悪あがきの行方
久しぶりによく寝たと思い切り伸びをすると、左手に温もりを感じた気がしてハッとして目を開けた凛花だが、ベッドに寝ているのは自分一人…。
「おはよう、凛花。起こしちゃったみたいだね。まだ早いから寝てていいよ。」
──やっぱり……。なにこの新婚さんみたいな会話…。
見上げた先にはベッドから抜け出したばかりなのか少し気だるい様子のイケメンの姿がある。
「……なんで一緒に?また見に来たの?」
「大丈夫。侍女にはもうバレてるから。」
「大丈夫って、なんかそれ…いろいろと…。」
まだほの暗い室内の様子からもダニエルが王宮に行くには早すぎる時間なのが分かる。
「毎日こんなに早く出掛けてたの?」
「……今朝は特にね。フィルから呼び出されたんだ。」
「……じゃあフィルももう起きてるのね。」
ダニエルはベッドで起き上がる凛花をじっと見つめると、低い声で淡々と続ける。
「…アオイが修道院から逃げ出したらしい。」
「え……」
ようやく動き出した凛花の耳に窓を打つ雨の音がかすかに聞こえた。
「……探しに行くの?」
「大丈夫。俺は王宮でフィルの傍に居るだけだ。領地には行かない。」
ダニエルはベッドに座っていた凛花の傍まで戻ってくると、ふわっと凛花の頭を抱き寄せた。
「暗くなるまでには戻るから。心配しないで。」
「……気を付けてね。」
窓を叩く雨音が一瞬強くなった気がした。あおいが修道院から逃げたというのは本当なのだろうか?だとしたらあおいは今ごろこの雨の中どうしているのだろうか?本来なら手引きをしてくれたはずのダニエルは結局修道院を訪れなかった事になる。もちろん王太子も行っていない。
凛花はダニエルが出て行ったばかりの扉から窓の外に視線を移すと、ベッドから抜け出した。
──雨…。あおいさんは記憶があるんだったら崖崩れに巻き込まれたりなんかしないよね?
結局修道院のあるオルランド領がステーリアのどの辺にあるのか、凛花はまだ知りもしない。
──北の国境に続く道が崖崩れに遭いやすいってフィルが言ってたような…。
だとすれば侯爵領はステーリアの北部に位置するのかもしれない。ここは王宮がある街なのだからきっとステーリアの中心部なのだろう。王都──名前も知らないこの街から北のオルランド領までどのくらいあるのかも分からない。
「結局、私は何も知らない。何も出来ない。流されるまま……。」
窓ガラスについた雨粒が勢いよく流れていく。どうやら外は風も出てきたようだ。
そろそろ日が昇ってもおかしくない時間だが分厚い雲のせいか室内はまだほの暗い。部屋にある灯りのつまみを捻ると昨夜二人で書き散らかした紙が目に入った。
「あ、これ早く片付けとかないと…。また侍女に勘違いされちゃう──」
凛花がダニエルの書いたステーリア語の文字が並ぶ紙を手に取った時、扉が小さくノックされ、そのまま灯りを持った侍女が入って来るのが分かった。
──ちょっと、侍女ちゃんタイミング良すぎない?いつもいつも……。
「リンカ様、おはようございます。今朝は随分早いお目覚めでしたね。」
「お、おはよう。その……音がしたから。」
「あぁ、物音で目が覚められたんですね?」
侍女は訳知り顔でふふふと笑うと灯りを部屋に置いて手早く凛花の着替えなどを準備し始めた。
──とりあえずはこの紙を何とかしないと……。
凛花はチラッと背後の机に目を向けると、一番上の引き出しを素早く開け手に持った紙を押し込んだ。
「ダニエル様は今朝はいつもより早かったですものね。」
「そうなのよ。私もあんなに早いなんて──」
とりあえず紙を引き出しに隠した事で気が抜けたのか、凛花は思わず口が滑ったことに気が付くのが遅れた。
──あ~!何?私今誘導尋問に引っかかった?頭弱すぎる……。
「雨がひどくなって参りましたし、ご心配でしょうが。リンカ様は今日は外に出ないようにとダニエル様から申し付けられております。」
「……そう。」
「女性は身体を冷やすとよくありませんから。」
侍女は青緑色のワンピースを手に戻ってくると、一瞬視線を凛花のお腹辺りに留めた。
──侍女ちゃん………。
「そう言えば、私貴方の名前教えてもらってないような?」
「私はリリーと申します。」
「リリーね。分かった。あのね、誤解しているようだけど、私、ダニエルとは知り合ったばかりなのよ?」
「はい、それはもう邸内の者は誰もが存じ上げております。でもダニエル様は今まで女性を邸に招かれる事なんてありませんでしたから、リンカ様はやっぱり特別なんですよ。」
「……ダニエルはここに住んでいなかったんでしょう?」
「それはそうですが。騎士団の住まいは女性は立ち入り禁止ですから、どちらでもそういう事は無かったと言うことですよ。それがリンカ様が来られてからは毎夜のように……。」
──いや、毎朝覗きに来てるんですが、あなたの主は…。
「ねぇ、ひょっとしてダニエルがこの部屋の合鍵持ってるの知ってた?」
侍女は満面の笑みでそれに頷いた。
「はい。私がダニエル様に頼まれてご準備致しましたから。」
──あぁ。いろいろともう勘弁して欲しい。
のろのろと着替え始めた凛花に向かって侍女の明るい声が響いてくる。
「机の上の書類はこの引き出しにまとめて入れておきますね?…あら、これは…?」
凛花はゆっくりとリリーの方に目を向けると、無言で視線を戻して服の胸元にあるボタンを留めることに集中した。
机の上を片付け終わった侍女は凛花が脱いだ服を手にしながらキラキラした目でこちらを窺ってくる。
「そうよ、もう全部リリーの考えてる通り!」
「まぁ、ダニエル様ったら!私も一度でいいからダニエル様の様な素敵な方から恋文をもらいたいものですわ!」
悶絶するリリーを完全に見ないふりをして凛花はもう一度窓の外に意識を向けることにした。




