ある晴れた日
部屋に差し込む朝の白い日差しの中、オディールはぼやけた意識を手繰り寄せる。まだ拙い小鳥達の囀りを、体温で温まったベッドの中で耳を澄まして聞いてからゆっくり起き上がる。ベッドの温もりが名残惜しくはあるものの、欠伸混じりの深呼吸をひとつすると両の瞳をぱちりと開く。
農村の朝と云うものはとても早い。隣の家の畑からは既に、農業用機械を運転する音が響いていた。日が昇るのと同時に今日も一日が始まるのだ。
オディールは白の寝間着から黒い無地の襟付きワンピースに着替えて洗面所へ向かう。春とは云え、明け方はまだ肌寒い。冬の様に家の水周りが凍ってしまうことはもうないけれど、暖かなベッドのある寝室と比較すると水場はやはり冷えている。それでもエルザの家は、オディールにとってはとても暖かな場所だった。
いつも通りに歯を磨いて、顔を洗う。井戸水は冷たくて、触れただけでも一気に目が覚める。
背中に垂らした黒の長い髪は丁寧に1束ずつ梳かしてから、器用に編んでワンピースと同じ色の黒のリボンでアップに纏める。
こうして身支度を終えると、隣の部屋で寝ているであろうエルザを起こさない様に静かに台所へ向かう。
台所へ辿り着くと、先ずはやかんと片手鍋に水を入れ、コンロにかけて湯を沸かす。パンは無駄にしないように食べる分だけ切り分ける。卵3つとミルクを用意して…卵が残り2つになってしまったから、後で村の養鶏農家さんの所に行かなくてはならない。沸騰した片手鍋のコンロの火を消してから、割れないよう気を付けてそうっと静かに卵を沈める。昨日の残りの果物をナイフでカットしたら器に盛る。用意したティーポットと3つのカップに沸いたお湯をやかんから少量注ぎ、温める。このひと手間が大事なんだとか。湯を捨ててから、湿気ない様にと普段から丁寧に保存しているお気に入りの茶葉とドライフラワーを適量、スプーンで掬ってティーポットに入れ熱いお湯を注げば、エルザが好きなハーブティーが出来る。昨日果樹園の旦那さんから頂いたレモンを入れたので、今朝の紅茶はとても透き通った綺麗な琥珀色をしていた。深みのある茶葉の香りの中、ほのかに混ざるレモンの甘い匂いが朝の台所に漂う。
朝食の準備を一通り終えたオディールが台所に置かれた小さな丸椅子に腰掛け、ティーポットの中でぐるぐるとジャンピングしている茶葉をぼんやりと眺めている時だった。
「俺、朝は珈琲派」
「ひっ…!?」
頭上から静かな男性の声がした。突然の出来事に驚いたオディールは、思わず情けない声を上げる。
「何?」
頭上から聞こえる不機嫌そうな声に恐る恐る振り向くと、椅子に座るオディールの後ろから覆いかぶさるようにしてティーポットを覗き込むリオが立っていた。
「いえ…あの、おはようございます」
「おはよう」
小窓から差し込む朝陽で、明るく白んだ台所。昨日の夕陽で橙に染まる空の下とはまた違った、澄んだ光の中に佇むその少し気だるげなリオの姿に、オディールは不覚にも見惚れてしまう。ティーポットをオディールの頭上から首を傾げて覗き込んでいる為、彼の柔らかな亜麻色の髪はさらりと目元に掛かっていた。
(綺麗な目…)
朝日を反射している様な明るい色の瞳が、流れた前髪の隙間からちらりと見えた。朝だからなのか、それともティーポットから経つ湯気のせいなのだろうか、リオの瞳は少しだけ潤んでいた。
今朝の紅茶にアルコールは垂らしていないはずなのに 。その香りを吸い込むだけで、何故だかオディールは酔わされたみたいに体温が上昇した様な気がした。
「い…急いで、すぐに、珈琲用意しますね」
「紅茶で良いよ、それ、ハーブティーだし」
丸椅子から立ち上がり、珈琲を淹れる為にもう一度やかんを火にかけては慌ただしく準備を始めるオディールを制止すると、リオは怠そうな欠伸をしながら昨晩と同じダイニングテーブルの席に着いた。
「そう…ですか」
朝から調子が狂う。会話が弾む訳もなく、オディールは眠たそうなリオの無言の視線を受けながら、パンとミルク、食べやすい大きさに切ったフルーツと、茹でた卵のシンプルな朝食を食卓へ二人分並べる。3つ用意したカップに紅茶を注いで、1つは丸いトレーに乗せる。
