先輩の子供だったら何人でも産めます
「高橋先輩の子供だったら何人でも産んでみせます。だから、そんな欠陥女とは離婚して、私と結婚してください」
狭いシングルベッドの上。裸で抱き合った状態で私はそう訴えた。しかし、先輩はイエスともノーとも言わずにただ黙って私にそっとキスするだけ。先輩が大の子供好きだってことも、奥さんとは不仲であることも私は全部知っていた。だからこそ、私にとっても先輩にとっても悪くない話だと思うのに、どうして先輩はそんなはぐらかすような返事しかしてくれないのだろう。私が本気じゃないとでも思っているのだろうか。私の不安をよそに先輩はベッドから起き上がり、床に散乱していた衣服を拾い始める。
「妻に怪しまれるし、そろそろ帰らないと。あと悪いけど、これから二週間は海外出張中であんまり連絡取れなくなるから」
先輩はそう言って私の部屋を出ていった。私はベッドに残った先輩の残り香をかぎながらこの世の不条理を呪った。包容力も男らしさも兼ね備えた魅力的な男性は、どうして揃いに揃ってみな既婚者なのだろう。いや、既婚者であるだけならまだ許せる。私が許せないのは、そういった男性の結婚相手がみな平凡で、どこにでもいるような女ばっかりだということだった。女性としての魅力のない人間が先輩みたいな男性を自分のものにしていることが腹正しかったし、私のほうがずっと彼を幸せにできるのにと心の底から思える。周りの同年代はみな度胸も積極性もない軟弱男ばかりだし、惰性で付き合っている今カレだって、高橋先輩と付き合っているならば見向きもしなかったような男に過ぎない。高橋先輩と結婚したい。高橋先輩を私のものにしたい。仕事もできて、女性の扱いも上手くて、羽振りもいい彼の奥さんになりたい。
少し前の自分であれば、相手が既婚者であることを理由に泣く泣く先輩を諦めていたかもしれない。しかし、三十代という壁が近づいてきている今現在、私にはそんな少女趣味はない。いくら相手が既婚者であろうと、先輩を好きである気持ちは誰にも負けないし、それに今なら付け入る隙はいくらでもある。私はベッドから勢いよく起き上がり、寝室の隅に置かれたゴミ箱へと歩み寄る。先輩は子供を欲しがっていて、そして、今はまだ奥さんとの間に子供はいない。私は自分に言い聞かせるようにそうつぶやきながら、そっとゴミ箱に捨てられた使用済みのコンドームを引っ張り出した。
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好きな相手との子供を卵として産んで育てることができる。そんな最新テクノロジーを知ったのはほんの数ヶ月前のことだった。不妊治療に励む人や同性婚カップルのために開発された技術らしく、お金はかかるが妊娠することなく、人間の卵を作り出すことができる。卵として育てればお腹が大きくなることもないし、会社の人間にも先輩にもばれることなく子供を産むことができる。バレることがなければ中絶しろと強制されることもない。先輩は優しい。自分のDNAを引いた子供を見捨てるような人ではない。子供を産みさえすれば、こっちのもんだという確信がある。これを使わない手はない。この技術を知った瞬間、私はすぐさまこのサービスを扱う会社に連絡を取り、途方も無いお金と手間とコネを使って、ようやくこのサービスを利用する権限を得ることができた。何ヶ月もかけて先輩の精子を集め、何度も失敗を繰り返し、そしてついに先輩との間の卵が今日、手元に届いた。
クール便を開け、緩衝材を取り除き、中に入っていた卵を取り出す。スイカほどの大きさをしたクリーム色の卵は手に持ってみるとずっしりと重く、そしてほんのりと温もりがあった。私は母性本能に突き動かされるがまま、ぎゅっと卵を抱きしめた。今はまだこの一個だけだが、先輩に言った言葉に嘘偽りはない。現在進行系で他の卵を作ってもらうように手配はしてある。しかし、とりあえずはこの卵を孵すことが先決だ。
私は同梱されていた取扱説明書を取り出し、一言一句見落とさないようにとじっくりと読み始める。
