11
「駄目だよ、ルシニア。お前を治すのは俺だけだ」
頬に熱が灯るのと同時に、見上げたマリーゴールドと目が合う。呆気に取られるルシニアに、彼は笑みを落として手を離す。
ユーリツィアの行き場を失くした手が彷徨うのを視界の端で捉えているのに、ルシニアはマリーゴールドから目が離せない。
「ルシニア、他に怪我をしているところは? 痛むところはあるか?」
そう言ってルシニアの顔を覗き込むその顔こそ、普段より少しだけ翳りがあるように見える。彼の部屋から出てからそんなに時間は経っていないが、明らかに体に変調を来たしているようにも見えるが、錯覚だろうかとルシニアは問題ないと口にする。
安堵の息をついたブラムバシアンは、次いでようやくユーリツィアに目を向けた。
感情の篭っていない瞳を向けられ、ユーリツィアは肩を跳ねる。けれどじっと見返す瞳には何かしらの決意が宿っているようで、彼女はルシニアの手を取って自身に引き寄せる。
「ルシニア様を独り占めなさるおつもりでしたら、あなたが次期魔塔主と言えども、私は負ける気はありませんからっ!」
そんな言葉にはルシニアもぎょっとする。何を言い出しているんだこの娘はと、ユーリツィアを見ても、彼女は何故かブラムバシアンに対抗心を燃やしている。
果たしてブラムバシアンも、へぇと抑揚のない声音で返すだけ。見えない火花が散っているように見え、これはまたどんな展開だと頭を抱えたくなる。
「えっと、ユーリ。どうか落ち着いて」
「いいえ、落ち着いてなどいられません! 私はもうあなたを守ると決めたのですから!」
ふんすと鼻を鳴らしてブラムバシアンを威嚇するユーリツィア。ルシニアの声もなんのそのと、やる気に満ち溢れている今はなにも聞こえない。守るだのというのはどこから派生したのか、ルシニアには皆目見当もつかない。
かといってブラムバシアンを見やっても、彼は不機嫌さを全開にしていた。何が彼の気に触ったのか、ルシニアが声を掛けるよりも彼は沈んだ声で言う。
「俺の名を呼ぶことは無いというのに、その女の名は呼ぶのか」
不機嫌オーラ全開にそう拗ねるブラムバシアンに、ユーリツィアは勝ち誇ったような笑みをするもので、幼稚な戦いにはルシニアは閉口する他ない。争点がそんなもので良いのかと考えるが、たとえどんなものであろうと面倒なだけ。
ルシニアはブラムバシアンの背後にいた影に気付き、話を変えてしまえとばかりに声を掛ける。
「ファルゴ殿下、隠れんぼは卒業していなければいけない歳だと思いますが?」
「そなたは棘を含まねば口を開けぬのか」
それはお互い様だろうと、ブラムバシアンの背後に連れられたファルゴを見やる。
彼の登場に、ユーリツィアのルシニアの手を握る力が強くなる。それを宥めるように手を重ねると、ファルゴの顔つきはより一層険しいものになる。
「取って食うようにでも見えるのですか?」
「はっ、既に食い荒らしているではないか」
まさに売り言葉に買い言葉。
ファルゴのルシニアに対する態度に、ユーリツィアはきっと目付きを鋭くする。そんなユーリツィアに怯むファルゴに、これが惚れた弱みかと納得する中、ブラムバシアンもまた険しい顔をしていることに気付く。
味方と呼ぶには関わりたくない人達だが、それでもどこか嬉しい気持ちがあるのは本当だった。
ルシニアは立ち上がると、ファルゴの正面に立つ。身構えるファルゴに、ルシニアは微笑みとともに右手を差し出した。
「なんの真似だ」
訝しむ声はルシニアの行動の意図を汲み取れず、不機嫌さも伴って低いものだった。
「あら、殿下はご存知ありませんか。和解する時はこうして互いの手を取り合うのですよ」
「和解、だと?」
「ええ、そうです。だってわたくしたち、初めて喧嘩したのですから。和解の仕方を殿下がご存知ないのも仕方なかったですわね。ここはひとつ、わたくしが大人となって先に折れてあげましょう」
ほら早くとばかりに右手を振り握手を求める。
和解、と口の中で反芻するファルゴは今ひとつピンと来ていないかのようだ。
ルシニアは痺れを切らし、ファルゴの手をとると無理やり握手をする。驚愕とともに離そうとする手を握りながら、ルシニアは体を近づける。
ユーリツィアに聞こえないように囁き、体を離すとファルゴは渋面のまま大人しくなる。
