どこかの村
「エルザ、ただ今戻りました」
オディールは買ってきた食料を調理台の横にある箱の上へ置くと、部屋の真ん中にある木製の作業台に引っ付いて、何やら分厚く難解そうな書物を片手に薬の調合をする老婆に声を掛けた。
「おかえりなさい、オディール」
エルザと呼ばれた老婆は書物から顔を上げると優しい笑みを浮かべながら、その姿を見ずに聞いたら誰も老婆の声だとは気が付かない様な、掠れや吃りの無い透き通る声で、今日も元気そうに応えてくれた。
長年生きていた証の小さく刻まれた沢山の皺と、少し丸まった細身の骨張った背中。髪は全て真っ白だけど、今も大事に手入れをしていて、きちんとひとつに束ねている。毎日難しい書物と睨めっこしながら、同じくらい難しく繊細な薬の調合をしている為、視力はあんまり良くは無いそうだ。
ただ、そんな先入観と肉体的な事は気にならないくらいに、エルザは老婆だけれども、とても生命力にあふれている感じがした。
それがオディールの同居人。それから、恩人。
半年前に村の近くの森で行き倒れ掛けていたオディールを、理由も何も聞かず熱心に介抱した挙句にこうして、訳あって行く宛のなかった当時のオディールをそのまま受入れてくれた、とても優しくて、ちょっと変わった人だった。
「今日のお夕飯は何にするのかしら?」
エルザは手にしていた分厚い本を台にそっと置くと、嬉々としながらオディールが持って帰って来た食材に視線を移した。
「今日はトマトが沢山手に入ったので、ビーツと一緒に煮込んでスープにしようと思いま…」
「あら!ビーツは入れないでよぉ!」
素早い反応で、オディールの言葉を遮るエルザ。
「オディールのお料理はどれも好きよ?私が作るより美味しいもの。でも!私ってばどうしてもビーツは嫌いなのよ。わかる?あの、ぐつぐつ煮込まれた時の赤い色!嗚呼、考えただけでもう…って、オディール!言ってる傍から準備を始めないでぇ!!」
この世の終わりだと言わんばかりに、両手で顔を覆ってはさめざめと泣く大袈裟な演技を披露しながら力説するエルザ。
エルザはオディールよりも全然歳上で、言ってしまえばそもそもお婆さんのくせして、何だか時々、少女みたいにせせこましい所があった。
食べ物の好き嫌いが多い所や今日着るブラウスの色だけで朝から延々と30分も悩める所とか。近所へ出掛けても1人だとすぐ迷子になったり。難しい薬の調合は出来るのに、お料理や家事の類はからっきしダメだったり。
それでも、オディールは恩人であるエルザの事を尊敬していたし、これ以上無い程の感謝の気持ちを彼女へ抱いていた。
オディールはエルザと過ごす今の生活が好きだったのだ。
エルザは王都からだいぶ離れた、大きく複雑な森を抜けた先にある、小さな村の薬屋だった。
村の総人口は200人程。商店なんかも必要最低限有るだけの、とてもこじんまりとした質素な村だ。
村人達の多くは農業を中心に営み生計を立て、日々慎ましく生活していたのだが、数年前、村長が変わって以来、村の徴税が厳しくなったとかで、皆んなあまり贅沢な暮らしは出来ていない。更に今年は天候に恵まれず、作物の収穫量が芳しくなかった為、苦しい状態となっていた。
「エルザせんせ、こんにちは」
玄関の扉が開くと、からんからんっと鳴る軽いベルの音と共に小さな女の子が訪れて来た。
「あらまぁ!こんにちは。いつものお薬かしら?」
そう言いながら、本を読む時に使うフレームの細い眼鏡を掛けるエルザ。王都から離れた小さな農村に医者など居ない為、何かあると村人の多くは薬の調合が出来るエルザを頼って訪れた。
「お薬は…ママのお薬はまだあるから、大丈夫」
エルザの問いかけに対しそう答えると、小さな女の子はふるふると首を横に振る。オディールも何度か見かけた事のある、果樹園の旦那さんのお嬢さん。身体の弱い奥さんの為に、エルザが定期的に薬を調合しているのだ。果樹園の旦那さんは忙しい仕事の合間を縫って、御礼によく果物を持って来てくれる。その際に旦那さんの後ろについて来ていたのがこの女の子と言うわけだった。普段の来訪は果樹園の旦那さんと一緒な為、1人でエルザの元へ来るのは珍しい事だった。
「パパが…お仕事中に怪我しちゃって、塗薬をくださいって…それで来たの」
「まぁ!大変」
