表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

竹割るごとくに忘れゆけ

作者: 春都成

 この物語は、友人と、三つずつキーワードを出し合い、そのワードを入れて小説を書く、という遊びの中で書いた作品である。そのキーワードは、「竹」「キュン死」「ボタン」「エネルギー」「脳」「昔話」というものだった。どこにそのワードが使われているかに注目していただきたい。

 また、この作品を書いていたときは、大学の授業で、「働きすぎの世の中」というものに問題意識を抱くようになったことなども考え、執筆した。

 この話を読んだあなたが、どう思うか、その意見を聞かせていただきたい。

 昔話は好きだろうか。小さいころに聞いた昔話の中で、どんな話が印象に残っているだろうか。

 小さい頃に聞いた昔話というものは、その人の倫理観を形成するように思われる。筆者は小さい頃に、母親から、イソップ童話を寝る前に聞かせてもらったものだが、そこに登場する動物たちのずるがしこさ、根性のねじ曲がり具合に、嫌だなと感じた記憶がある。

 特に「キツネとぶどう」という物語について。美味しそうなぶどうが高いところになっているのを見て、キツネは食べたいと必死にそのぶどうを取ろうとする。しかし、どうやってもそのぶどうが取れないため、そのキツネは、結局「あのぶどうは、すっぱいぶどうなんだ」と言い出し、手に入れられないまま諦める、という話である。

「何が面白いんだ」

 と幼心に思ったものだ。そして、

「イソップ童話は悪いキツネとかばっかり出てきて嫌い」

 と母親に言い、それからというもの、日本の昔話をよく聞くようになった。まぁ日本の昔話というのも、なかなかに残酷な話が多いと後から思ったものだが。

 そんな話はおいておこう。

 日本最古の物語といえば、竹取物語。おじいさんが竹を割ったら玉のような女の子が出てきて、美しく育ったそのかぐや姫と名付けた女の子のもとにたくさんの求婚者がやってくる。そんな求婚者たちに対し、かぐや姫は、現実にはないお土産などの無理難題を申し付け、求婚をのらりくらりと交わす。そして物語の後半になって急に、実は自分は月の住人だったと打ち明けはじめ、迎えに来た月の人々に連れられ、おじいさんおばあさんに対する感謝の品とはして不死の薬だけ残して月に帰る、という内容である。その不死の薬を埋めた山だから、富士山は、「ふじさん」なのだという。

 正直、日本最古の物語とは思えないほど神秘的な物語だ。

 しかし、竹という植物は、それだけ不思議な植物であるように思われる。


 竹――丈夫でありながら、割れるときは、あっさりと割れる竹。

 竹――一本一本、自立して立っているようでありながら、根っこの部分では皆と繋がっている竹。

 竹――揺れる笹の音、ししおどしが立てる音は、人々に癒やしを与える竹。


 ――これからするお話は、そんな竹にまつわる未来の物語である。


                        ☆


 千年ほど前に一度月から日本に来て、世間を騒がせて帰った竹取物語で有名なあのかぐや姫は、月で、理想の男性と結婚をし、しっかりと自身の子孫を遺していた。

 今は未来。そのかぐや姫の子孫で、十八歳の、かぐや 月夜は、千年に一度地球留学に行く、かぐや家の者としての順番が回って来たということを、その十八歳の誕生日の際に突然親から告げられた。

そして彼女は、アルヴィン・トフラーが『第三の波』で説いたいわゆる「知識情報社会」の真っただ中でありながら、人工知能AIがまだ仕事現場でそこまで活躍をしていない、という時代に、太陽から月に当たって地球に反射する光に乗って、地球の、これまた日本へと、降りてきたのである。


月夜が降りてきた場所は、竹林であった。どこの竹林なのかはわからない。高く伸びる竹たちに日光が遮られ、そこだけなんだか、薄暗かった。

「千年経っても、降りてくる場所は竹林って。進歩ないなぁ」

 月夜はそんなことを呟いて、ため息を吐いた。

月から持参してきたものは、何もない。かわいい子には旅をさせよとは、よく言うことわざだが、ここまで何も持たせないで、違う星に放り出す親というのも問題なんじゃないか、と月夜は考えた。まぁ、自分が月のものに対してなんの執着がないのも問題なのかもしれないが。

 月で家庭教師から聞いた話によると、地球で生きる人間は、お金というものを持っていないと、ご飯を食べたり、家を持ったりできないという。そして、そのお金を得るためには、一日のほとんどの時間を仕事に捧げなければならないそうだ。何もしなくても、ウサギがついてくれた餅を食べれば生きていける月とは大違いである。まぁ、それには、月夜の家柄――かぐや家が良い家柄であるということもあるのだろうけれど。

 実際、今の月夜は、ある種何も持っていない少女だ。上手くやっていけるのだろうか――そんな不安を抱えながら。月夜は、暗い竹藪の中、ギュッと自身の膝を抱き寄せ、体育座りをした。

 さらさらと竹の葉が風に揺れる音が心地よい。月夜の黒くて長い艶髪も、さらさらと揺れた。その心地よさに身を委ねていると、竹林も悪くないな、と感じた。自分の先祖が、地球に来たときに、竹林を選んだのも、なんだか頷けるような気がした。目を閉じて、ふぅーと深呼吸をしていると、後ろから、人の気配がした。思わず、月夜は背筋をピンと伸ばす。

「あのぅすみません……暗いところがお好きなんですか」

 男性の声でありながら、どこか、気の抜けたような高いその声に、月夜は、ゆっくりと振り返った。そこには、三十代くらいの眼鏡をかけた色白の細身の男性がひょろり、と立っていた。

「えぇまぁ……落ち着きますから」

 月夜がそう言って、顔を逸らすと、その男性は、ふふっ、と笑った。

「そうですか。でもね、太陽の光を浴びた方が、脳内にセロトニン、っていう成分が分泌されて、元気になれるそうですよ」

 その人は、そう言って月夜の手を取った。月夜は慌てて、手を引っ込めた。そこで、はじめて目が合う。きょとんとしたその男性の丸い黒い瞳に、月夜は、心を奪われた――綺麗な目。男性は、キュッと目じりに皺を寄せると、

「あぁ、すみません。ご無礼にも、手を取ろうとしてしまいまして――気を付けなくっちゃね。今の時代、セクハラとか」

「あぁ、いえその……こちらこそ、ご無礼を」

 月夜はそう言うと、一度引っ込めた手を、その男性の手元にそっと戻した。男性は、え、と呟くと、くすり、と笑った。

「変わった学生さんですね」

 月夜は、「学生さん」と呼ばれ、首を傾げた。しかし、その男性は、グッと握った手から、月夜を立ち上がらせると、月夜の手を引いて、スッスッと軽やかな足取りで歩き出した。

「ここから少し行ったところにですね、僕が学生時代によく勉強していた穴場スポットがあるんですよ。そこで一緒に、お茶でも飲みましょう」

 明るい陽射しの中で瞳をきらきらと輝かせてそう言うその人は、月夜にとってはじめての地球人であり――月夜の初恋の人となった。月夜が、はい、と頷きかけたとき、月夜は、足元の石につまずいて、バランスを崩した――月夜の体は、まだ地球の引力に対応しきっていなく、転びそうになる刹那のスローモーションの中で、月夜は、あっ、とパニックに陥った。

 だがそのとき、手を繋いでいたその男性が、月夜の体を引き、ギュッと月夜の体を抱きとめてくれた。月夜の中で、世界が一瞬静止する。

「ちょ……大丈夫ですか?」

 月夜は、ぼぅっとする瞳で、その男性を見上げた。そして、自分の瞳と眼鏡越しにある彼の瞳の距離の近さに、はっとすると――

 その場で、気を失った。


 月夜が目を覚ました時に、目に映ったのは、真っ白な天井と、自身を囲う緑色のカーテンであった。さっき、月夜が恋した男性は、見当たらない。月夜が、目をこすって、ゆっくりと、上半身を起こすと、月夜は自分がベッドに寝かせられていたことが分かった。

