ようこそ異世界へ
案内されたのは人払いをされた王太子の執務室だった。
王太子は服の襟元を少し緩めるとソファーにどっかりと座り、ダニエルと凛花にも座るよう命じた。
凛花は再び話が始まる前に、どうしても王太子に確認しておきたい事があり、勇気を振り絞って口を開いた。
「殿下、話を再開する前に一つお聞きしてもよろしいでしょうか?」
王太子は一瞬戸惑った顔を見せたが黙って頷くと了解の意を示した。ダニエルの方を伺うとこちらも異議はなさそうだ。
「あの……王太子殿下のお名前をお聞きしても?」
「は?」
「殿下の名前?」
──あ、これもしかして不敬罪とか言われる?不味かったかな、さすがに。でも知らなかったら何とも呼べないじゃん……。
凛花が冷や汗をかきながら二人を見つめていると、王太子がいきなり声を上げて笑いだした。ダニエルも口元を隠すようにしているがあの影でニヤケているに違いない。
冷や汗がスっとひくと今度は顔が熱くなるのがわかった。
「わ、笑わなくても……」
「すまん、いや、そうだったな。この国のことをリンカは何も知らないのだった。しかし私に名を訊ねた女性はリンカが初めてだ。」
「そうだろうな。そういえば私もリンカに爵位を聞かれた。」
「あの……」
「あぁ、私の名はフィリップと言う。ダニエルはつい三年前まで私の影武者をしていた。」
半分笑いながら王太子はいきなり爆弾を投下してきた。
「影武者?」
ダニエルは庭園で話していた時よりも随分リラックスした様子で王太子の言葉に頷いた。
「三年前、学園の卒業までは殿下の代わりを務めたりしていた。今はこうして髪を染めているが本当は俺も金髪なんだ。」
「卒業前に学園で少し揉め事があってな。その解決に一役買ったのがダニエルだ。その功績をもって私が騎士団副団長に指名したんだ。」
──イケメン王太子殿下と影武者の騎士、ピンク色の髪のヒロイン、学園、卒業、揉め事……。あぁ、なんか分かるような気がする……。
「三年前……ですか。」
フィリップが凛花を面白そうに眺める。
「流石、ダニエルが褒めるだけのことはあるな、察しがいい。学園での一件にはキノシタ アオイが絡んでいた。」
「あおいさんは殿下と同級生だったんですね?」
──きっと三年になっていきなり転入でもしてきたのだろう。王太子殿下と同じクラスに。
「その通りだ。ところで先程の話の続きだが、アオイがニホン人ではないと言ったな?こっちで生まれたのだと。」
「はい。日本では……いえ、あちら側の世界では生まれながらにピンク色の髪の子供など存在しませんから。」
「あちら側の世界…」
ダニエルが困惑した様子でフィリップを見ると、フィリップが大きくため息をついた。
「アオイが言っていたのは本当だったということか?自分は異世界で過ごした前世の記憶があると。」
「異世界転生……。あおいさんはこちらの世界に生まれ変わったのですね、前世の日本での記憶を持ったまま。」
凛花は無意識のうちに自分の耳に手を持っていった。ただ一つの自分が自分であるという事の証──。ピアスがそこにある事で自分が日本にいる相馬凛花のままだということを確かめられるような気がしていた。
「リンカの姿はニホンにいた時のままなんだな?生まれ変わったのではなく気がついたときにはこちらの世界に居たと言うことか?」
「うん、そうだと思う。いつも通り自分の部屋で寝たと思って目が覚めたらあの伯爵邸近くにいたんだから。」
「見た目が変わらずにか…。にわかには信じ難いな。」
「それならばリンカにこの国の言葉が通じると言う事がよく分からないな。」
「そこは私もおかしいなって……。あ、そういえばこれ──。」
凛花は話の流れで今朝ダニエルからもらった手紙の事を思い出し、懐からそれを取り出した。すると直ぐ横からフィリップの手が伸びてきて手紙を奪ってしまう。
ダニエルと凛花が呆気に取られている目の前でフィリップは封筒を開けて中から二枚の紙を取り出した。
──あ!ヤバい、あの四ヶ国語のアイシテルメモ入れたままだった!
「フィル!それは……」
「どうした?そんなに慌てて。」
焦るダニエルを横目に、フィリップがシワだらけの一枚を手に取り艶やかに微笑んだ。
「なるほど。」
「フィル!」
「そんな事より、もう一枚の方には何と書いてあったのですか?」
「……」
「これはこの国の言葉で『 ニホンの記憶があるのならば正直に話してほしい』と書いてある。」
「そう、でしたか…。」
凛花はその手紙に何が書いてあると期待していたのか──フィリップから内容を伝えられると同時に何とも言えない失望感に襲われた。
婚約者になる予定の人の家で初めて迎えた朝に枕元にあった手紙──まさかそれがこんな内容だったなんて。
「リンカ、勘違いするな?これは私がダニエルに指示して書かせたものだ。すぐ目に入る場所に置いておけと。最後の最後でアオイの時の様になっては不味いからな…。」
──あおいの時の様になっては不味い?あおいさんはただの愛されヒロインじゃ…なかったってこと?
ゆっくりとまた凛花の頭が動き出す。あおいの物語は既に始まっているどころか、終わっている可能性もあるということだろうか。
「殿下、三年前、学園であおいさんに一体何があったのですか?」
凛花は自分の手が僅かに震えるのを感じた。三年前に学園であったという揉め事…。ヒロインはきっと何かをやらかしてしまったのだ。
フィリップは手紙から視線を上げると凛花をじっと見つめながら口だけでニヤリと笑った。
「知りたいか?アオイは自分でこう言っていた。バッドエンドだ、と。」