水色のエプロンスカートをその小さな両の手でぎゅうっと握りしめ、俯きながら涙を堪えていた女の子を椅子に座らせると、エルザは優しい表情と落ち着いた口調で、けれども的確に怪我の状態を事細かく聞き出した。オディールはその話を聞きながら、女の子とエルザに暖かいお茶を淹れる。
「それなら、お薬で治るわ!」
エルザは症状を慎重に聞き出すと、更に優しい表情を浮かべて不安そうや女の子に応える。女の子の頭をしわしわの手でそっと撫でると、慌ただしく立ち上がり、足早に薬品の保管してある棚へ向かう。
話から察するにどうやら軽度の火傷だった様でオディールはほっと胸を撫で下ろす。
「とりあえず、応急処置で…これを渡してね」
部屋の奥の、日の当たらない壁際にある薬品棚から、軟膏薬が入った掌サイズの小瓶を取り出し、エルザは笑顔で女の子に差し出した。いつもの目尻に皺が浮び上がる、彼女の優しくて安心する表情だ。
「パパに、『明日、追加の薬を届けます』って伝えてくれるかしら?」
まだ少しだけ険しい表情をしていたが、薬を受けった女の子は「うん、急いでパパに伝える」と頷くと、小瓶を両手で握り締めたまま、椅子からぴょこんっと降りて一目散に扉へ向かった。近くに居たオディールは、両手の塞がっている女の子の代わりにそっとドアノブに手を掛けて扉を開ける。
すると、くるっと扉の前で身体をエルザの方へ向けると女の子は、
「エルザせんせ、ありがとうごさいました」
ぺこっとお行儀良く頭を下げる。
「お姉ちゃんも、またね!」
近くにいたオディールを見上げてそう言うと、小瓶を大事そうに抱えて走って行った。
「あらあら、可愛らしいこと。ふふっ、走って転んだりしなければ良いのだけれど…うふふ」
口元に手を添える少女の様な仕草で、鈴の音みたいにころころと笑うエルザ。オディールが扉を閉めると、また、からんからんっとベルが鳴った。
「さてと、火傷用のお薬を調合しなくちゃ…」
エルザはゆったりした動きでブラウスの袖を丁寧に折って捲り、薬棚に保管してある材料を吟味し始めた。オディールも、そろそろ夕飯の支度を始めないといけない。エルザ同様にワンピースの袖を捲り、夕飯用のビーツを吟味する。
「あらぁ?」
薬棚の端から端、上から下までをじっくり確認するエルザ。3回程繰り返した後、ため息をついて、頬に手を当てて首を傾げる。
「どうしたんですか、エルザ?」
オディールは手に持っていた大きなビーツを調理台に置き、ため息をついているエルザの元へ駆け寄った。
「薬草、1つ切らしちゃっているわ」
薬棚の上の方には、保存用の大きな瓶が幾つか置かれている。中には摘んできた薬草や、森で採取した樹液、乾燥した木の実なんかが入っていて、薬の調合師であるエルザが管理していた。
「火傷用のは…あぁ〜。あれは確か青葉で作るんだわ。前に軟膏薬を沢山調合した時以来だっだから、すっかり材料の補充を忘れていたわ」
薬草によっては、乾燥させたり長い間保存したりで鮮度が落ちると効果が薄れてしまうものがあるらしい。そういう薬草は使う直前に、採取しに村の近くの森や花畑なんかに行く。オディールも前に、エルザに付き添って何度か薬草採取をした事があった。
「そう言えば…前回火傷薬を調合した時は一緒に採りに行ったのよね、オディールと。東の森の入口辺りの…ほら、あの辺に自生している薄紫色の大きなお花のよ」
「ああ、あの綺麗な花ですね」
「そうそう!」
「分かりました、採りに行ってきますね」
「えっ?私が行ってくるわよ、オディール」
「エルザは…家に居てください」
エルザと出掛けると目的地に辿り着くまで毎回、倍の時間がかかる。目を離すとすぐ子供の様に、ふらっと脇道へ逸れてしまうのだ。
「もし誰か、急病の患者さんがいらした時に、エルザが居ないと不安に思うかもしれないでしょう?さっきの果樹園の娘さんみたいな事もありますし」
何より、もうすぐ日が暮れる。季節は芽吹きの春。とは言えまだまだ夜は冷えるし、小さな農村故に日が沈むと、途端に辺りは闇に包まれ、視界が悪くなる。いくら元気とはいえ、おばあさんのエルザを連れ回す訳にはいかない。1度採取した事がある薬草だったのでオディール1人で事足りるはずだ。
「そぉう?じゃあお言葉に甘えて、お願いしちゃおうかしら。薬草の量はこの前と同じで構わないわ。本当に気を付けて、行ってきてちょうだいね?」
「ええ、分かりました」