 月夜が起きたのを感じてだろうか、黒い影が近づいてきているのがカーテン越しに分かった。その人物が、チャッとカーテンを開く。

「あ、起きた? 気分はどう?」

 その人物は、少しだけ茶色っぽい髪――といっても、地毛だろうが、を、右耳の高さに合わせて縛った、少し童顔の綺麗な女の人が立っていた。医療関係の人のように、、白衣を身にまとっている。

「あ、あの……私、どうしてしまったんでしょうか」

 月夜のその問いかけに、その女性は、腰に手を当てて、宙を見上げながら、んー、と唸った。

「まぁ……状況を聞いたところによると、ただのキュン死だと思う」

「キュン死?」

「うん。まぁ、キュン、ってときめいて倒れちゃうことを俗にそう言うのよ。あなた、(あま)(はらし)先生に恋したね」

「あまはらし?」

「あら、名前聞いていなかったの? あなたをここに運んでくれた先生。(あま)(はらし) 尚武(ひさたけ)先生、っていうのよ。素敵な先生よね。あなたは哲学科の学生?」

 白衣の女性と一気にそのような会話を交わし、月夜は、頭が混乱した。

「……あの、ここはどこですか? あなたは? その、雨晴先生という方は?」

 白衣の女性は、目を見開く。

「ここは……大学の保健センター。私はそこの職員で、(さかき)涼子(りょうこ)って言います。雨晴先生は、仕事に戻ったわ。最近の大人は、誰も彼も忙しいからねぇ……まぁそのおかげで私も仕事ができるんだけどさ」

 榊涼子は、そう言うと、ベッドに腰かけた。

「もうすぐ三時間目がはじまるけれど、三時間目は、授業あるの? ここでもう少し休んでく?」

 榊の問いかけに、月夜は、一瞬考え込んだ。彼女には、何から話すべきだろうか――

「えっと……結論から言うと、私は、学生、ではありません」

 月夜のその言葉に、榊は、は? と聞き返した。彼女は美人だが、どうやら言葉遣いは時々悪いようだ。

「そうなの? じゃあたまたま大学に見学しに来てた、とか……?」

「まぁ、そんなところです」

「あら、そう……いや別に学生じゃないからって理由でお金取ったりしないけどさ、ただ寝かせただけだし……へぇ、そう」

 榊はそう言って、立ち上がると、

「まぁ、授業がないんだったら、気分が良くなるまでここに居たら? 何気に色々本も置いてあるし、学生もめったに来ることないから、ゆっくりしていけばいいわよ」

 と言って、月夜の肩をぽん、と叩いた。綺麗に口紅が塗られた艶めく唇が、キュッと横に引っぱられるその笑顔には大人の女性の余裕というものを感じた。月夜は、ありがとうございます、と言って、ベッドからそっと出た。

 クリーム色の床と壁が広がる保健センター。部屋の中央には、座り心地の良さそうなソファがいくつか配置され、柔らかそうなクッションがちらほらと置いてある。体温計や綿棒の入った小物入れたちが、小さな机の上にちょこんと置いてある。

 安らぎの空間、というのにふさわしいその場所で、月夜は、ひとつ場違いなものが置いてあるのを見つけた。それは、まるで、一昔前の電話ボックスのような……

 月夜は、その電話ボックスのような箱の中を覗き込んだ。中には、ヘッドホンを改良したような装置と、真っ赤なボタンが一つあるだけだった。

 月夜が、榊に、これは何か、と聞こうとしたとき、

 ガラガラガラッ

 という音を立てて、保健センターのドアが開いた。

「あら、横田先生。どうなさいました?」

 榊が声を掛けた方を振り返って見ると、白髪交じりで、げっそりと疲れ切った顔をした中年くらいの男性が、猫背のまま、足をひきずりひきずり保健センターの中に入って来た。

「いやまぁ、大したことではありません……ちょっと最近寝れていないので……エネルギーチャージをしに来ました」

 横田先生と呼ばれたその中年男性は、消え入りそうな声で、とぎれとぎれそう答えた。榊は、椅子に腰かけ、机にあったバインダーに挟まれている名簿と思われる紙をパラリ、パラリとめくった。そして、目を見開いた。

「以前来てから、一週間たっていませんが、大丈夫ですか? やりすぎると、耐性がついてしまって効かなくなりますよ」

「大丈夫です。今週末で学会の発表が終わりますんで、それまでの辛抱ですから……それが終われば、仕事も多少ラクになるでしょう」

 横田が、力のこもっていない手でひらひらと手を振ると、榊は、「そうですか?」と心配そうに様子を窺い、

「そういうことでしたら、、まぁ……ただし、次来るときは、必ずひと月以上間を開けて利用してくださいね」

 と注意を促した。横田は、うんうん、と今にも死にそうな表情で頷きながら、よろよろと、さきほど月夜が見つけた、電話ボックスのような箱の中に入っていった。月夜は、じっとその様子を見つめる。

ほどなくして、電話ボックスのような箱の中から、ビリビリビリッという音が漏れ聞こえてきた。月夜がびくり、と顔を上げると、電話ボックスの中から、背筋をしゃきん、と伸ばし、穏やかそうな微笑みを浮かべ、きらきらとしたオーラを漂わせた男性が足取り軽やかにスキップをしながら出てきた。

その豹変ぶりに、月夜ははじめ、それがさきほどの横田と呼ばれた中年男性と同じ人物であると気づかなかった。しかし、よく見てみると、さっきの男性と背格好も同じくらいだし、髪型や顔も同じで、横田その人にかわりは無かった――それにしても、この一瞬で、一体何が?

「いやぁ、榊先生、無理を言ってすみませんでした。でもこれであとちょっとがんばれそうです。ありがとうございました! もう死ぬまで働きます♪」

 先ほどとは違う、はきはきとした物言いでそう言って去っていった横田の後ろ姿を見て、月夜は、ゾーッとした。

「榊さん」

「ん? 何?」

「今の……何だったんですか?」

 榊は、え? と呟いて、あぁ、と頷くと、

「そっか、ここの学生じゃないなら知らないわよね。この保健センターにはね、エネルギーチャージ、っていう機械があるの。それがこれね。このヘッドホンみたいなのを付けて、あのボタンを押すと、脳に電流が流れてね。働きすぎで疲れて、うつ病になった人でも、このエネルギーチャージを使えば、一瞬で身体的にもメンタル的にも元気になれるって機械よ」

 と淡々と答えた。

「え……そこまでしなければならないほど、ここの人たちは、疲れ切っているんですか……?」

 月夜のその言葉に、榊は、んー、と唸った。

「私も正直、この機械が導入された時は、この世界終わってんじゃないのか、って思った。そこまでして――命脅かすほどまでして働かせたいのか、ってね。でも、もうだいぶ浸透してきてしまった。この機械も――あの横田先生は特にヘビーユーザーだけど、他の教授陣や、事務の人たちも時々来ては、使っていくわ――こんな機械、無くても済むような世の中ならいいんだけどね」

 榊はそう言うと、無表情になった。

「あなたの好きな、雨晴先生はまだマシな方だけどね。太陽の光を浴びるだとか、結構自然な方法で、疲れを癒していらっしゃるから――でも、仕事量は結構心配」

 月夜は、その榊の言葉を聞いて、ため息を吐いた――あの人には、こんな機械使わなくても、あの素敵な表情のまま、元気で居てほしい。そう思った。

「榊さん」

 月夜は気づくと、そう呟いていた。

「私を、雨晴先生のところに連れて行ってください」


                        ☆


 月夜がそうお願いをすると、榊は、ノートパソコンから、大学のホームページを開き、検索ワードに「雨晴」と入力して、雨晴のスケジュールをチェックしてくれた。

「今は、哲学入門の授業中みたいね……確か、履修者が相当居る授業だったと思うから、潜り込んでもばれないんじゃないかしら?」

 という榊の言葉に背中を押され、榊が書いてくれた簡易な地図を頼りに、月夜は、雨晴が授業を行う教室へと、ゆっくり向かっていった。

 授業時間ということもあり、廊下にちらほらと置いてある机と椅子には、ぽつりぽつりと学生が腰かけ、静かに自習をしている様子がうかがえた。月夜は、大学という場所には、いろんな人が来るため、侵入者が居ても気づかれにくいんだな、と感じた。まぁ、若さの特権なのだろうけど。

