていくような気がしてならなかった。
だからルシニアとは最低限の関わりしか持たないようにしたし、暗殺の類に屈しない力をつけたのだ。ルシニアに庇われることのないようにと。
そうして愛する者を得たファルゴは、解放してやろうとした。いや、自身が解放されたいがためにあんな茶番まで引き起こしたのだ。
だがそんな時、どんな化け物よりもよほど化け物らしいルシニアは、ファルゴの友人であるブラムバシアンを手中に収めていた。ファルゴは気が滅入りそうになったし、実際気は取り乱していたのだ。
あれと関わってはならないし、関われば死に足を踏み入れるだけだと。ブラムバシアンに蔑まれようと、ユーリツィアに怒りを向けられようと、あれから遠ざけなくてはならないと本能が叫ぶのだ。
「魔塔は――ブランは人なんだ。俗世から離れても、あれらは人の領域に留まる。だが、ルシニアは既に人の域を越えている。どれだけ毒を盛られようと、どれだけ身体を剣で貫かれようと、あれは死なない。何をしても死なないのだ。誰も関心を寄せなければ、わたしも墓まで持っていくつもりだった。あれは人なんかではないんだ......!」
ファルゴは懇願するようにそう言った。
ユーリツィアはこれまでの話を頭ごなしに嘘とも言えず、けれどあのルシニアの優しさに触れてから素直に頷くことも出来ない。
ルシニアは、ユーリツィアとなにも変わらない、ただの女の子ではないかと、そう言いたい。しかし、ファルゴのこのように取り乱す姿は見たことがないし、強く掴まれた手が信じてくれと訴えているのを払うことなんてユーリツィアには無理だった。
孤独に苛まれ、ルシニアという罪悪感と恐怖を抱え続けたファルゴは、長年の痛みをようやくさらけ出している。そんな彼にどう声を掛けるべきなのか、ユーリツィアは迷って唇を噛むことで自身の混乱を呑み込むことで精一杯だった。
その日、ユーリツィアは答えを出せず、ファルゴが漏らすその息が整うまで、背中を撫でてやることしか出来なかった。