「あまり豪勢な朝食ではないのですが…どうぞ…その、温かいうちに、召し上がってください」
「それは?」
トレーに乗った紅茶のカップを、リオが指差す。
「これはエルザの…」
「あぁ、二日酔い?」
「いいえ、いつも朝一番に寝室で飲むのが日課なんです。二日酔いは…なってるところって見た事無い…ですね」
「へぇ…そう。エルザさんさ、あの人、酒強すぎ。俺もそこそこ強い方だと思っていたけど。まさかあんな豪快に酒飲む婆さんがいるとは思わなかった」
「そうですね…。あの後2本、追加で空けた証拠が…そこに」
「あー、それ殆ど1人で飲んでた」
「えっ…!?そんなぁ…エルザっ、嗚呼…もう!」
「面白い婆さんじゃん。変だけど」
そう言ってリオは微笑む。昨晩と比べると何処か雰囲気が和らいでいる様に思えた。勿論、ぶっきらぼうな物言いと、性格なのか単純に寝起きで気怠いのか、相変わらずオディールに対する態度はそのままなのだけれど、こうして自然な流れで会話が出来た事で、オディールは少しだけリオへの緊張が解けたような気がしたのだった。
「あの!…1つ、伺っても良いですか?」
ゆったりとカップに口をつけて紅茶を飲むリオに、今度はオディールが訊ねた。
「こうして私と話す時と、昨晩みたいにエルザと話す時とで…その、少しだけ雰囲気とか喋り方が違う気がするのですが…」
実際には少しどころか大分、態度も雰囲気も喋り方も違う。彼からすれば5つも歳下のオディールは多少幼く、もしかしたら子供に見えてしまうのかもしれないけれど、それにしたって態度の差が有りすぎる。
「どちらが、あなたの素に近い方なんでしょうか?…それとも、私が何か気に触る事でも…」
「こっちが通常」
ティーカップを片手に、怠そうな、少々不遜な態度のままのリオが答える。
「別に、目上の人に敬意を払うくらいの常識はあるだろ、普通。まぁ、昨日のあの薬草から察するに、あんたの同居人が只者じゃないって事は分かっていたけど」
「そう…だったんですか?」
「話してみて確信した。とんでもねぇ婆さんだな。凄いよ、エルザさん。それと、あんたは気に触る事なんかして無いだろ?寧ろ、こうして飯と寝床を用意してくれた訳だし」
「いえ、そんな…」
「年齢低く見られたのはまぁ…、もう慣れてるから良いけど。つーか何処行っても似たような反応ばっかで…こっちはちゃんと証明証持ってんだって、言ってんだろーが…」
「そ、それは…あの、うっ…すみません」
恐らく後半は今まで溜まりに溜まった分の愚痴であって、オディールに対しての言葉では無かったのだろうけど、実際、初見で同じくらいの年齢だと当たりをつけてしまった為に何とも言い逃れが出来ない。
「いいよ、もう気にしてない。あんたの飯、美味いし」
「そう…ですか」
「うん」
何だか納得出来たような、出来ないような、いつの間にか話をはぐらかされている感じが否めない。結局、「何故」の部分は聞けず終いで、微妙な気持ちのままだった。オディールの質問にはあまり興味が無いようで、一通り話終えたリオは黙々と朝食を食べ始めていた。やはり何か言うべきかなのか迷ったけれど、自分がエルザ用の紅茶を届ける途中だった事を思い出し、オディールは考えるのを止めてエルザの部屋へ向かったのだった。
リオとの妙に気不味い(気不味いだけで、パンも卵も、果樹園の旦那さんの所の果物も美味しかった)朝食後、台所周りの片付けを終えたオディールが外で洗濯物を干していると、陽の当たる庭に面した2階の自室の窓から、ひょいと顔を出したエルザが声を掛けてきた。
「ねーえ、オディールー!!ちょっといいかしら?」
「はい、構いませんよ。何か用ですか?」
「洗濯物干し終わったら、果樹園の旦那さん所へ追加のお薬を届けに行ってもらって良い?」
少女の様に小首を傾げるエルザ。相変わらず、オディールの同居人は何処か可愛らしかった。
「薬…調合は済んだのですね」
「えぇ、勿論!昨日オディールが薬草を沢山採って来てくれたお陰でね、十分な量が用意出来たわ」
