てんき
フィリップはそれからしばらく凛花の存在を無視するかのように沈黙したまま窓の外を眺めていた。
「帰る──。」
突然そう言うとカツラを被り直しソファーから立ち上がった。
見送ろうと立ち上がった凛花にフィリップはそのまま大股で歩み寄ると、腕を引き寄せ強く抱き締めた。肩と頭を強くおさえられて呼吸が浅くなる凛花の耳元にフィリップが囁く。
「最初で最後だ、少しだけ我慢しろ。」
「フィル……苦しい。」
フィリップは大きくため息をつきながら身体を離すと、凛花に回した手はそのままでこちらをじっと見下ろしている。凛花はだんだん気まずくなってきたのでフィリップから視線を外すとその身体をそっと押し返した。
「雨の中馬車が待ってるんじゃないの?」
「待たせておけばいい。」
「……ダニエルはそんなこと言わない。」
「見送りのキスくらいするんだろ?」
「しません!」
フィリップは凛花をもう一度ギュッと抱き締めると、今度は頭をポンポンと叩きそのまま離れた。すでに表情はいつものフィリップに戻っている。
「じゃあな。」
「うん、気を付けてね。」
「あぁ。……行ってくる。」
何処に控えていたのか扉を開けるとすぐに現れたリリーは、再び王宮に行くと言う主を疑うことなく送り届けに行った。
フィリップの後ろ姿が見えなくなると同時に凛花にどっと疲れが襲い掛かる。
「何だったの……一体。」
へたり込む様にソファーに座り込むと意味もなく部屋の中を見回す。そう言えばここは凛花に与えられた部屋ではなくダニエルの部屋だった。
──アオイの話の続きを聞きに来たのは分かるけど…。そこからプロポーズとか……なんで?
「アオイ……。」
凛花の脳裏に唇に手を当てて微笑む茶髪のフィリップの顔が思い出された。
あの仕草が表すのは一体何だったのだろうか。アオイがダニエルを誘惑したというのは既に知っている事だったが、その詳細までを聞く勇気を凛花は生憎持ち合わせていなかった。
──誘惑って……何?
知らず自分の唇に手を当てると、はっとして我に返る。フィリップにはあれ程関係ないと言っておきながら、自分の頭の中は今アオイとダニエルの事で一杯だ。
「とりあえず、部屋に戻ろう。」
凛花が冷静になろうとダニエルの部屋を後にして、自分の部屋に戻ると机の上に出しっぱなしだった紙と絵の具が目に飛び込んできた。そのまま椅子に座ってペンを手に取ると何気なくそのペン先を見ていた凛花はあることに気が付いた。
ちょうどその頃、フィリップを見送ったリリーが部屋まで戻ってきた。
「リリー、あなたもペンを持ってる?」
「私ですか?はい、一応持っておりますが…あまり使っていませんからインクはありませんよ?」
「それ、見せてくれない?あと、ダニエルが使ってるペンも。他にも…邸にあるペン全部見せて!」
「全部ですか?」
リリーは少し驚いた様子を見せたが可能な限り集めてみると約束をして再び部屋を去って行った。
──もしかしたら、私にもできることが見つかったかもしれない。
凛花は手に持ったペンを近くにあった布で拭くと、そのペン先に力を込めて抜こうとした。金属の塊に細い切れ目が入ったそれは木の軸にしっかりと固定されているらしく引き抜くことはできない。
「やっぱり…つけペンとは違う。」
凛花は高校に入学すると同時に一時期文房具収集にはまっていた時期があった。その時にインクをつけて書くつけペンというものを買った記憶がある。きれいな水色のインクを試したいから買ったそれはペン先を付け替えることができた。万年筆よりも手軽に扱えたがどうしても手が汚れるし、すぐに飽きてボールペンの方に興味は移ったのだが……。
この世界のペンは凛花の知っているペンと構造が異なっていた。加工の技術が未熟なのとペンが進化の途上なのと…両方なのだろう。
──記憶を頼りに同じようなものができるかどうかは分からないけど、ヒントにはなるはず。
結局リリーが邸中からかき集めてくれたペンは10本余り。そのどれもが似たような造りで、凛花はペンの構造に改良の余地があると確信した。
「ねぇリリー?こういうペンってどこで作ってるもの?」
「ペン…ですか?さぁ。私たちはただ商人から買うだけですから。」
「私もその商人に会える?」
「……それは、ダニエル様に許可を頂ければすぐにでも。邸で商人に会うくらいならばきっとダニエル様もお許しになるでしょう。」
「じゃあ、ダニエルには私から頼んでみるわ、ありがとうリリー!」
──商人から職人に繋がりが出来れば、ペンもインクも改良出来るかもしれない。
アオイがヒロインであったこの世界が舞台の物語はきっともう隣国編に突入している。それにその物語の内容自体凛花の知っているものとは既に違う展開になりつつあるのだ 。
──そろそろ、覚悟決めないと…。私だって日本へ帰る方法なんてないことくらいもう分かってるもん。だったら何か少しでも役に立つ事をしたい…。