 そんなことを考えながら、榊の書いてくれた地図の目的地周辺に辿りつくと、微かに、先ほど聞いた、雨晴の声が聞こえてきた。月夜は、その教室の後ろの扉を少し開け、ひょっこりと顔を出す。

 後ろに行くにつれて階段状に高くなっていくように、机と椅子が配置されたその教室では、その席をぽつりぽつりと少しずつ間を空けながら、学生たちが埋めていた。スクリーンに映る板書を読む者、手元のプリントを見る者、一生懸命ノートを取る者、隣の人と、ひそひそと話しをするもの、うつらうつらと居眠りする者……と、様々居たが、誰も、後ろの扉から教室をのぞき込む月夜を振り返る様子は無いようだ。むしろ、月夜の後ろから、「あの、すんません」と言いながら、手に雫を滴らせて、トイレから帰ってきたと思われる男子学生が、すたすたと教室の中に入って自分の席に戻っていくという様子を見ると、授業中に後ろの扉が開いたところで、いちいち気にするというような学生は少ないのではないかと考察された。

 月夜は、そっと扉を閉め、一番近くの開いた椅子にそっと着席した。授業は進む。

「このように、自己同一性をめぐる考え方としては、①霊魂説②還元説③無我説④懐疑論の四つがあるわけです。まとめますと、一つ目の霊魂説は、人の自己同一性は、同じ霊魂のようなものがあるから保たれている、という考え方。二つ目の還元説は、霊魂以外の身体的特徴・精神的特徴・社会的特徴、またはその組み合わせによって自己同一性が保たれている、と考える考え方。三つめの無我説では、「私」というものはそもそも存在しない、とする考え方で、昨日の自分と今日の自分は、「似ているだけ」で実は別人、とする考え方。四つめの懐疑論では、自己同一性に関する原理を知ることができない、とする考え方。以上の四つのような説・論からアプローチし、その説得力などを通して、自己同一性を保つものが何であるかということを検討していくことができます」

 雨晴が、プリントを見たり、スライドを動かしたり、教室の端から端へ歩いたりしながらそうそれまでの授業内容のまとめをしているところであったため、月夜はなんとなくではあったが、それまでの授業内容を理解することができた。

「で、この二つ目の還元説の中にも、身体説、記憶説という二種類がありましてね。身体説は、DNAといったような、『ある一定の身体的特徴』を共有していれば、自己同一性が保たれるという考えのことで、記憶説では過去の記憶を思い出せるということが、その過去の自分と今の自分が同じ人物であるとする、という考え方なわけです」

 雨晴はそこまで説明をすると、顔を上げて、あたりを見回した。

「ここでなんですが、二分間のシンキングタイムを経て、皆さんに、自身が身体説派か、記憶説派か、ということの意見を聞いていきたいと思います。是非、周りの方とご相談いただいて、自分の意見を固めていただけると嬉しいなと思います」

 そう言うと、雨晴は、スクリーンに、二分間のタイマーをセットした。

 周りの学生たちの一部が、隣の人と話して軽いディスカッションを始める。と言っても、月夜は、周りに誰も居ない席に着いたため、誰とも話すことは無かった。それに、月夜の目的は、雨晴に会いに来ることであったため、ディスカッションテーマについて、何も考えようとは思わなかった。

 しかし、ぼーっとしていても、少し離れた斜め前の席に座る二人の男女の会話が耳に入ってきたため、月夜は、寝たふりをしながら、その会話を聞いてみることにした。月夜は意外と、環境に応じた適応能力は高いと言えるのかもしれない。

「まぁ確かに、DNAって自分固有のものだけど、それだけで、自己同一性って保てるのかな? そうなると、自分と全く同じDNAを持つクローンが出来た場合の自己同一性はどうなるの? って感じじゃない?」

「んー。確かに。でも、記憶説だったとして、もし、記憶喪失とかで記憶が飛んでしまったら、自己同一性は保たれず、別人になってしまうのかな」

 そんな会話を聞いていて、月夜は少しだけ考えてみた。

 私は、月の、かぐや家に生まれた、かぐや 月夜という者。この地球人たちが言っている、DNAとか、そういう難しいものはよくわからないけれど、私がこのかぐや 月夜という名前を保っている限り、私は私なのではないか? しかし――私がもし、月での記憶を一切なくした状態で、この地球に留まったらどうなるだろう? 記憶がないから、月で生まれた、ということも忘れてしまうし、地球人として、全く別人としての人生を歩むことになるのかもしれない。そう考えると、やはり、自己同一性を保つものは、記憶ということなのだろうか――

 そんなことを考えていると、

「まぁ本人が忘れても、周りが覚えているからね」

と、男の子のほうが言いはじめ、月夜が聞いていた会話が再開した。

「たとえば、紺野さんの記憶が飛んじゃって、『ここはどこ? 私は誰?』ってなっちゃっても、そのときは、『君は紺野さんだよ』って俺が教えてあげるから。紺野さんと俺が共有した時の記憶が俺にはあるから。だから紺野さんが一人で経験した記憶は取り戻せないけど、他の人と共有した記憶が百個二百個あったら、紺野さんなんじゃない?」

 月夜は、この会話をしている女の子の方が紺野さん、という名前であることを文脈から感じ取った。その紺野さんと呼ばれた女の子は、

「じゃあ、自己同一性を保つものとして、人とのつながりもある、ってことか」

と言うと、男の子の方は、うん、と返した。

「まあ、全人類の記憶が飛んだら、アイデンティティは崩壊するけどね」

 男の子はそう言うと、フッと鼻で笑った。

「全人類の記憶が飛ぶってヤバいな。どうなっちゃうんだろ」

 男の子がそう言ったところで、シンキングタイム終了を伝える、「リンロンリンロン」という音が鳴った。

 月夜は、自分の腕と机の間とで作った小さな暗闇の中でひそかに思った。

 もし私が記憶を亡くしたとして、そのときに、「君は、かぐや 月夜だよ」と、私と共有した記憶を教えてくれる人は居るのだろうか――

 そんなことを考えながら、また月夜は、ぐっすりと眠りについた。


「お嬢さん」

 月夜は、トントンと肩が叩かれるのを感じた。そして、ゆっくりと顔を上げると、そこには、雨晴が立っていた。月夜は思いがけない再会に、一気に眠気が覚める。

「あ……」

 と、月夜が口をパクパクさせていると、

「なんだ、僕の授業を履修してくださっていたんですね。そうとは気づかず……あ、もう体調は大丈夫なんですか?」

 雨晴がそう言って、心配そうに月夜の様子を窺うのを、月夜は、顔を赤くして逸らした。

「あ、はい……その――私、雨晴先生と、お話がしたくて――」

 勇気を絞り出して月夜がそう言うと、雨晴は、きょとんとした後、あたたかく微笑んだ。

「そうですか。では、今から僕のオフィスに行きましょう」


                         ☆


 雨晴に案内されるがままについていくと、小さな部屋がいくつもある十一階のフロアに辿りついた。雨晴はその中の一室のドアに向かっていき、ポケットから鍵をガチャガチャと取り出すと、何回か、鍵を挿す向きを間違えたり、回す方向を間違えたりした。そして、ようやく扉を開けると、どうぞ、と言って、月夜を中に招き入れた。