オディールはいつものフード付きの外套を羽織ると、薬棚から空の瓶を1つ取って籠に入れた。ドアノブに手を掛け、扉を開ける。まだ外は明るい。これなら日が沈む前に薬草を採って帰って来られそうだ。
「それでは、行ってきますね」
エルザにそう言いながら、フードを目深に被る。
「はぁい、気を付けて行ってらっしゃい」
からんからん。
エルザの優しい声と扉に付いたベルの音を背に、オディールは足早に家を後にした。
時刻は午後4時。村の西端にあるエルザの家から薬草の生えている東の森の入口へ向かうには、小さな市場通りを真っ直ぐに抜けて行くのが1番近い。村はあまり豊かな所では無いけれど、一応農村。隣の家と家の距離感はとても広くて、どこも間に大きな畑や納屋、倉庫があるので昼間でも、殆どの家の前の通りは閑散としている。
足早に歩いて15分、ようやく村の中心部にある市場通へ辿り着く。生活雑貨の店や娯楽施設、公共機関は必要最低限しか無いけれど、採れたて新鮮な果物や野菜、乳製品等の食料品は、村の農家さん達のご好意によって、数は多くなくともこの市場通に集まって直売している為、毎日食材を手に入れることが出来る。
オディールは夕飯にビーツを出すと、恐らく文句を言いながら半分位しか食べないであろうエルザの為に、東の森へ向かう途中で市場へ寄って果物を買って行く事にした。
「御免ください、りんごを2つ頂けますか?」
「あっ!エルザせんせの、お姉ちゃん」
果物の直売店。その店先に積まれた色とりどりの果物の山の陰からぴょこんっと、先程エルザの元に訪れた果樹園の小さな娘さんが現れた。水色のエプロンスカート姿の女の子はとことこと、小さな歩幅でオディールの方へ向かってやって来る。
「ニナ、店番中だろう。お客さんに向かって失礼をしちゃいけないよ…って、あれ?何だ、エルザ先生の所の娘さんか!」
店の奥から、まだ青年の面影が残る爽やかな顔立ちの、逞しい男性が現れた。咄嗟にオディールは頭を下げる。
「パパ!」
ニナと呼ばれた女の子は、いつもエルザの元に訪ねてくる時と同様、父親の後ろにその小さな身体を隠すようにして寄り添った。つまり、この爽やかで若々しい男性が果樹園の旦那さん。
「先程はニナが突然押し掛けてしまって…本当にすいません」
「いいえ、それよりも火傷の具合は?」
「頂いた薬を塗ったらだいぶ良くなりましたよ!」
左手の甲にガーゼを当て、それを押さえるようにぐるぐると白い包帯が巻かれていた。ある程度の事情と症状は先程女の子が訪れた時に聴いて把握してはいたものの、直接会ってこうして見て、多少痛々しいが身体を動かせない様な大火傷では無かったのでオディールは一先ず安心した。
「本当に助かりました。また、妻の薬もお願いしますって、エルザ先生にも伝えてください」
毎日の農作業で褐色に焼けた肌とによく映える白い歯を見せて笑うその顔は、さっき見たこの小さな女の子の笑顔とそっくりだった。
「はい、分かりました」
「パパ!りんご!お姉ちゃん言ってたよ」
「おう!任せろ」
店先にあったビーツと同じくらい赤々とした、大きくて立派なりんごを4つ、レモンとオレンジを3つずつ、ごろんとオディールが持っていた籠に、果樹園の旦那さんは入れてくれた。
「こんなに頂けません!りんごを2つで…」
「エルザ先生、偏食家だから大変でしょう」
「えっ…」
エルザの子供みたいな好き嫌いは、村の人にも知れていた様で、オディールは何だかちょっと情けない気持ちになった。
「薬のお礼って事で、受け取ってください」
「ニナのパパの果物は美味しいんだよ、エルザせんせのお姉ちゃん」
にっこり笑顔が2つ。よく見ると目尻の垂れ下がり方も似ていた。こういう人に対する優しさの形は、親子できちんと繋がれていく物なのだ。ご好意に甘えて果物を頂くことにしたオディールは、果樹園の旦那さん達に深々と頭を下げた。
「…ありがとうございます。明日、追加のお薬届けますので…」
「いやいや、こちらこそ。エルザ先生にも宜しく伝えて下さい」
「はい、それではまた」
「お姉ちゃん、またね」
オディールは2人に向かって軽く会釈をする。ばいばーいと言う可愛らしい声に小さく手を振り、果樹園の旦那さんの直売店を後にした。村人達が行き交う小さな市場通りには、その影を伸ばしながら西へと沈む太陽の、暖かな春の夕陽が射し込んでいた。