ユーリツィアも2人が和解したと思ったようで、良かったと満面の笑みを浮かべているのだから、ファルゴも納得する他ない。そんな2人の間に割り入るのはブラムバシアンで、べりっとルシニアの手をファルゴから引き離すと、汚いものに触れたとばかりに自身の制服に擦り付けさせる。
引き攣ったファルゴの顔と、次いで怒りの声が中庭に響いた。
「ブラン! そなたはわたしをなんだとっ」
「喚くな、ルシニアの耳が壊れたらどうする」
ルシニアの耳を両手で塞ぎ、ファルゴの怒号を跳ね返す。ルシニアは目を丸くしてブラムバシアンを仰ぎ見るが、彼はファルゴを見ている。
2人は幼少の頃からの付き合いがあるとは知っているが、それならばルシニアもファルゴと幼少の頃からの付き合いだ。だが2人はルシニアとは違い、気楽に言い合いを出来る仲なのかと思えばなんというか、ファルゴが不憫に扱われているだけのようにも見える。
魔塔の者は何ものにも縛られない。それはそれとして、あまりにも自由すぎやしないかとルシニアは思わずにはいられない。
そんなルシニアの手に、急に引っ張る力が加わって体勢を崩せば、ルシニアはユーリツィアに抱き締められていた。
「独り占めはさせません!」
「ユーリ!? そなたまでそこに加わると言うのか!?」
「俺のルシニアだ、独占するのは当たり前だろう」
「いいえ、ルシニア様は私のお友達です!」
「おい! 無視をするな!」
ルシニアを挟んで言い合いをする2人と、そんな2人にまったく相手にされないファルゴ。
頓珍漢なその光景に、どうしてこうなったのかと聞かれれば、ルシニアだって分からないと泣きたくなる。こんなことは初めてで、ルシニアはされるがまま、何もしないことを選ぶしかない。
だがそんなちょっとした騒ぎも、ファルゴが我慢出来なくなったことで終わりを迎える。ユーリツィアの手を取って自身の腕に閉じ込めたかと思えば、ルシニアに敵対心剥き出しの瞳で捨て台詞を残していく。
「ブランもいつか取り戻してやるからな!」
取り戻すもなにも、ルシニアは取り上げた覚えすらない。
ルシニア様! と藻掻くユーリツィアを抱き上げ校舎に戻るファルゴの背中を見送り、嵐が去ったような心地で一息つく。
ブラムバシアンも同様に溜息をついたかと思えば、彼はルシニアをベンチへと座らせる。ユーリツィアのために敷いていたハンカチの上に腰掛け、隣に座ったブラムバシアンに目を向ける。
ようやく平穏を取り戻した中庭は、木々のざわめきも穏やかなものだった。
とんだ騒ぎだったが、まさか1日のうちに2度も合う日が来るとは思わず、ブラムバシアンの横顔を眺めている。彼は一度研究に没頭すれば、その日のうちに会うことはない。そう思っていたのに、ブラムバシアンはその姿を容易く現して見せた。
緋色の髪が風に攫われ、言葉がないことに不安を覚えるのはその顔がいつもより翳っているからだろう。
ファルゴを連れて来たのは彼であり、助けようとしてくれたことは窺える。体調が悪いのかと問うべきか、ユーリツィアの回収班であるファルゴを連れて来たことに感謝をすべきか迷うルシニアだが、唐突にブラムバシアンがゆっくりともたれかかってきたことで思考が止まる。
「どうし――」
ルシニアが訊ねるよりも先に、その体温が異常に高くなっていることに気付いた。先程から触れてはいたが、やたらと熱っぽいような気はしていた。
だがこうして改めて触れると、やはり熱があるようで、心なしか頬も赤くなっている。眉を寄せて苦しげに息を漏らす様は病気を患っているようで、風邪かと疑って額に手を当てる。
思った以上の高熱にルシニアは歯噛みする。ここで倒れられてもルシニアでは運べない。魔力も乏しく、体格差的にも厳しいのだ。かと言ってここで残して人を呼びに行くというのもはばかられる中、ブラムバシアンがゆらりと動いた。
動けるのならなんとか医務室まで自力で歩いてもらうことができると、ルシニアは彼の体を支えてやれば、熱に浮かされたマリーゴールドがルシニアを捉える。
突然の体調の変化は、兆しがあったというのに、軽視してしまった事実がルシニアを苛む。苦しげな浅い息が、姉の姿を呼び起こしてルシニアの心に深くのしかかった。