 部屋の両側は、本棚になっていて、様々な種類の哲学書が並んでいた。窓側の机には、パソコンとコピー機が置いてある。

「どうぞ、そちらにお掛けになってください。今、紅茶を淹れますね」

 雨晴は、そう言うと、ドア近くの引き出しから、青と白のつやつやとしたやかんを取り出した。

「あと、友だちからのもらいものですけど、クッキーとかも、机の上にありますから、お好きなように召し上がってください」

 それだけ言うと、雨晴は、そそくさと、やかんを片手にオフィスを出た。そして、すぐにどこからかお湯を入れて持ってくると、何種類かティーパックを取り出し、「アールグレイでいいかな」と独り言を言うと、やかんの中にポンと放り込んだ。意外と紅茶の淹れ方にこだわりは無いようである。

 当の月夜はというと、雨晴の言葉に、「はい」や「ありがとうございます」とはなんとか返すものの、緊張で固まってしまっている。雨晴は、紅茶を月夜に差し出すと、にこやかに微笑んだ。

「まぁとりあえず、ごゆっくり、リラックスなさってください――そういえば、名前を窺っていませんでしたね。お名前をお聞きしてもよろしいですか?」

 月夜は、はっとした。はじめて地球で自分の名前を口にする――この地球留学というのは、素性を明かしてもいいものだったっけ? 月夜は、出発前に様々言い渡された注意事項を必死に思い出そうとしていたが、頭が上手く働かなくて、ぴんと来ない。とりあえず、名前くらいはいいか、と思い、月夜は、

「えっと……かぐや 月夜と申します」

 と答えた。雨晴は、目を見開く。

「かぐや 月夜さん? へぇ。まさにかぐや姫、といったようなお名前ですね」

「はぁ……よく言われます」

「そう。かぐやさん、今日の僕の授業はどうでしたか?」

 月夜は、紅茶を飲みながら、ぎくりとした。授業の後半から来た上に、その後半をほとんど寝て過ごしていた月夜としては、何も言えることがない、と思ったが、月夜は、んー、と紅茶に目を落とし、コトリとカップを机に置いた。

「その……結構私には難しいことが多かったんですけど……周りの人が、記憶説の場合、本人が忘れても、周りが覚えているなら、自己同一性は保たれるんじゃないか、って話していたんです。でも、もし、全人類の記憶が飛んだら、アイデンティティは崩壊すると言っていました。先生は、そのように思いますか?」

 雨晴は、自身の顎を親指と人差し指でつかみながら、興味深そうに、月夜の話を聞いていた。

「全人類の記憶がなくなる、ですかー。現実に起きたら困りますね。まぁでも、確かに興味深いですねー。誰が誰の家族か、ということもわからず……記憶が飛んだとしても、それまでの文書とかは残るなら、戸籍とかを確認しに、市役所とかに人が殺到したりするんじゃないかなぁ。いや、でもそういう制度があるということも忘れてしまったり、第一、誰が市役所の職員か分からないなら、機能しなさそうだなぁ。んんん……」

 雨晴は、そのようにぶつぶつと、自身の想像を呟いていたが、

「いや、すみませんねぇ。でも、興味深いご意見が聞けて、良かったです」

 そう言って、嬉しそうに唇を結んだ。月夜は、いえいえ、と首を振る。

「あの……私が聞きたいと思ったのは、雨晴先生のことなんですけど……」

 月夜がおずおずとそう言いだすと、雨晴は、「はいはい」と机から身を乗り出した。

「……今日、保健センターに行ったときに、エネルギーチャージっていう機械を使っている人を見たんです。榊さんに聞いたところによると、働きすぎで疲れた人が、あの機械を使って無理やりに元気になっているそうで……私、ここって、そこまでして働かなきゃいけないところなのかな、雨晴先生は、大丈夫かな、って心配していたんです。雨晴先生は、仕事量とか、ストレスとか、大丈夫なんですか……?」

 雨晴は、はじめ月夜の言葉をうんうんと深く頷きながら聞いていたが、話題が自分に向いたため、驚いたようだった。

「えっ。僕ですか?」

 そして、少し考え込む顔つきをすると、「いやー?」と首を傾げ、

「僕は、結構ストレス抜くのとか得意な方ですよー。今もこうして、紅茶飲んだりしていますし、お会いした時にも言ったように、結構太陽の光浴びに、外出たりもしているのでね」

 そう言って紅茶をまた一口啜る雨晴の様子を見て、月夜は、ほっとしたように、胸をなでおろした。

「そうですか。良かったです」

「うん。僕の事より、かぐやさんの方こそ、大丈夫ですか? なんか、急に気を失われたようでしたので」

 思いがけず、自分の心配をされて、月夜は、顔を赤くした。

「あ、あ、大丈夫、です。ただのキュン死だったそうなので」

「キュン死?」

「あ、いえ、その……なんでもありません」

 雨晴は、その月夜の反応に、下を向いたかと思うと、息交じりの密かな声で、「はっはっは!」という朗らかな声を立てて大笑いをした。

「え。その。なにがそんなに面白いんですか?」

「あ、いえ、すみません……はははっ!」

 雨晴はひとしきり笑うと、口元を緩めたまま、眼鏡を外し拭い始めた。月夜はその横顔を見ながら、この人には、こうしてずっと自然な笑顔で居てもらいたいな、と感じた。

「雨晴先生」

 月夜は勇気を出し、彼には、私のことについてを打ち明けよう、と口を開いた。

「ふざけていると思われるかもしれないんですが……私は、この度月から地球に留学に来た者です。そして、かぐやという苗字が示しているように、先祖は、この日本最古の物語、竹取物語で有名なかぐや姫です」

「え?」

 雨晴が目を見開くが、月夜にとって、その反応は想定内すぎたため、話を続ける。

「それで……今、職無し・家無し・一文無し、です。月に居た際、家庭教師から、地球では、お金がないと、食べていけない、暮らしていけないと聞きました――そして、お金を得るには、仕事をしなければならないとも。それで、あの、ずうずうしいことこの上ないんですが……あの。私を、雨晴先生のもとで働かせていただけないでしょうか?」

 月夜は、そう言って、正座をし、床に手をついた。雨晴が、「えええええ!?」と素っ頓狂な声を上げているのが、頭上から聞こえてくる。

「私、日本語書けます。ちょっとまだ地球の重力とか、色々あれこれに慣れていませんが。雨晴先生のお仕事の負担を減らすためなら、なんだってします。ですから……私に、仕事をください。お願いします」

 月夜が、ぺこりとお辞儀をすると、雨晴は慌てながら、「あぁいや、そんなそんな、顔あげてください」と言って、立ち上がった。が、しばらくそのまま月夜が頭をあげない様子を見て、また顎に手を当て、考え込む顔つきになると、ふっと笑った。そして彼は、月夜の目線に高さを合わそうと、しゃがみこんだ。

「本当に、月からいらっしゃったんですか?」

 幼い子供をなだめるような優しい声でそう問われ、月夜は少し心を痛めた。

「……はい」

「何に乗っていらっしゃったんですか? やっぱり、UFOとかロケットとかなんですかね?」

「あぁいえ、その。地球から月に行く際は、アポロ11号とかみたいな、宇宙船に乗らなければならないんだろうと思うんですが――月から地球に行く際は、その――太陽の光を反射して月は光っているんですが――その反射光に乗って、地球まで来ました」

 月夜が、恐る恐るそう答えると、雨晴は、右手を口に当て、へぇー、と目を見開いた。

「光に乗る? え、かぐやさん、そんなことができるんですか?」

「あ……えっと、私も言われるまで、できないと思っていたんですが、やってみたら、実際に出来て。でも、千年に一度、地球留学に行くかぐや家の者だけに伝えてもらえるものだそうなので、ちょっと雨晴先生にそのやり方は、教えられないんですが」

「なるほど……ちょっと予想外ですね」

 ――疑われている、のかな……

 詳しく聞いてくる雨晴の質問に、嬉しいと思いつつも、やっぱり、信じてもらえないのかな、と月夜は考えて、少し悲しくなった。ふっと諦めたように笑いながら、月夜は立ち上がる。

「すみません――あの、信じられないですよね、こんな話。忘れてください――他のところ、探します。お茶とお菓子、ありがとうございました。貴重な食料でした。では、お元気で」

