祓魔師と調合師と果実酒
「ただ今戻りました。エルザ、遅くなってしまって…ごめんなさい」
「おかえりなさい!良いのよ、オディール。頼んだのは私だし。薬草はどうかしら…って、あら?そちらの方は?」
オディール達が家に着いた頃には、もう辺りはすっかり夜の闇に包まれて、家の中で帰りを待つエルザは部屋の明かりを煌々と付けて本を読んでいた。
「東の森の入口で、出会った旅人の…」
言いかけて口を噤むオディール。花畑の中で唸るようなお腹の音を鳴らして、空腹過ぎて倒れていた事は黙っておく事にした。
「初めまして、エルザさん。俺はリオと申します。今晩泊まる宿が無いと路頭に迷っていたところを、オディール嬢に助けて頂いたのです」
「あらあら、まぁ!」
深々と頭を下げるリオに、エルザは少女の様な感嘆の声を上げると笑顔で答えた。
「オディールから私の話を聞いたのね。うふふっ、私がエルザ。この村で調合師をしているんです」
「その様ですね」
リオは手にしていた籠から、薬草の入った瓶を取り出すと随分と優雅な動きでそっとエルザに手渡す。唸り声の様なお腹の音を響かせて野垂れ死に掛けている姿や、黙ったままじろじろと人の事を不躾に観察していた失礼な態度とは打って変わって、非常にわかり易い模範的紳士の様なリオの振る舞いに、エルザは彼をとても礼儀正しい好青年と判断した様だった。
「ありがとう!どうぞ上がってちょうだい。あんまり広くはないけれど、気兼ねせずに。くつろいで貰って構わないわ」
エルザなら、どんな人でも助けるだろうと、オディールが1番に分かっていたけれど。何だか、腑に落ちない気持ちになる。エルザはすっかり絆されてしまった様で、リオを疑う事無く家に招き入れた。随分とご機嫌な様子で、食器棚から果実酒を取り出す。いつの間に手に入れていたのか、何本も内緒で貯えていたようで、オディールは「そんな所に隠していたのね」と思わず飽きれ声で呟いてしまう。
「歓迎するわ!さぁ、オディール!お夕飯ね!あっ、この前レイラに頂いたあれ…」
「ちょっ…エルザ、まだ」
「オディール、美味しいやつ!ごちそう作ってちょうだいね!ねぇ?いいでしょう?」
とても楽しそうに、ねっ?と繰り返す。こうなるとエルザのペースに付き合うしかない。
「愉快な老人だな」
リオは扉の前で立ち尽くすオディールに向かって静かにそう言うと、家までずっと持って来てくれた果物の入っている籠を差し出した。部屋の奥ではしゃぐエルザには見えない角度で、オディールに向けたその表情は、優雅な紳士とは程遠い悪戯っぽい不遜な青年の嘲り顔をしていたのだった。
「満足満足。うふふ、ご馳走様でした!」
果実酒のせいで少し頬が紅潮しているご機嫌な様子のエルザは、向かいで食後のお茶をゆっくり飲むリオに笑顔で話しかけた。
「オディールのご飯、美味しいでしょう?」
家に着いたのが遅かった為、予定していたはずの長時間煮込まないといけないビーツのスープはまた後日。代わりに手早く作れるトマトのパスタとコンソメスープ、鶏とレモンの香草焼き、それから果樹園の旦那さんから夕方に沢山頂いたフルーツのサラダと彩り豊かな夕餉の食卓は、エルザの要望通りに少しだけ奮発した。オディールは調理中にふと、単にエルザは嫌いなビーツを食べたくなかっただけなのかもしれないと気付いた頃にはもう遅く、こんがり焼けた鶏肉と香草の芳しい匂いを酒の肴にし、既に1本目の洋酒を空にして2本目を開封している所だった。
「はい、とても。旅中にこんな美味しい食事と、酒まで頂けるとは…本当にありがとうございます」
リオは紳士的な態度と品のある雰囲気のまま、食事中も終始和やかにエルザとの会話を楽しんでいた。花畑で飢えて転がって、剰え、大きな腹の虫が唸り声を上げていたくせに。さっきまでのオディールに対する態度との違いと言い、勿論、オディールが自分で声を掛け家まで連れて来たのだけれど。彼のその態度や読めない言動に対して、何かあるのではないかと少しだけ訝しんでしまい、家の中だと言うのに妙な所在悪さを感じたのだった。居た堪れずに、オディールはそっと席を離れ食器を片付ける為台所へ立つ。