「それは…良かったです。あと1枚なのですぐに終わらせますね。その後、届けに行ってきます」
オディールはそう応えると洗濯籠に残った最後の1枚のシーツを拾い上げ、丁寧に皺を伸ばしてから干した。右手を翳して指の隙間から見上げた空は雲一つなく、澄んだ青色が拡がっていた。暖かな春風に吹かれて干したばかりの真っ白なシーツ達の端が、穏やかな浜辺の波打ち際の様にゆらゆらと揺蕩う。春の訪れと共に眠りから目覚めたイノセントな妖精達が、シーツの隙間でくるくると戯れ合っている様にも見えるその光景に、達成感と小さな幸福を憶える。
今日は天気が良いから、洗濯物もすぐに乾いてくれるだろう。果樹園の旦那さんの所へ向かうなら、ついでにその近くにある養鶏場へ寄って卵を買いに行ける。オディールははたはたと風に吹かれている干したばかりの白いシーツを眺めながら、午後の予定の順序を頭の中で幾つか立案した。天気が良い日の午後なら村の通りにある小さな商店も、客足が賑わうと意気込んで、質の良い品々を店頭或いはイチオシ商品として販売していることだろう。
昨晩の贅沢…とは言え有り合わせや保存食による慎ましやかなものではあるけれど、客人が居るのに侘しい食卓を提供するなど、台所を預かる身としてはどうしても憚られた。彼が何日間この村に滞在するのか定かでは無いが、家に招いた手前、それなりのもてなしをする為にも今日中に買い出しをするつもりだったし、リオの滞在が無かったとしても越冬する間に、家の保存食はそれなりに量を減らしていた為、近い内に最低限食糧品を買い足す必要性があったのだ。
そうして午後の予定を一通り練ると、出来ればエルザの好きな苺を買えると良いな等と考えながらオディールは空の洗濯籠を両手で抱えて室内へ戻る。夏の肌を照り、烟る様な暑さとは異なるものの、ずっと明るい真昼の陽の下にいたせいで少しだけ、ふらりと立ち眩む。ひんやりとした室内は薄暗く、今まで外の明るさに慣れていたせいで目の焦点が合わない。真っ白いフラッシュライトを一瞬で視界全てに当てられている様な感覚だ。
「出掛けるの?」
「わっ!?」
室内の暗さにまだ目が慣れていないオディールは、突然の問い掛けに思わず驚いて小さく肩を弾ませた。声がした方へ視線を向け、2、3度強く目を瞑る。漸く目が暗順応してきたようで、部屋の様子が明瞭に見え始める。
電気の点いていない、少し薄暗い昼間のリビングにある1人がけ用のソファ。そこに腰掛け、声の主であるリオは小銃の手入れをしていた。腿の上に布を広げて、その上で分解された小銃のパーツを丁寧に磨いている。一体どんな作業をしているのかオディールには詳しい事は分からなかったけれど、銀の小銃はとてもピカピカしていて、彼が大事に使っている事だけは理解できた。
黙ったまま見つめていると、リオは不審そうに顔を上げてオディールに目線をやる。薄暗い昼の部屋をひとつの宇宙空間だと想像するとして、彼の明るい色の瞳はまるで空から落っこちてきた星の様で、何だかとても神秘的だった。
オディールは「星みたいに綺麗…」と無意識のうちに呟く。暫くしてから、思わず漏れ出た自分の声に気が付くと、それが引き金となり、はっと意識を戻す。空の洗濯籠を抱えたまま立ち尽くして、不躾にリオを見つめていた。こちらを見たままのリオの視線と無意識下に零れた己の言葉を参照し、すぐに恥ずかしさで耳の辺りが熱くなる。どぎまぎして口篭るオディールを他所に、リオは表情をひとつも変えることなく瞬きをすると視線を小銃に戻す。
「何処に?」
作業の手を止めずに、リオは問いかけた。
「えっ…?何処…っとは」
動揺したオディールは、空の洗濯籠で顔を隠して俯く。
「出掛けるの?」
リオは手元の小銃に視線を落としたまま、先程したのと同じ質問をオディールに投げかける。オディールは分かりきっていたとはいえ、興味なさげで愛想のあの字も無い様なリオに対し、すぐに赤面したり一々狼狽している自分が情けなく感じる。自身の事をもう子供だとは思っていなかったけれど、5つ歳上のリオの、ある意味泰然自若とした態度と比較するとやはり何処か幼いのだろう。
「えっと…お薬を届けるのと…」