 月夜が、そう言って、オフィスのドアに手を掛けた時、

「待って」

 雨晴の手が、優しく月夜の肩を掴んだ。その温かさ、重みに、月夜は思わず立ち止まって、ゆっくりと振り返る。雨晴の瞳は、相変わらず、きらきらとしていた。

「僕、小さい頃から、月が好きだったんです。毎日形が違くて、出る時間も違くて。夜だけのものだと思っていたら、ときどき昼にも出ているときがあって。だから、かぐやさんが本当に月の方なら、色々もっとお話、聞かせていただきたいな、って思いました。それから――ちょうど、哲学入門の授業の履修者の多さに、困っていたところだったんです。ですから――かぐやさんがよろしければ、僕のアシスタントになってください」

 そう言う雨晴の瞳の輝きに、月夜は思わず、ふふ、と吹き出した――少年の心を忘れない、素敵な大人だ。そう感じた。

「もちろんです。よろしくお願いします」


                        ☆


 こうして、月夜は、地球での職を手にした。また、住む家に関しては、雨晴が配慮をしてくれ、保健センター職員の榊の家に居候させてもらえることが決まった。榊は、

「まぁいいわよ、どうせモテないさみしい女の一人暮らしですもの。ウェルカムよ」

 と言っていたが。

毎日の食事については、昼ごはんは、雨晴と共に食べ、朝晩は、榊の家で自炊して食べた。

月夜の主な仕事は、授業プリントのコピーや配布、また授業中発言する学生にマイクを届けに行ったりすること。また状況に応じては、雨晴が授業で言ったことをまとめて板書したりすることである。

お金の流れ方としては、一ヶ月毎に、雨晴のもとで働いたお金が、月夜の手元に届く。そのお金のほとんどを、住と食を提供してくれている榊に渡す。残ったお金で、月夜が時々買いたいものを買う、という仕組みだ。そもそも月夜には、そんなに地球で長く暮らす予定が無い為、貯金をする必要が無いのだ。だから、お給料の額が少しでも、あまり困ることはない。

ほぼ毎日雨晴と会え、仕事もしながら食事にも困らない。月夜にとっては幸せすぎる時も、すでにもう約三か月が経過した。

さすがに地球の重力にも慣れたため、給料の残りから奮発して買った、ピカピカと赤いハイヒールを、カツカツ鳴らして、今日も月夜は、授業用プリントのコピーを終え、パラパラと、枚数の確認をしながら、雨晴のオフィスにやってきた。

「お疲れ様でーす」

 月夜がそう言って、扉を開く。中では、数人の学生が、雨晴を囲っていた。振り返ったその数名が、「お疲れ様でーす……」と消え入りそうな声で呟く。月夜は、はっとする。

「あぁ、かぐやさん。すみません。今、ちょっと、横田ゼミの皆さんに授業をしていまして」

「あ、そうですか、すみません……次の授業のプリント、ここに置いておきますね」

 月夜はそう言うと、そっと、プリントの束を机に置いて、オフィスを後にした。そして、隣の部屋の真っ暗な闇をそっと振り返る。

 ――三か月前、月夜が保健センターで見た、横田という教授――彼は、雨晴と同じ哲学科の教授で、オフィスも隣同士だった。雨晴のアシスタントとして働く中で、月夜もその二人がよく一緒に仕事をしている様子を目撃したことがある。

 しかし、やはり横田は、疲れ切っていたようだ。聞いた話によれば、あのエネルギーチャージ後、学会の発表までは持ちこたえたが、その後、フツリと糸が切れたように、体調不良になってしまったという。エネルギーチャージは、頻発してしまっていたため、今横田は使うことが禁止されているとのことだ。

 そんなわけで、次のセメスターまで、横田が休職をすることとなったため、横田ゼミの学生たちのために、自分のゼミ生に加えて、横田ゼミの学生たちの担当も、雨晴が持つこととなったのである。

 ――雨晴先生、仕事量こんなに増えて、大丈夫なのかな……

 そんなことを考えながら、することもない月夜は、十一階の空いたスペースにある、なぜそこに置いてあるのかはよくわからない、机と椅子に着き、机に突っ伏しながら、一枚手元に残しておいた、授業プリントを斜めに眺めた。

 すると、廊下を一人の熊さんのような猫背の中年男性が大荷物を胸に抱え、ずんずんと歩いていくのが見えた。月夜は、一部の礼儀正しい学生たちがよくそうするように、相手の先生の名前を知らないが、「こんにちは」と声を掛けた。男性はくるり、と振り返ると不思議そうに「こんにちは」と返した。

「君は確か、いつも雨晴先生と一緒に居る学生だね。こんなところで何をしているんだい?」

 はきはきとよく響く、ほど良い声の高さでその男性に言われ、月夜は、

「はぁ。一応、雨晴先生のアシスタントです。今は、雨晴先生が、横田先生のゼミ生に授業をしているので、なんというか、物思いにふけっています」

 と答えた。良い声の男性は、そう、と頷く。

「大変だね。横田先生の休職によって、雨晴先生の仕事量が増えちゃって。雨晴先生が第二の横田先生にならないか、心配だ」

 月夜はその言葉を聞いて、俯いた。だが、同じ心配をしてくれている人が他にもいることを知って、安心した。

「そうおっしゃる『先生』は、働きすぎで倒れたりしませんか?」

 月夜はとりあえず、多くの学生がそうするように、名前を知らない教授のようなその人物に対し、「先生」と呼ぶことにしてそう質問をした。

「私は、ここの職場に来る前に一般企業で働いていてね。実際に倒れた側さ。倒れる前までは、愚直なほど真面目だったんだが、倒れてからはね、適っ当ーに遊びながら仕事してる」

 「先生」はそう言って、かはははっは! と笑った。月夜はそんな「先生」を見ながら、

「『先生』。何がこんなに人々を、疲れ切ってしまうほどに働かせるのでしょうか?」

 と質問をした。『先生』は、んんん、と唸る。

「そうだね……詳しいことを聞きたければ、私の授業にいらっしゃい。でも、言えるのは、今は、知識情報革命という『第三の波』が来ているという世の中で、知識・情報によってこの地球が一つになっている時代といえるわけなんだよ。地球の裏側に居る人とでも、今は、ネットワークが繋がっているから、お互いにネット環境のいいところに居て、その類の機械を持っていれば、一瞬で連絡ができるよね。昔は、手紙を出して、届くまでに、何日も、いや何ヶ月も掛かっていたのに。つまり、この知識情報社会であることによって、人はどこに居ても仕事が出来るようになった。一見便利な世の中だと思うだろう? でもね。それは裏を返せば、どこに逃げても、仕事が追いかけてくるということなんだ――どこに居ても仕事が出来るようになった今、人々は、どこに居ても仕事を強いられるわけだ。特に知識情報を扱う産業に於いては」

 月夜には、地球の昔と今の変化のことなど、共感を求められたところでよく理解ができるはずもなかったが、なんとなく「先生」の言いたいことは、理解が出来た。

――でも、じゃあそれって一体どう解決すれば……?

