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渡り鳥のあなた  作者: 加永原
プロローグ
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プロローグ

 心底どうでもいい。

 言葉を選ばずに胸の内にある思いを吐露(とろ)するのなら、そんな言葉だった。

 目の前に突き付けられた指をじっと見詰め、()いで持ち上げた視線の先に広がるのは満足気な顔。その顔には何やら言い知れぬ正義感のようなものさえ携えており、はてと首を傾げてしまいそうになる。


「ふむ、その顔は理解出来ていないとみた」


 それはまぁそうだろうと、口から零れそうになるのを押し止めたのは偉かったと言える。結局何を言ったところで面倒なことになるのだ。

 故に、何度でも思うしかない。

 

「ルシニア・フォルト・シルヴァトス、そなたとの婚約破棄を言い渡す」


 突如として廊下の真ん中で繰り広げられたそんなやり取りはもちろん、多感な歳頃の子供たちが集う学園では良い見世物だった。子供でなくともこんな愉快な場面に出くわしてしまえば、誰だって興味本位で見てみたくなるものだろう。

 ルシニアは周囲の視線が鬱陶しいと思いながらも、優雅な態度を崩すことなく自身の“元”婚約者へと目を向ける。

 貴族令嬢然とした風貌(ふうぼう)とは反する気だるげなその瞳は、人々の目には言いようのない妖艶(ようえん)さに変換されて映る。公爵家の令嬢としての教養はもちろん、今まで王太子妃としての教育まで受けて来たのだ。その仕草は完璧なまでに美しい所作であり、肩から落ちた横髪を耳にかけ直す仕草には誰かが息を呑む。

 薄く閉ざされていた唇が開き、ルシニアは淡々とした口調で言う。


「殿下がお望みとあらば、わたくしは承諾する他ありません。わたくしは喜んで身を引きましょう」


 これといって悲しみもせず、なんの感慨(かんがい)すら浮かばないルシニアに、王太子であるファルゴは身構える。何を言われるのか予測がつかない上に、こうまで完璧な対応をして見せられると下手な罪悪感まで生まれそうなのだ。

 (かたわ)らに立つ、ルシニアに取って変わる婚約者の手を握り、(なか)ば睨むようにチャコールグレーの瞳を見詰め返す。


「ただ一つ――そう、一つだけお約束していただければと思うのです」


 ごくりと、誰かの生唾を呑む音が聞こえた気がした。


「婚約は王家と公爵家の両家間で結ばれていたもの。おいそれと覆せるようなものではないと記憶しています」


「あぁ、そうであろうな。だが、それがなんだと言うのだ? 婚約破棄は容易ではないだろうが、出来ないものでもないのだ。やはりその地位を手放すのは惜しいと言うのか」


「いいえ、そのような分不相応な心など、わたくしは持ち合わせていません。ただ、わたくしでは婚約破棄の手続きなど出来ませんので、殿下が思うままに進めていただければ良いなと」


 思っただけでございます、と。

 伏し目がちに逸らされた瞳は冷めているものの、人々には傷心の女に映るだろう。ルシニアとしては本当にこれっぽっちも未練もないのだから、これは面倒事はすべてお前がやれという言葉を言い繕っただけに過ぎない。

 もちろん、ルシニアがこの婚約に関して何も出来ないのは本当であるのだが、あとから下手な責任を押し付けられても面倒事が増えるだけ。であるならば、目撃者の多いこの段階で言質を取るほうが合理的と言えた。

 そんなルシニアの心情を知らない周囲の野次馬は、同情的な視線を送ってくるのだからなんとも簡単な話だ。

 ファルゴは物分りの良過ぎる元婚約者を(いぶか)しみはしつつも、話が(まと)まるのであればと了承をする。隣に並ぶ次期婚約者の顔が(ほころ)ぶのを見てしまえば、最早ルシニアのことなど視界には入らないほどである。

 このような茶番劇を開くくらいなら、書面で寄越せば楽なのにと思い、静かに身を引くルシニアを追う者などどこにもいない。

 突如として開かれた、物語で言えば断罪シーン。王太子を巡り、婚約者と恋人が争う場面はさぞかし盛り上がることだろう。これまでの悪行を暴かれる元婚約者は悪女と罵られ、そんな彼女にいじめられていた恋人は晴れて正式に婚約者の座へと上り詰める。

 だがしかし、そんなものは結局のところ物語に過ぎず、ルシニアは現実を生きているのだ。

 ルシニアは王太子の婚約者であるが、彼の恋人に関しては何も口を挟まなかった。それどころか自身は常に一歩身を引いた状態を保ちつつ、婚約者としての役を求められれば応じてきた。