昔からのオディールの悪い癖で、一度自虐的な思考に至ると暫くそれを引き摺ってしまい、抜け出せなくなってしまう節がある。自分でも分かる程、答える声が細く、小さくなっていく。
「あと買い物に…」
「…俺も行く」
リオはすくっと立ち上がると手入れしていた小銃を慣れた手つきで組み直し、装着している胸元のホルダーに仕舞う。大きな歩幅で玄関へ向かうと、近くに掛けていた洒落たグレーのコートを羽織る。急な展開と話の意図が理解出来ず、呆気に取られるオディール。
「買い物って市場だろ。発つ前に食料品揃える」
「えっ…も、もう出発するんですか?」
「そう」
リオはコートの襟を正しながら答える。洗濯籠を持ったまま立ち尽くすオディールに、視線だけ向けると「エルザさんとこ、挨拶して来る」と言い少しだけ姿勢を正してから階段へ向かった。
何か旅路を急ぐ理由があったのだろうか。こんなに慌ただしく出発しなくても良いのではと思うものの、取り立てて引き留める用も、ましてや筋合いも無い。兎や角詮索するのも野暮な気がして、結局、オディールは黙ったまま2階へ上がるリオの背中を眺めていたのだった。
「それじゃあ、オディール。果樹園の旦那さんに宜しくね」
「…はい」
無地の襟付きワンピースの上から外套を羽織り、フードを被ったオディール。手に持った買い物籠の中にはしっかりと、昨晩エルザが調合した薬の瓶が入っている。
「それからリオ、どうか気を付けて。またこの村に来る事があればいつでも歓迎するわ。貴方の旅の安全と無事を祈っているからね」
「ありがとうございます。本当に、良くして頂いて…。この御恩は忘れません」
深々と頭を下げるリオ。ふわりと、その亜麻色の髪が彼の目元に掛かる。
「ええ、いってらっしゃい」
ある晴れた、暖かな春の日の正午。優しい笑顔のエルザに見送られて、オディールはリオと連れ立って出掛けた。
「あの…先に果樹園と、それから、養鶏場に寄っても良いですか?」
オディールはおずおずと、リオを見上げて訊ねる。お昼の休憩時間なら、忙しい果物農家の旦那さんにも薬を渡せるだろう。
「どうぞ」
オディールの隣を歩くリオは、相変わらず言葉短に素っ気なく返事をすると、コートのポケットに手を入れたまま、ふわぁっと、眠たそうに欠伸をした。この様子だと何か急ぎで出発する訳じゃ無いのかもしれない。だったら何故、わざわざオディールに着いて来るのか。買い物なら昨日1度市場を通ったのだから全く場所が分からない訳ではないはずだろう。
ふわりと、風にそよぐ亜麻色の髪に隠れているせいで、リオの表情が定かに窺えない。そうして何も話さず無言のまま暫く歩くと、数分で目的の果樹園へ辿り着く。
「あっ…ここです。あの…」
「待ってる」
「そう…ですか、では、少しだけ待っていてください。すぐに戻りますね」
「ん」
そう短く、とても気の無い返事をすると、果樹園の入口にある大きな木に寄り掛かるリオ。
昨晩、エルザと一緒に薬学に関する話をしていたから、もしかしたら、調合した薬の実際の効果なんかに興味があるのかもしれない。だからわざわざ着いてきたのかもしれないとオディール内心で色々な推測をしていたけれど、どうやらそうではなかった様だ。
「こんにちは。あの、追加のお薬を届けに来ました」
入口から中へ向かった声をかけると、「こっちだよー」と果樹園の旦那さんの歯切れの良い返事が果実の実った木々の奥から響いた。
オディールは律儀に「お邪魔します」と言ってから果樹園の奥まで進むと、少し拓けた木々の陰に可愛らしいチェック柄のシートを広げて座る3人の姿があった。予想していた通りちょうど昼休憩だった様で、この農園主である旦那さんは昨日エルザの所に訪ねてきた小さな娘のニナと、線が細くて綺麗な女性、果樹園の奥さんと一緒に昼食をとっていた所だった。
「どうも、こんにちは。昨日はありがとうございました。薬のおかげでこうして炎症も抑えられてね…本当に助かりましたよ」
「そう…ですか、良かったです」