月夜が、下を向き、んー。と俯くと、「先生」が、くるりと月夜に背を向けた。

「まぁ、周りに振り回されないことと、無理をしないことだね。自分が、もう無理だ、と思ったら、自分でちゃんとブレーキを掛けること――あんまりこんな指導は、この国の国民性的にされないだろうけど、とても大事なことだよ。それじゃあ、僕も本来授業中なんでね。君と喋っていたいのは山々なんだが、あまりここでくつろいでいると、学生たちから授業料を搾取してしまうのでね」

 「先生」はそう言って、去って行った。月夜は、その「先生」の授業というのが気になったが、その「先生」の名前を聞くのを忘れてしまったため、彼がなんという教授で、どこの教室で授業をしているか知ることができないではないか、とあとから考えて、しまった、と頭を叩いた。


                         ☆


「あぁ、かぐやさん。今日はちょっと、このあとの授業準備が間に合っていないので、一緒に食べに行けません。すみません。申し訳ないんですが、お金を渡すので、かぐやさんの分と僕の分の昼食を買ってきてくれませんか?」

 雨晴の横田ゼミの学生たちへの授業が終わると、月夜は、そうおつかいを頼まれて、大学構内にあるコンビニにやってきた。雨晴はよく唐揚げを昼食に食べる。おにぎりとサラダを手にしたあとで、あのレジ付近にある、唐揚げたちは、どうやって取って買うのだろう、と月夜は不思議に思いながら、レジに並んでいた。すると、前の人が、

「あと、肉まんもください」

 とレジの人に言ったのを小耳にはさんだ。すると、言われたレジの人は、トングを持って、言われた肉まんを薄い紙に包んで持ってきた。月夜は、ほうほう、なるほど、とその様子を観察した。そして、自分の番になったとき、「あと、唐揚げください」と言おうとしたとき、間違えて、

「あと、肉まんもください」

 と言ってしまった。言ったあとで、間違えた! と焦ったが、動き始めた店員さんに訂正が出来るはずがなく、月夜は、唐揚げではなく、肉まんを買ってしまった。

 雨晴のオフィスに戻ると、雨晴は、パソコンに向かい、こちゃこちゃと早いタッチで、パワーポイントの作成をしていた。

「あぁ、かぐやさん、すみませんね。そこに置いておいてください」

 月夜は、はい、と言って、自分の昼食をむぐむぐと食べ始めた。やっぱり、まんじゅうは美味しい。雨晴は、その後五分ほど、高速でタイピングをすると、「よし」と言って、両手を広げながら伸びをした。

「はぁ、どうにか間に合いました」

 そう言って、月夜ににっこりと微笑むと、コンビニの袋をあさり、

「あ、肉まんじゃないですか。いいですね」

 と呟くと、嬉しそうに肉まんにかぶりついた。その様子を見て、月夜もほっとした。しかし、三時間目の始業が近づくのを確認し、

「先生、そろそろ……」

 と声を掛けると、こくこくと、雨晴は頷き、パソコンからUSBを抜いてオフホワイトのカーディガンを羽織った。もぐもぐする口を、両手で押さえながら、

「行きましょう」

 と呟いた。おにぎりとサラダは、晩御飯にお預けのようだ。


                        ☆


 その日の哲学入門の授業は、決定論と自由行為についてであった。決定論というのは、雨晴の授業での説明によると、「過去の出来事+自然法則→未来の出来事は一つの出来事しかない」とする考え方のようだ。言い換えると、「自分ではどうすることも出来なかった過去の出来事がなければ私の行為は起こらなかった」と考える考え方であるという。

「たとえば、最近僕は、色々事情がありまして、この授業の前の昼休みの時間、軽食とかしか食べれなくなってしまったんですが、この授業中に僕のお腹が空くことは、その前に軽食しか食べなかったという過去の出来事によって決まってしまっているわけですよね。このように、過去の出来事と自然法則によって、未来の出来事は、一つの出来事しかないとするような考えかたが決定論なわけなんですが、どうでしょう? みなさん、何か他に良い例ありますか?」

 雨晴がそのように説明をしながら、授業を続ける。

授業の板書をしながら、月夜は、考えていた。

 雨晴が、今日、ちゃんとした昼ご飯が食べられなくなるほど忙しくなったのは、なぜか。

 まず、横田ゼミの学生への授業が始まったからなわけだが、これも、横田の休職というものがなければ起らなかった。そして、横田の休職は、度重なるエネルギーチャージの利用によって、エネルギーチャージが使えなくなり、休職しなければ、死んでしまうほどに働いていたからであるといえる。そして、横田がそこまで死ぬほどに働かなければならなかったのは、世の中の流れとして、知識情報革命の世の中になってきているから……

 そのように考えると、今日、雨晴が十分に昼ご飯を食べることができなかったのは、決定論から考えると、変えられなかったことで、雨晴一人では、どうしようもできない問題なのかもしれない。

 ――このままだと……雨晴先生は、どんどん仕事が増えて……まともに食べたり寝たり出来なくなって、私の好きな雨晴先生ではなくなってしまうんじゃないかしら。

 決定論に従えば、そうなってしまうような気がする。どうすれば、決定論を変えることができるのだろうか。

 月夜はそんなことを考えながら、瞼を閉じた。そして、自身の瞼の裏に映った映像に、はっと目を見開いた。

 ――今、私が思いついたことは、何かとんでもないことなのかもしれない……けれどもし、これに実現出来る見込みがあるのなら。

 月夜は、内心、どくどくと、鼓動を速くしながら、見た目には感づかれないよう、平静を保ったまま、板書を続けた。

 前から見る教室では、見られている意識のない学生たちの無防備な顔が、白い蛍光灯に照らされて、うねうねと揺れていた。


                        ☆


 その日の放課後、雨晴は、オフィスで再び自身の論文作成に取り掛かっていた。物凄いスピードで、こちゃこちゃとパソコンのキーボードを叩き続けている。

 月夜はそんな雨晴の様子を黙って窺いながら、手の付けられていない、紅茶とビスケットの載った皿をちらりと見つめた。そして、

「雨晴先生」

 と声を掛けると、雨晴は、ぴたりと手を止め、ゆっくりと月夜を振り返った。そして、手元の紅茶とビスケットに気が付くと、あ、と呟き、

「すみません。用意してくださっていたのに、手も付けられなくて」

 と、へこへこお辞儀をした。月夜は、いえいえ、と首を振る。

「それは、大丈夫なんですけど……お疲れじゃないですか? 先生が声に出してくだされば、私、打ち込みします」

「え、本当ですか? じゃあ、お願いしようかな……」

 そんなやり取りの後、月夜はパソコンの前に座り、お茶を飲む雨晴が、宙を見ながら言う難解な文章を、かちゃ、かちゃ……と打ち込み始めた。

しかし、日本語のローマ字表記の仕方をもともと知っていたものの、タイピングや変換に慣れていない月夜は、タイプミスや、誤変換が多く生じてしまい、逆に雨晴に迷惑を掛けてしまった。例を挙げるなら、「最大多数の最大幸福」が、「際第田数のさ偉大子うふ苦」となってしまう、といったように。

「すみません。逆に、時間を掛けてしまうことになってしまって」

 月夜はそう言って、申し訳なさそうに肩を落とした。当の雨晴はというと、爽やかな笑顔で、

「あぁ、いいえ。でも、こうなって来ると、暗号みたいで、読み解くのが逆に面白いですね、ふふ」

 と笑っていたが。

 日は短くなり、外はもう暗く、空にはすでに満月に近い丸みを帯びた月が上がってきていた。

「あ。かぐやさん。見てください。月です。かぐやさんのふるさとの」

 雨晴はそう言って、キャスター付きの椅子で出窓に近づき、月夜を手招きした。

 月夜も窓辺に近づく――そういえば月夜は、地球に来てから、まったく月をまともに見ていなかった。というより、地球から見た月がどういうものか、ちゃんと知らなかったため、ひょっとしたら、これまでも見ていたのかもしれないが、それを月夜が「月」と認識していなかったのかもしれない。

 地球から見る月は、他のガラスの粉砂糖みたいな星屑たちより何倍も大きくて、形がちょっといびつで、黄色っぽかった。

 ――これが、地球から見た月……

 月夜が、その月に見惚れていると、雨晴は、

「月が綺麗ですね」

 と言って微笑んだ。月夜は、雨晴を振り返る。優しくて、温かい、雨晴にしか出来ない笑顔だと、感じた。月夜は、

「はい。そうですね」

 と頷いた。雨晴は、くすくす笑って、「よし」と腕を上げて伸びをすると、月夜に、

「よし、それじゃあ、もう一仕事、頑張ってから帰りますかね。かぐやさんは、もう遅いですし、お帰りになってください」

 と言った。月夜は、しばらく雨晴を見つめると、そっと首を振った。

「いえ。その……私は、先生の役に立てていないかもしれないんですが、その。雨晴先生のことを支えたいんです。……あの。今日、保健センターに置いてあった本で、良い肩もみの仕方を学んだんです。先生の肩、マッサージしてもいいですか?」