 そんな彼女は同情されこそすれ、どうして断罪することがあるのか。

 別れを切り出されてもルシニアにはファルゴに対して特段恋愛感情など抱いていなかったのだから、(すが)る理由もなければ地位に対する未練もない。むしろやっと自由になれたと清々しいほどの解放感があった。

 人々の声はルシニアには鬱陶しいものでしかなく、一人になるべく廊下を抜けて中庭へと向かう。そこには色とりどりの花が咲き乱れ、青々とした木が植わっている。

 あまり人気のないこの場所はルシニアにとって(いこ)いの場であり、木の裏側には校舎に沿ってベンチが置いてある。丁度よく木が陽射しを(さえぎ)り、柔らかな陰が落ちるそこは特等席だ。

 特にすることもしたいこともない時に、この場所でただぼんやりと木を見上げているのはルシニアにとって息抜きとなる。爽やかな風によって揺れた葉は、時折木漏れ日のかたちを変えていく。

 眩しさと懐かしさが胸の中に溜まる(おり)を溶かすようで、静かに息を吸うと花の香りがほんのりと香る。

 無心になれるこの瞬間が堪らなく愛おしいと思い目を伏せると、突然頭上から何かが割れる音が響いた。きらきらと光るそれが硝子だと認識すると同時に、咄嗟に頭を庇うように腕を上げる。

 幸いにも大きな破片が降ってくることはなかったが、それでも手の甲が切れたのかじんわりとした痛みが襲ってくる。何事かと見上げても、どこかの部屋の硝子が割れたことしか分からない。

 じくじくと痛みを持つ右手を見てみると、血がぷっくりと浮き上がり始め、垂れそうになって慌てて衣服につかないようにする。ハンカチで止血して、医務室に行って治療をしてもらうしかないだろう。

 ハンカチを取り出したものの、片手では上手く巻くことが出来ずに血を拭うことすらままならない。学園には侍女も連れ立つことが出来ないため、単独行動はこういった時に面倒だなと頭の片隅で思う。

 ぽたぽたと、地面に染みをつくるのだけは止めたいが、上手く巻けずに傷口を擦ってばかりで痛みは増すばかりだ。

 ハンカチと悪戦苦闘していると、不意にルシニアに陰が落ちる。木漏れ日とは違い、妙に暗いそれに顔を上げると、マリーゴールドの瞳と目が合った。

 どこからともなく現れたその男はルシニアの手を見ると、膝が汚れることも(いと)わずに(ひざまず)く。緋色の髪が木漏れ日を受けて煌めき、彼はルシニアの手を優しく取ると包み込む。

 じんわりと熱を持ったかと思えば痛みは引いていき、離された手の甲には傷痕もなければ流れていた血液の痕跡もなくなっていた。


「あ、ありがとうございます」


「いや、俺の失態のせいで怪我をしたのだから当然の行いだ。他に怪我は?」


「いえ、他に怪我はありません」


 そうか、と立ち上がった彼は指揮者のように手を動かす。すると散らばっていた硝子の破片が宙に浮き上がり、元ある場所へ戻るかのように校舎方へと吸い込まれていく。

 繊細な魔法の技術にルシニアは思わず見蕩れてしまい、ハッとして我に返るとマリーゴールドがこちらを見ていた。気を抜いた顔を見られていたのかもしれないと思うと居たたまれず、なにか? と口にする。


「改めて謝罪をさせてくれ。未婚の女性に傷を作るなど、あってはならないことをした」


「いいえ、その謝罪は過分なものです。あなたのお手によって既に治療は受けましたので、むしろわたくしが感謝すべきです」


 微笑みをもって返せば、緋色の髪の男は眉間に皺を寄せる。なにか気に食わないことでもあったのかと問いたくなるが、ルシニアは面倒ごとを自ら起こすようなことはしない。

 

「安心してください、教師に告げ口をするようなことはいたしません。メルカトラ公爵家に誓い、そのような愚行はいたしませんから」


 優雅な所作で立ち上がったルシニアは、頭を下げてからその場を後にする。

 名も知らぬ、緋色の髪がやけに鮮烈に記憶に残る中、ルシニアはあることに気が付いた。手に巻くはずだったハンカチは、手を包まれた時に男が持っていた。

 血が付着したものなのだから捨ててくれるはずだろうと、振り返ることなくルシニアは校舎へと戻って行った。

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