旦那さんの火傷の具合は流石エルザの薬と言ったところで、一晩経ってもあまり悪化しておらず、オディールの素人目で見てもこのままきちんと処置を行っていけば直ぐに治りそうだった。
「昨日は主人と、それからニナもお世話になったみたいで、本当にありがとうございました。御礼、エルザ先生に伝えてください。お嬢さんも、今日もわざわざ届けて下さって…いつもありがとうございます」
そう言うと、果樹園の奥さんはふわりと微笑む。普段エルザが薬を処方しているのはこの果樹園の奥さんの方だ。オディールもエルザの遣いで薬を届けているので何度か顔を合わせた事がある。
雰囲気が柔和で線が細く、果樹園の旦那さんと同じで一児の母とは思えないくらい若々しい。無情にも美人薄命なんて言葉が世にある様に、この若々しくて綺麗な奥さんはあまり身体が強くはないのだけれど、今日は調子が良さそうで、ニナと微笑み合うその表情は随分と明るかった。
「あの…奥様もお大事に。何かあればまた伺います」
「いやぁ、こちらこそ!エルザ先生に宜しく伝えてください」
エルザに頼まれていた薬を渡し、再度、旦那さんと奥さんに頭を下げる。ニナには小さく手を振ってからオディールは果樹園を後にした。家に帰ったら昨日渡した薬が効いていた事と、旦那さんよ怪我が大分良くなっていた事、それから、果樹園の奥さんの具合の様子をエルザへ伝えようと思った。
果樹園から戻ると、リオは先程と変わらず入口にある木に寄りかかったまま待っていた。
次に隣の(とは言っても、田舎の農村の例に漏れず、広大な敷地面積の果樹園を挟んでいて距離としてはそれなりにある)養鶏場へ向かうとリオに告げると、こちらも先程と変わらず言葉短に返答しては入口で待っていると言っていた為、待たせる事に対しては申し訳なさを抱きつつ、急いで養鶏場での用を済ませる事にしたのだった。
「おや、エルザ先生のとこの娘っ子じゃねぇかぁ!」
通りに面した直売所では、見知った顔の中年男性がパイプ椅子に腰掛けながら新聞を片手に店番をしていた。
陽の当たる屋外と比べると、体感では2、3度涼しい直売所は、裏手に隣接した養鶏場から漂う鳥類特有の生臭さと餌である穀物の乾燥した埃っぽい臭いが充満していた。この手の臭いは家畜の糞尿を肥料としたりする農村では取り立てて珍しい事ではない。それに対して文句をつけたり嫌悪を露にするのは、手塩にかけて農産物を育てている農家さんへの冒涜であり、増してや沢山の動物を飼育する養鶏場の様な施設では抑えようにも限界があり仕方の無い事なので、この農村で暮らす人にとってはごく普通に、当たり前の事として捉えられていた。
それでもやはり、まだ10代の少女であるオディールにとって慣れないこの独特の腐臭は抵抗があり、埃っぽさも相まって思わずくしゅんっと、数回くしゃみをしてしまったのだった。
「ははっ、悪いねぇ。若い娘さんにゃ居心地悪い所かもしれないが、こればっかりは容赦してくれぇよぉ」
豪快な笑い声と癖のある喋り方とは裏腹に、オディールを気遣う様な顔見知りの店主の優しい言葉にふるふると首を横に振る。
「いえ…そんな」
「気にすんなぁ、おれは慣れちまってるから良いけど、普通に臭ぇもんなぁ!はっは!」
そうだとしても、ここでは、店主である養鶏場主が毎日新鮮な卵を提供する為に時に汚れながら汗水垂らして働いて暮らしているのだから、消費者であるオディールが余計な口を挟むのは無粋以前に権利すら無く、つまりはただのお門違いなのであった。
それに、質素ではあるけれど何時来ても直売所は隅々まで手入れが行き届いているし、声が大きくて最初のうちは緊張していたけど、明るく気の良い養鶏場主はどんな時でも笑顔で迎えてくれるのだ。
養鶏場主の中年男性が、エルザと親しい酒呑み仲間だと言うことを省いてもオディールは、彼と彼の仕事場である養鶏場を不快だと思った事は1度たりともなかった。
何より、ここの卵は大きくて新鮮で、とても美味しいのだ。それだけでも尊敬に価する。
「あの、卵を頂けますか?」
「おー!なら今朝取ったばかりのがあるから、丁度いいや!」