 月夜が恐る恐るそう言うのを、雨晴は、きょとんとした顔で聞いていたが、すぐに、

「いえ、かぐやさんはちゃんと、僕の役に立ってくれていますよ。いつもありがとうございます」

 と言って笑ってくれた。そして、こう付け足した。

「そう言っていただけるなら、マッサージしていただこうかな。僕も、かぐやさんを早く帰せるように、仕事急いで終わらせます」

 その後、パソコンに向かった雨晴の後ろから、月夜は、そっと雨晴の肩に手を置き、指に力を込め始めた。

「うわぁああ! ちょっと、待って、くすぐったい!」

「え。弱かったですかね……じゃあ、こんくらい……」

「ああああ! それは痛い」

 そんな感じで雨晴の叫び声と共に試行錯誤を重ねていたが、そのうち、「あ、今の気持ちいいですね」と言われた時の力の込め方に慣れ、静かな優しい時間が流れた。

 この時が、月夜の幸せの絶頂であった。


                      ☆


 その日の夜、榊の家に帰り、眠りについて、夢を見ていると、月夜の夢の中で、

「月夜さまー! 月夜さまー!」 

 と、どこか遠くから、聞き覚えのある声が聞こえた。

「……ウッシー?」

 と月夜が夢の中で後ろを振り返ると、月夜が月に居た頃、月夜個人用の牛車にお付きの牛、ウッシーが、牛車を引きながら、ゆっくりゆっくり走って月夜のもとへやって来た。

「あら。久しぶりじゃない。ウッシー。元気にしていた? みんな元気にしている?」

 月夜がそう言うと、ウッシーは疲れたように、

「はぁ。お蔭さまで……それにしても、地球の重力は、自分の体を重くさせますね……地球に居るだけで、疲れが増しますだ……」

 と月夜の前で座り込んだ。

「それにしても、夢の中に出てくるなんて、またどうしてそんな高度なことを?」

「あぁ……今晩、月夜さまもご覧になってお分かりのように、もう満月が近づいておりまして。明日が、スーパームーンなんであります。で、月夜さまのご留学は、そのスーパームーンまでのこととなっておりましたので、明日の夜、私、ウッシーが、お迎えに上がりますよ、というお知らせに参りました」

「え?」

 夢の映像の中で、月夜は、固まった。自分の留学がいつまでか、ということを気にしてはいなかったが、そんなことは初耳である。

「な、なんでそんな大事なこと、もっと早くに言ってくれなかったの? 竹取物語でも、もっと早くに教えてもらっていたというか……主人公は、もっと早い段階で、自分が月に戻んなきゃいけないタイミング察するわよね? 何で、私にはそんな、急なの?」

「も、申し訳ありません。月夜さまの夢には、いつもすでに先客がおりまして、なかなか入り込めませんでしたので……」

 そう言われて、月夜は顔を赤くした。雨晴に会って以来、月夜は毎晩夢の中で雨晴に会っていた。

――ということは、ウッシーには、私が毎晩雨晴先生を夢に見ていることがバレていたというわけね。なんとも悔しい……

月夜は、うぅ……と俯きながら、

「ウッシー。その……留学が終わるのは仕方がないとして、私、月に帰る前に、地球でやっておきたいことがあるの」

 と言って、ウッシーの耳元に、口を近づけた。誰も聞いていないのに、ひそひそとウッシーに頼みを言うと、ウッシーは、え? と疑わしそうな顔をした。

「地球にそんな人、いらっしゃるんですか?」

「私もわからないけど……ウッシーなら、かぐや家の権力を味方に、明日の夜までに見つけられるでしょう。見つけて、私を牛車に乗せた後、その人のもとに連れて行って」

「……ですが、そんな方に会って、何をしようと?」

「それは……内緒」

 月夜がそう言い終わったところで、夢が終了した。外では強い風が吹いているようで、榊の家の窓の微かな隙間から、ピューンッという音が聞こえてきた。


                        ☆


「え、今夜、月に帰られるんですか?」

 朝、雨晴のオフィスにて、雨晴は、こちゃこちゃと原稿をタイプをしながら、そう言って目を見開いた。

「そうなんです……」

「それは……また、急なお話ですね」

 そう言うと、雨晴は、手を止め、立ち上がった。そして、月夜の前まで歩くと、パッと月夜の目の前に手を差し出した。月夜がきょとんとして、その差し出された手の上に手を置くと、雨晴は、両手で、ぎゅぎゅっと、月夜の手を握ってくれた。

「かぐやさん、今日までアシスタント、お疲れ様でした。僕のわがままが過ぎて、さぞお疲れになったんではないかな、って申し訳ないです。でも本当に、かぐやさんの仕事の早さ、正確さに助けられましたし、何より、楽しかったです。また地球にお越しの際は、おいでください。いつでも待っています。今日まで本当に、ありがとうございました」

「雨晴先生……私の方こそ、本当に、あり……」

 月夜は、感謝の言葉を述べようとしたところで、涙を溢れさせた。

「……本当に、ありがとう、ございました。地球に来て、一番最初に出会ったのが、雨晴先生で、本当に、本当に、良かったです……」

 月夜がそう言って、ぎゅっと雨晴に抱きつこうとしたその時――

 プルル、プルル……プルル、プルル……

 と、雨晴のオフィスの電話が鳴った。雨晴は、あ、と電話を振り返ると、

「ちょっと、待っていてください」

 と言って、月夜の手を離した。月夜は、あ、と遠ざかっていく雨晴を目で追った。

「もしもし、雨晴です……はい……〆切を早めてほしい? ……はい。わかりました」

 月夜は電話を受ける雨晴の姿を見ながら、心を痛めた――私が月に帰ったら、雨晴先生は、アシスタントもなく、大量の仕事に追われて……

 雨晴が、受話器を置くと、月夜は、雨晴の後ろから、雨晴をぎゅっと抱きしめた。

「……雨晴先生、私と一緒に、月に逃げましょう」

「え? かぐやさん、急にどうされて……」

「今の時代、地球に居る限り、仕事から逃げることはできない。だったら、私と月に逃げましょう――私、雨晴先生には、大量の仕事に疲れ切って、命の危険に晒されるなんてことに、なってほしくないです。雨晴先生には、ずっと、その笑顔で居てほしいんです。エネルギーチャージなんて、使わなくても……雨晴先生、月がお好きなんですよね? だったら、私と一緒に、月に逃げましょう」

 月夜は、泣きながら一気にそう言った。雨晴のオフィスに、しん、とした静寂が流れる。どこか他のオフィスから微かに電話が鳴る音が聞こえて、また消えた。

 雨晴は、ふっと笑って、月夜の手をそっとほどくと、月夜に向き直って、視線を合わせた。

「かぐやさんがそんな風に心配してくださっていたなんて、ずっと気づかず、申し訳ありませんでした。でも――僕は、かぐやさんと一緒に月へは行きません」

 月夜は、はっと息を 飲み込んだ。だが、その雨晴の答えにそこまで驚かなかったのは、心のどこかで、その答えが返ってくるのを感じていたからかもしれない。

「かぐやさんが嫌いだからとか、そういうわけではありませんよ。その――確かに、仕事は多くて大変ですけど、でも、僕が今この仕事をしているのは、学生時代の僕が、ある先生の授業を履修して、あぁ、哲学って面白いなぁって思って、それを専攻にしたからで、ここに居るのも、いろんな縁があったからで――今の僕は、過去の自分の出来事が作り上げてくれたものなんです。だから――月は好きです。でも、かぐやさんと一緒には行きません。それ以上に、今の自分が好きだからです――月へは、いつか、自分の力で、おじいさんにでもなったときに、行かせていただきます。ですから、待っていてください。それまで僕は、仕事でストレスを溜めてしまって、エネルギーチャージを多用して、早死にする、なんてことがないように、上手い具合に休んで頑張りますから」

