目的がよく分からない
ザール語で書かれた本はダニエルが言っていた通り数が少なく、その上ほとんどが興味を惹かれない内容だった為、その場で眺めるに留めた。
とりあえずダニエルはこのまま仕事に戻る様なので凛花は馬車で邸まで送り届けてもらうことになった。
「俺もザールのことは気になるからできる限り調べておくよ。だから、リンカは邸に真っ直ぐ戻るんだよ?」
「もちろん、寄り道なんてしないから…大丈夫よ。」
「うん。気をつけて。」
心配そうに見送るダニエルだが、凛花は図書館での出来事のせいでまともにその顔を見ることができなかった。ダニエルの合図で馬車が走り出す。
──そう言えば、一人で馬車に乗るの初めてかも…。
王宮の門を出ると馬車の速度が早まった。オルランド侯爵邸は王宮からそれ程離れていないので馬車は直ぐに邸に着くだろう。
──どうしよう。いろいろ気になること多すぎで…いっぱいいっぱいだ、私。
一人で考え込んでいると間もなく馬車の速度が落ちたことに気が付いた。まだ王宮を出たばかりなのでさすがにこれはおかしいと窓の外を眺めると、後ろから一頭の馬が馬車を追い抜いて行った。追い抜きざまに見えた馬上の騎士の横顔は当然凛花の知らない者だ。
程なく速度を落とした馬車は道の脇に停められ、扉の外から御者とは違う声が凛花の名を呼んだ。
「リンカ様、いきなりの事で驚かれたでしょう?申し訳ありません。私はグランディ伯爵家の者です。扉を開けてもよろしいでしょうか?」
「グランディ伯爵…?えぇ。どうぞ。」
扉の前に立っていたのは焦げ茶色の髪と空色の瞳を持つすっきりと整った顔立ちの騎士だった。どことなくグランディ伯爵夫人と似た優し気な雰囲気を漂わせている。
「はじめてお目にかかります、リンカ様。グランディ伯爵家の長男エミールと申します。」
「エミール様…初めまして。」
エミールは上目遣いに凛花を見るとじっとその目を離さずに用件を述べ始めた。
「ダニエル副団長はご一緒ではないのですね?」
「えぇ、ダニエルに用ならば今王宮で別れたところですけれど…。」
「いえ、副団長ではなくリンカ様に邸まで来ていただけないかと。母がそう言っております。これから侯爵邸へ戻られるところでしたか?」
「はい。…その、伯爵夫人は何か御用が?」
「えぇ、少し急ぐようなのですが…。直接リンカ様にお話ししたいからと内容までは私も聞いておりません。」
凛花はじっとこちらの反応を窺っている空色の瞳に警戒を強めた。
──怪しすぎる。グランディ伯爵夫人が私に急ぎの用事なんてあるわけないじゃん。もしかしてダニエルがまっすぐ帰れって言ってたのは何かあるって分かってたからなの?
「失礼。」
「ちょっと!」
凛花の返事を聞く前にエミールは馬車に半身を乗り入れ強引に腕を引いた。
「御者にはきちんと話をつけてあります。私が直接馬で送りましょう。」
有無を言わせない調子で低く囁くと、エミールは凛花を引きずるように馬車から降ろしてそのまま馬の上へと担ぎ上げた。
──私、誘拐されるの?身代金目当て…じゃないし。あ、でもこんな白昼堂々身分を明かしてるってことは……。目的は何?
エミールは自らも馬に飛び乗ると背後から凛花をしっかりと抱き締めた。
「知っていますか?グランディ伯爵邸は繁華街を挟んで向こう側なんですよ?」
ゆっくりと馬を歩かせると、エミールは凛花の首筋に顔を寄せ、耳元に囁きかけてくる。不快感を露わに顔を顰める凛花を見ると、エミールは回した手に力を込めて来る。
「そんな顔をされなくても。副団長には負けますが私だって第一騎士団に所属している騎士なんですよ?」
「知ってるわ、そんな事。」
「だったらもう少し嬉しそうな顔をしたらどうだ?甘い言葉の一つでも囁いてみろ?」
いきなりエミールの言葉が荒くなると同時に、凛花の髪がかき上げられうなじに唇を押し付けられる。
「何するの?」
「暴れると落ちるぞ?それにほら、みんなが見ている。もう一度、今度は私と宝石店に入るか?」
身を固くした凛花のすぐ後ろでエミールはうっとりと笑っているようだった。
──ダニエルと宝石店に入ったのはほんの少し前の事なのにもう知ってる?
「何をしようとしているの?私とあなたがいちゃついてる所を見せつけて歩いて一体どうするっていうのよ?」
「何も。ただ噂が広まるのを待つだけだ。副団長も悪い女に騙されたのだと。」
エミールが尚も凛花に密着して悪い女に騙された騎士その2を演じる様子に吐き気がしてくる。
「誰の差し金?」
「言えるか、そんな事。」
グランディ伯爵邸に到着するや否や凛花はエミールに横抱きにされ、邸の中に連れ込まれる。
──そういえば……。なんかダニエルの時もこんな感じだった気がするな。それで玄関脇の応接間のソファまで運ばれたんだっけ。
凛花が初めてグランディ伯爵邸に入った日の事を回想していると、エミールは裏口ではなく正面玄関から邸に堂々と帰還した。しかし凛花の考えていた玄関脇の部屋に立ち入る事もなくそのまま2階へと上がっていく。
「ねぇ、重いでしょ?落とさないでよ?」
「は?」
階段の途中でいきなり話しかけられ、エミールがようやく凛花に目線を落とした。
「だって階段で落とされたら死んじゃうじゃん。」
「……まぁそうかも。」
エミールは少しだけ速度を落とすと慎重に凛花を抱えなおし、驚いた凛花は思わずエミールにしがみついた。
「ちょっと!怖いって!階段の途中ですることじゃないでしょ?ほら、私逃げないからもう降ろしてよ?」
「……」
──あ、もう一押しで聞いてくれそう?
「階段は自分で上るから。2階?3階?」
「…3階。」
エミールは踊り場までたどり着くと少し考えた後凛花をそっとその場に下ろした。