そう言うと、養鶏場主の中年男性は座っていた簡易カウンターの後ろにある車輪付きのアルミ棚から、手慣れた動作ではあるけれど驚く程慎重に、揺らしたり、傾けたりする事なく箱に入った卵を持って来てくれた。自分の所の商品に誇りと自信があるからこそ養鶏場主の仕事は非常に丁寧で、だから彼の所の卵は美味なのだと、村の奥様方の間でも専ら話題なのだ。手軽さや値段の安さも大いに越した事はないが、日頃の食卓において品質や味が大前提なのは当然で、その点に関しての目利きのプロフェッショナルである村の奥様方の高評価とは、強ち流通の指標と言っても過言ではなかった。
兎にも角にも、この豪快で繊細な店主の営む養鶏場の卵は美味しくて、エルザもオディールも日頃世話になっている様なものなので、養鶏場主含めて気に入っていたのだった。
「はいよ!」
気前よく差し出された卵の入った箱を、オディールは代金を支払ってから受け取る。重たくはないがいつものより少しだけサイズの大きな箱に気が付いて、再度精算を頼もうと口を開きかけた時だった。
「彼処のにぃちゃんに、崩さねぇように気をつけて持って帰って貰うんだぁよぉ?」
何やらちょっと揶揄う様な表情で、養鶏場主は直売所の外を指差す。
「見ねぇ顔だけど、何だ、フィアンセってやつか!」
「えっ…と?」
「おれはぁ、若い娘っ子達の色恋事情はわからねぇが、最近はああ云う洒落た都会男が人気なんだろう?ちぃっとばかし骨格は細ぇが…おっ、よく見たら綺麗な顔してるんだなぁ!」
何かを察したオディールは急いでくるりと振り返ると、養鶏場主の話している内容と直売所の外で怠そうに待っているリオの事を交互に照らし合わせる。気がついた時には既に遅く、「これぁ随分と似合いな伊達男だ!先生のとこの美人の娘っ子を籠絡するには、あれくらいのいけめんじゃねぇと出来ねぇって訳だ」などとお調子者の養鶏場主は囃し立てていた。
「あっ、あっ、あの!ちがっ…彼は」
「何だぁ?娘っ子の方が懸想してんのか?そんなの美味い料理でも作ってやれば良いんだよぉ、得意だろ?多目に卵持たせてやっからな!くれぐれも先生に作らせるんじゃあねぇぞ?ありゃあ、例えどんな飢饉が来ても金輪際一生食おうとは思えん暗黒物質だからな!はっはっはっ!」
言葉流されるまま狼狽えて居るうちに、養鶏場主の中のオディールとリオのあらぬ誤解だけが増長する。仕事は丁寧で気立ても良く、明るい性格の養鶏場主だが、あのエルザの料理を食べても(一応手酷く貶しながら)笑い飛ばせる程の図太い神経の持ち主故に、ある意味恐ろしいくらいの鈍感なのだろう。1度調子に乗ると手が付けられず、「めんこいんだからぁ、大丈夫。頑張れよ娘っ子!」等と沢山の卵と一緒にオディールとしては不本意な声援の言葉を贈られ、結局そのまま誤解を正すことも出来ずに直売所を後にしたのだった。
「あの…お待たせしました。…すみません」
卵の箱と共に恥ずかしさと気不味さ、焦燥感と倦怠感を抱えて、オディールは今1番個人的に顔を合わせるのが躊躇われる相手であるリオの元に歩み寄った。
幾ら養鶏場主の声が大きくても直売所の扉は閉めていたし、離れた所に居たリオまで聞こえているはずもなく、寧ろ仮に聞こえていたとしても、ポーカーな彼の事だから表情ひとつ変えないでそのままのマイペースな調子で接してくるのだろう。つまりは、オディール1人が微妙な被害を被っただけなのである。男女の痴情に関する類の誤解なら尚更、どちらか片方だけが被るのは、被り損とでも言える。
それでも、彼の居ない所で不本意ながらも生まれた誤解を解けずに、おめおめと戻って来てしまった事に対する罪悪感を拭えなかったオディールは、尻すぼみな謝罪の言葉を呟いたのだった。
リオはしょげて俯くオディールが気付かないくらいに小さく、ほんの一瞬ぴくりと眉を顰めると、うんともすんとも言わずに彼女が両腕で抱えていた卵の箱を取り上げて、がっちりと小脇に抱えたまま村唯一の市場がある通りの方を目線で示した。
「買い出し」
単語だけ発すると、そのまま通りに向かって歩き出す。
「待って」や「卵の箱だから割れないように慎重に扱って」と伝えることも出来ずに、足速に進むリオをオディールは黙って小走りで追うのだった。