「リオは、その、旅はいつからしているのかしら?」
エルザがそう訊ねる声がした。ふわりと、鼻腔を刺激するアルコールの香りが漂って来たのは、紅茶にお酒を垂らしたからなんだろう。いくらアルコールに強いからと言っても飲み過ぎは良くない。後で注意しようと、水を入れたやかんをコンロにかけながら、心の中で反芻するオディール。
「今回のは、半年前くらいからですね」
手際よくグラスを洗いながら、聞こえてくるエルザ達の会話にこっそり耳を澄ます。
「あら、そうなの?今回って事は、これまで何度もあるのね!」
「そうですね。俺の場合は依頼に応じて、こうして各地を旅をしているので…」
カチャリと、カップを置く音。
「祓魔師なんです、俺」
オディールはこの農村に来てからは初めて、久しく聞いていなかった祓魔師という言葉に驚いた。王都からの依頼を受けて各地の特殊事件や怪奇現象の調査、時にはその取り締まり等を行う人達を祓魔師と呼んでいた。悪霊や魔を祓うと言った元来の意味も有り、その力で長年に渡り迷宮入りしていた難事件や危険な現象をあっという間に解決してしまうらしい。まさか、リオがその祓魔師だったとは。
「凄いじゃない!まだお若いのに、立派ねぇ」
エルザの声で、食器を洗う手が止まっていた事に気が付くオディール。ガチャガチャとあまり音を立てないよう丁寧に片付けながら、エルザとリオの会話に聞き耳を立てる。
「いえ、とんでもないです。エルザさんこそ、先程オディール嬢が持っていたあの瓶の薬草…」
「あら!薬学も心得ているの?」
「職業柄、少しだけです。あの薬草、俺の住む地域ではあまり見かけない物なので」
「あれは火傷等の炎症に効くのよ。あ、そうだわ!患者さんに明日届ける分を調合するのよ、ご覧になるかしら?」
「ぜひ!」
何故だか、薬学の話で盛り上がり始めるエルザとリオ。
「オディール、ねぇ、オディール!熱い珈琲を淹れて貰えるかしら?」
エルザに呼ばれ、オディールは支度していた物を盆に乗せてから2人が談笑する食卓へと向かう。
「そうだと思ったのでもう準備しています。その前にエルザ」
はしゃぐエルザを少し宥める様に、コップ一杯の水を差し出す。
「お酒の飲み過ぎは、ダメです。それから、夜も遅いのであまりだらだらと…」
「あら、ダメよ?オディール。そんな何処かの小姑さんみたいなお小言、ねぇ?リオも思うでしょう?せっかく可愛らしいお顔なのに、年頃の娘らしく…」
「エルザ、お水」
エルザの言葉を遮るように、オディールはもう一度水を差し出す。頬が赤面しているのがわかる。少しばかり所帯臭いのは自覚していた。それもこれもエルザがこうして羽目を外し過ぎないように見張っているからであって、断じて小姑さんみたいなお小言を好きで言っているのではないと、オディールは小さく頬を膨らましながら憤慨した。
「オディール嬢はとても貞淑なお嬢さんなんですね」
「なっ…!?」
リオの思いがけない反応に、益々、顔どころか体中の温度が上がったような気がした。
「ふふっ、ね?可愛らしいでしょ?」
エルザとリオは2人してにこにこと、赤面するオディールを見て笑っていた。久しぶりの来客だからと、ついつい甘やかしてしまったけれど、やっぱりもう少し早くエルザの酔いが回るよりも先にお酒を片しておけば良かった。オディールは後悔のため息を吐きながらエルザとリオに熱い珈琲を淹れる。テーブルに追加の水とグラスを置くと、火照る頬の熱を冷ますためその場を離れた。
結局、2人は深夜遅くまで薬草とか調合の話をしていたようで、その夜は珍しく、リビングから聴こえるとても和やかな談笑を聞きながら、オディールはゆっくりと眠りに着いたのだった。