その雨晴の言葉を聞いて、月夜は、ほっとした――少し、寂しさもあったが。その答えが雨晴らしくて、安心したのだ。

「そう聞いて安心しました……雨晴先生、ずっと、その笑顔でいてください。もし辛くなったら月を見てください。私が、雨晴先生にだけ、もっと明るい光あげますから」

月夜の言葉に、雨晴は、ははは、と笑うと、はい! とにこやかに返事をした。


                        ☆


その日の夜。夢で言われたように、スーパームーンから、ゆっくりゆっくりと、ウッシー車を引いて、月夜のもとにやって来た。梅酒を片手にした榊が、

「かぁー。月から来たなんて、絶対嘘だと思っていたけど、本当だったのねぇ」

 と、目を見開いていた。その言葉を聞いて、月夜は、榊には信じてもらっていると思っていたのに、そう思われていたことを初めて知り、なんだそれ、とツッコんだ。

 着陸したウッシーは、おずおずと、月夜のもとに歩み寄る。

「月夜さま。探しておられた人、見つけましたよ。決定論ライターという方が、南極付近の大気圏の中の中間圏にいらっしゃるとか……」

「あぁ……それなんだけど、やっぱり、大丈夫」

「え?」

「あの人のことを、信じることにしたの」

 そう言って、微笑む月夜の顔に、ウッシーは、きょとんとしながら、「では、まっすぐ帰りますか?」と問うと、月夜は、「えぇ」と答えた。

 月夜が牛車に乗ると、ウッシーは、ひひーんと叫んで、パカラパカラッと脚を動かして、黄金に輝くと、宙に浮いて、スーパームーン目がけて走り去っていった。

 どこかで、

「お母さん! サンタさんだ!」

 と叫ぶ子どもの声がどこかからか聞こえた。


 この物語は、このようにして、幕を下ろすわけであるが、本来これとは違ったラストシーンを迎える予定であったことを、読者諸君には、話しておこう。

 月夜が、ウッシーに頼んで、見つけようとした人は、「地球の決定論に携わっている人」であった。そして、ウッシーは、必死になって探して、大気圏の中間圏に居るという、決定論ライターを見つけ出した。決定論ライターというのは、その名の通り、地球の決定論を書く職業をしている妖精である。

 決定論ライターの側には、「全人類の記憶・情報をつかさどる竹」があった。人間の記憶というのは、個人特有の独立したものであるように見えて、実は、根底の部分では、全て繋がっている――まるで、一本一本は独立しているようでありながら、根っこの部分では繋がっている竹林のように。決定論ライター達は、その「全人類の記憶・情報をつかさどる竹」から、情報を集め、未来を予測し、決定論を綴っていた。そして、その決定論の通りに地球は動いていたのである。

 月夜は、彼らに会い、「決定論を変えてほしい」とお願いする予定だった。働きすぎで過労死する人が居なくなるような世の中にしてもらいたい、と。しかし、決定論ライターたちは、「そのきっかけとなるような出来事が無い限り、決定論を変えることは出来ない」と断る。それを聞いた月夜は、もともと計画していた通りに――最初の哲学入門の授業のディスカッションの際に、男の子が言っていた、「全人類の記憶を消す」を実行しようと、「全人類の記憶・情報をつかさどる竹」を、斧で叩き割る、という蛮行に走るのである。

 あっさりと割れた竹から、全人類の記憶・情報は、地球から漏れ出てしまい、全ての人間は、記憶喪失に陥った。月夜は、全ての記憶・情報が失われれば、人々は、仕事に追われることがなくなり、よく生きることができると考えたのだ。

 そして、月に帰る前に、もう一度雨晴に会おうと、日本に戻り、雨晴を探した。雨晴は、大学構内をふらついていた。月夜は雨晴に声を掛けた。だが、月夜の事を忘れてしまった雨晴の姿を見て月夜は、ショックを受ける。

 その様子を見た、たまたま近くに居た学生だったと思われる若者が、

「みんな記憶が飛んでるのに、こいつだけ、みんなが記憶を失う前の記憶を持っているぞ!」

「こいつが、全人類の記憶をふっ飛ばした犯人か!」

 と叫んだ。その言葉を聞いた人という人が、次々と多くの人を呼び、月夜は、全ての人を敵に回していることを悟った。

「俺は誰なんだ! 俺の大切な人は誰なんだ? 家族は?」

「誰も覚えてねぇからさ、わかんねぇんだよ」

「責任とれよ」

 そう言って、多くの怒れる若者たちが、月夜に近づき、月夜を殴り始めた。

「やめなさい! 一人のかよわい女の子じゃないの」

 と、月夜をかばってくれる女の人も居た。榊だった。月夜は涙を流した。

「いいんです……私は、この、働きすぎによる過労死が頻発するというこの世界を、どうしたら、変えられるか、って考えて、『全人類の記憶・情報をつかさどる竹』を割ることを選びました――愚かにも、深く考えずに」

 月夜は、そう言うと、若者たちに向かって立ちなおした。

「はぁ? ふざけんなぁ!」

 ――どこかで銃声が鳴った。胸に激痛が走った。

それが、月夜の最後の記憶だった。

 その後、全人類の記憶・情報が吹き飛んでしまったままのその世界の歴史の冒頭、月夜は、全人類の記憶・情報を飛ばした大罪人として、民衆に処刑をされた。

 しかし、その月夜が最後に語った言葉から、一部の人々は、

「彼女は、もともとの世界で、過労死するほどまでに、人々が働かされていた世の中を変えようとした結果、そのような大罪を犯したのだ」

 と考え、その月夜が殺された銃を模したモチーフのペンダントを作った人々が、「かぐや教」を創立し、月夜を崇め奉り始めた。

 ――歴史は繰り返す、そんな言葉がぴったりくるのかもしれない。


 このようなことにならずに済んだのは、実は、雨晴が最後、月夜に言った言葉のお蔭であった。

「確かに、仕事は多くて大変ですけど、でも、僕が今この仕事をしているのは、学生時代の僕が、ある先生の授業を履修して、あぁ、哲学って面白いなぁって思って、それを専攻にしたからで、ここに居るのも、いろんな縁があったからで――今の僕は、過去の自分の出来事が作り上げてくれたものなんです。だから――月は好きです。でも、かぐやさんと一緒には行きません。それ以上に、今の自分が好きだからです」

 この言葉を聞いた時、月夜は、今から自分がしようとしていること――全人類の記憶・情報を飛ばすこと――は、自分の大好きな雨晴が大切にしている雨晴の過去、今の雨晴を、雨晴から奪ってしまうことになるのではないか、と考えた。

そして、好きな人が幸せでいてくれることが、自分にとっての幸せでもある、と考えた月夜は、雨晴が今のままで幸せならば、自分はそれを奪うべきではない。また雨晴なら、どんなに仕事が大変になったとしても、今と変わらずその素敵な笑顔を保っていってくれるだろう。そう信じて見守ろうと思った。

彼のこの言葉が、月夜の心を変え、来るべき未来を変えた。

もしかすると一人一人の一瞬一瞬の行動が、この世界を作っていく上で、なにかとても重要な役割を果たしているのかもしれない。

――そう、未来は今のあなたの行動で決まる。

雨晴の言葉が、この未来の物語のラストシーンを変えたのと同様に。

(完)


 本文にもある通り、この話は、実際に、「想定されていた」ようなラストを迎えることを想定していた。

 だが、月夜が雨晴の話を聞いて、それを本当に実行に移すのか、と考えたとき、真に雨晴を愛している月夜なら、そのようなことはしないだろう、と感じた。

 要するに、虚構の中のキャラクターに筆者である私が負けたということだ。

 この話は、新人賞に向けて、など特に気にせず書いた作品だったため、とても伸び伸びと書かせていただいた。拙い物語だが、読者に面白い、と読んでいただければ幸いである。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