ふと自責の念に駆られるルシニアの耳は、ブラムバシアンの平時より掠れた声を拾う。よく聞き取れないその声を聞くため、耳を近付ければ彼の頭がルシニアの首筋にすり寄せられる。
「――血が......欲しい......」
本能的な危機察知によって思わず身を離せば、彼は熱に潤んだ瞳でルシニアを見ていた。
漏れ出る吐息は艶かしいもので、ルシニアの喉がこくりと鳴った。
彼はルシニアの血が、香しいと言っていたことを思い出す。この体調の悪化は魔力によるものだとしたら、魔塔の定める運命であると考えるルシニアの血が、魔力が沈静化に役立つのだろうかと考える。そんな事例はもちろん聞いたこともないが、魔塔がそもそも公表していないだけなのだとしたら。
魔力暴走がこのような症状を見せることを同時に思い出し、ルシニアは迷いながらも頷いた。流されたのではないのだと、そう自身に強く言い聞かせながらだ。
ブラムバシアンは一度眉をしかめたが、やがて抗えないとばかりにルシニアの手を取った。熱いその手にルシニアが戸惑いを見せるが、それらを宥めるように甲に触れ、唇で幾度も食んで指先へと伝う。人差し指の先に辿り着く唇は、やがてその指をくわえて舌先が撫で上げる。
ざらりとした感触は、いつかの本の表紙よりも滑らかだ。ひどく妖艶にブラムバシアンの瞳が細められ、彼の口内の熱さにルシニアは耐えることしか出来ない。すると突然小さな痛みが襲い、ルシニアの指先が噛まれたのだと理解すると、彼がじっとルシニアを見ていることに気付く。
こちらを見ながらも、指先からじわりと漏れ出る血液を舐める様は艶かしいものだ。挑発的な視線に脳が茹でられる思いになる。ルシニアといえどもこのような体験は初めてであるし、状況とも相まって頭がぼうっとしてくるのを感じた。
口から離されたそこへ銀色の糸が伝うのが見えると、ルシニアも頬を染めざるを得ない。いけないことをしているのではないかという気分にさせられ、ルシニアが視線を逸らせばブラムバシアンの手が伸びた。
彼はルシニアを掻き抱くようにしたかと思えば、首筋に唇を這わせる。何をするのかと問おうとも、舐め上げらる舌の感触に言葉を奪われた。悲鳴にも満たない声が喉から漏れ出て、ルシニアは身を震わせた。
「――喉が、渇くんだ」
低い声はルシニアの首を舐めると、ぷつりと容赦なく柔い肌に歯を突き立てる。
あっ、と情けない声を上げれば強烈な痛みが襲いかかった。ちかちかと目の前が明滅し、じゅるりと吸い上げる音が鼓膜を嬲る。
食べられると、本能的に察したところで逃げられない。ルシニアを抱きしめる力は強くなる一方で、ブラムバシアンの服を強く握って痛みを逃がすようにするしかない。
吐息とも、呻き声ともつかないものが混じり合う。
「エニウム、さま......」
瞳からぽろりと零れるのは生理的な涙で、ルシニアは自身の血液を貪るようにして魔力を吸い上げるブラムバシアンにしがみつく。すべての血液を吸われていのではないかと錯覚する中、指先から徐々に力が失われていく。
痛みに呻く自身の声が遠く、だというのにブラムバシアンが血を啜る音がやけに頭に響く。頭が曖昧さに痺れを来し、けれど強く抱かれた腕が離れることは無い。
ルシニアはとうとうブラムバシアンにしがみつくことも出来なくなり、だらりと垂れた手にようやくブラムバシアンが顔を上げた。
口元を血に染めた彼はルシニアの顔を覗き込むと、段々と正気を取り戻したかのようにその熱が引いていく。
青ざめた顔を見上げながら、ルシニアは重たい腕を上げてブラムバシアンの口元の血に指で触れた。くらくらと目眩がするばかりで、ルシニアはふと王宮での出来事を思い出していた。
けれどルシニアが過去に浸ろうにも、血を失った頭は正常に回ることさえままならない。血に濡れたブラムバシアンの唇が微かに震えているのが見え、ルシニアはふっと口元を緩める。
これが、自身の望む先へと至るための試練なら、痛みなど最早苦しみにはなり得ないと、そう思ってルシニアは幸福さに酔いしれる。
「――あなたって、少し......食いしん坊だわ」
束ねていたルシニアの意識はそこで霧散し、最後に映ったブラムバシアンの顔がどんなものだったか、よく見えなかったのは心残りとなった。それでもルシニアにとって、覚めない夢が終わるならば結局、どうでもいいと切り捨ててしまえる程度のものなのだろう。