それから私と卵との生活が始まった。卵を孵すためには、タオルで全体を包み、身体全体で抱きしめ、こまめに温めてあげる必要がある。出社前と就寝前、私は一日もかかさずに卵を温めた。休みの日には大きめのかばんに卵を入れ、持ち歩くように心がけたし、数回はこっそりと会社に持っていったこともある。手間ではないといったら嘘になるが、妊娠することの大変さを考えればこれくらいなんてことないだろうし、何より、この先に先輩との結婚があると考えると、私は胸の高鳴りが止まらなかった。私は卵を温めているときはいつも、先輩との結婚生活を妄想した。二人だけのマイホーム。おしゃれなレストランでの食事。そして、並んで歩く私達を見る周りからの羨望の眼差し。妄想が激しくなるほど身体の体温は熱くなり、それが卵にも伝わるのか、耳を澄ますと少しだけなかから鼓動にも似た音が聞こえてくるような気がした。
二週間が経ち、さらに追加でもう一個の卵が届けられた。私は二つの卵を並べ、慈愛を持ってそれらを抱きしめた。この子達がきっと私と先輩をつなぎとめてくれる。先輩は卵から孵った自分の子供を見て、どんな反応をするだろうか。もちろん初めは驚くだろうが、それからすぐに自分に子供ができたことを実感し、喜んでくれるに違いない。そうすればきっと子供を産めない奥さんなんかより私のほうがずっと結婚相手にふさわしいということに気がついてくれて、すぐにでも離婚に踏み切ってくれるはずだ。子供がいない相手よりも子供がいる私を選ぶに決まっているし、何なら慰謝料だって私が払ってみせる。まだまだ卵が孵るのに時間はかかるし、それまで先輩には黙っている必要があるが、それもあと半年の我慢だと思うと、いくらでも頑張れる気力が湧いてきた。私の頬が緩む。そして、ちょうどそのタイミングで私の携帯の着信がなった。
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「……実は、とうとう嫁さんが妊娠したんだ」
喫茶店で二週間ぶりに合うことができた先輩は私にそう言った。私は先輩の言っていることが理解できず、どういうことですかとしか聞き返せなかった。先輩は口ごもりながらも同じ内容の言葉を繰り返す。そして、言いにくい話だけどさ。先輩は一口だけ飲み物を口にし、そして、続きの言葉を続けようと口を開きかける。
「私は身体だけの関係だとしても全く構わないです。だから、別れたくないです」
先輩が言うよりも早く、私はそう切り出した。先輩が少しだけまごついたが、私は目を真っ赤に腫らしながら、会社の人間に私達の関係をバラしますと脅すと先輩はさっと顔色を変えた。そして、不承不承頷いたのを確認すると、私は泣きながら先輩の胸元へと飛び込んだ。
それからいつものように私の部屋でセックスをして、いつもどおり先輩が私を一人残して部屋を出ていった。私は未だに先輩の奥さんが妊娠したことが信じられなかったし、今まで散々私に奥さんの愚痴をこぼしていたにもかかわらず、何だかんだやることはやっていたことが屈辱的でもあった。今までの努力が無駄になることも悲しかったし、これで先輩の奥さんへの優位点が一つ消えてなくなることがたまらなく悔しかった。私をもて遊んだ先輩はもちろん憎らしかったが、それでも意地と先輩への感情は取り返しのつかないところまで来ていた。先輩とは別れるという選択はありえなかったし、愛と執着と憎しみが入り交じり、先輩への気持ちは一層強くなった気がした。泣きつかれた私はふらふらと寝室を後にし、台所へと向かう。それからもはや役立たずとなってしまった二つの卵をぼおっと眺めた。憎たらしくて大好きな先輩との卵。奥さんから先輩を寝取るために産んだ卵。これを一体どうしたらいいだろうか。私はぼんやりと眺めながら、考える。
「……そういえば」
そして、ふと、私はテーブルに並べられた二つの卵を見ながらあることを思い出す。
「先輩って……オムレツが大好物だって言ってたっけ」
少しだけぼんやりとした頭のまま、私は流しの下の引き出しを開け、一番大きなボウルを取り出した。