彼の事情(sideカイン)1
あぁ、俺もここまでか………。
敵対するマフィアのボスの暗殺を依頼されて忍び込んだ先には、猛者たちがゆうに10人はいた。
つまりはハメられたのだ。おそらく俺に命を狙われたくないマフィアがお互いに紳士協定を結び、そしてこの国では新人暗殺者の俺が気に入らない既存の闇組織も一枚噛んでの仕業だろう。もっと事前の調査が必要だったか。
そんな反省をしつつ、俺はフラフラと裏路地をさ迷う。とにかくここから早く離れねば。10人全員きっちり皆殺しにしたが、思ったよりダメージが大きい。
止まらない出血に、殴られたせいかはっきりとしない視界。とにかく少しでも安全なところで休みたくて、俺は店と家との隙間に滑りこみ、そこに座り込んだ。
短い人生だった。
記憶もないようなガキの頃に人買いに攫われて、そのままテネブラエで訓練と暗殺に明け暮れ、そこも急襲され流れ流れてここまで来てしまった。
「いいか、どこでもいいから腰を落ち着けて暮らすんだ。お前は本当に大切にしてくれる人を見つけろ。」俺をあの暗殺者狩りの中から逃がしてくれた男が言っていたが、それは無理そうだ。生来の根無し草なんだろう、俺は。
ぼんやりと空を見つめていると、誰かが立ち止まる音がした。そちらの方を見ると、ちょうど俺があそこから逃げたくらいの歳のガキがこちらを凝視していた。ブラウンの瞳が揺れている。まあ、この国は比較的治安がいいから、こんな状態の人間がいるのが珍しいのだろう。だが、マフィアは目撃者を好まない。ここにいるとコイツも危ない。
「巻き込まれてぇのか。一緒にいると間違いなく殺されっぞ。」と俺は言った。頼むから早くどっか行ってくれ。そんな俺の思いをよそに、そこからちっとも動かない子供。
石でも投げつけてやろうかと思ったが……くそっ、体に力が入らねえ。
早く……。俺を探す男たちの足音が近づいてくる。すると何を思ったのか、ガキがこちらに歩み寄ると俺の前で立膝をついた。
一瞬何が起きたのかわからなかった。気付くとガキが覆いかぶさって、俺に口づけていたのだ。脱いだ帽子を俺にかぶせ、俺の目の前にはワイン色の長い髪が輝くシルクのように広がっている。
「ちっ、マセガキかよ。お盛んなこって。」
何を勘違いしたか、ヤツラが捨て台詞を吐いて、遠ざかっていく。コイツ俺を助けたのか……?
柔らかいくちびるが離れていき、目が合った。少年じゃない、少女だ。
「お、お前……。」
「私はディアナ。あなた、追われてるんでしょう?あいつらの手の届かない、安全な場所に匿ってあげるわ。」少女にしては落ち着いた声で、俺にそう言うと刺された部分に布をあてた。
「腹部を圧迫するのはよくないだろうけど」と言うと、俺を担いで走り出す。殴られた部分が押され、俺はうめいた。庭園の近くにある豪華な馬車に俺を放り込む彼女。
中にいた地味なメイドが俺を見て驚いていたが、どうやらこのまま医者の手当てを受けられるらしい。この少女が何者なのかわからないが、俺を害する意図は無さそうだ。そのまま俺は気を失った。
俺は眠り続けた。目を覚まそうにも、身体がいうことをきかない。ゆらゆらとただよう意識の向こうで、誰かが優しく俺に触れるのを感じていた。「きっとよくなるわ。」ささやきながらその小さな手が手当てをしてくれている。暗殺者として感覚が鋭敏になるように教育されてきた俺は、人に接触されるのがひどく苦手だったが、不思議とこの手は嫌じゃない。少しずつ頭がはっきりしていくと、その手を逃したくなくて、目を覚ました俺はとっさに細い手首をつかんでしまった。
コイツは……あのときの少女か。状況がわからず警戒する俺に「と、とりあえず、放してもらえる?清潔にしておかないといけないってお医者さんからの指示だから。」と彼女が言った。「包帯を替えた後、蒸したタオルで身体を拭き清めます。」そう言って、慣れた手つきで俺のガーゼや包帯を替えていく。この手は……彼女が手当をしてくれていたのか。ふと、彼女と目が合う。ワイン色の長い髪を結い上げ、深い緑のワンピースを着た彼女は小さな貴婦人のようだ。このまま成長したら、さぞ美しい女になるだろう。
するとなぜか彼女の顔がどんどんと熟したリンゴのように真っ赤になっていった。いったいなんなんだ。
「あ、あのキスは申し訳ないと思うけど、その…人工呼吸みたいなもんで、命を救うための行為だったから……。でも勝手なことをしてごめんなさい。」と彼女が言う。
そういえば…追手をかわすために彼女に口づけられていたのを思い出した。仕事で商売女と関わる機会はあったが、徹底的に身体の接触を避けてきた俺にとっては初めてだったのだ。俺の顔にも熱がこもる。
「まあ、俺はいいけどよ…なんで助けた?貴族のお嬢様らしくノブレスオブリージュってやつか?」とそんな自分を誤魔化したくて、ぶっきらぼうに聞いた。あのときは下働きの少年のような格好をしていたが、質の高そうなワンピース姿の彼女はまごうことなき貴族の令嬢だ。
「別に、目の前で死なれたくなかっただけ。あと……その瞳がルビーみたいでキレイだなって。」と俺の瞳をまっすぐに見据えながら彼女が言う。俺の瞳は赤い。この大陸では悪魔憑きと言われ、忌み嫌われる色だ。記憶がないだけで、実は攫われたのではなく親に売られたのかもしれないと、密かに思っているくらいなのに。その瞳がキレイだって?おかしな令嬢だな。
「酔狂なご令嬢だな。あんなとこで転がってたんだ。お察しの通り俺は身ぎれいな人間じゃない。動けるようになったら、お前ら全員皆殺しにして、金目のものを持って逃亡するかもしれないぞ。」
「その時はその時よ。まあ、殺すなら一思いにやって欲しいけどね。」何でもないことのように微笑みながら、彼女が言う。
「そういえば、あなたの名前を聞いてなかったわ。」
「俺は…カインだ。苗字はない。」と俺は顔をあわせないように答えた。なんだか彼女の目を見ていると、鼓動が早くなる気がするからだ。
「カインね。改めまして私はディアナ・バーンスタイン。ただの気まぐれであなたを侯爵家で面倒見ることにしたご令嬢よ。」美しく貴族式の礼をし、くるりとスカートをひるがえして春風に乗る妖精のように退室していった。