ジオスミン
蝉騒が響く。ジリジリと高度を上げていく太陽は、人を殺さんばかりの激しさで私のいる木造平屋の屋根を焦がしていた。そろそろ火が付いてもおかしくないのではないか、そう思わせるほどの熱気に私は辟易する。まるで生命の最後の炎を燃やすかのような、そんな暑さが何日も何日も続いていた。
そもそもだ。そもそも私は夏が好きじゃなかった。あまりにコントラストの強すぎるこの季節の中にいると、決して長くはない私の半生はぼけてくすんで消えてしまうようだ。テレビに目をやるとコメンテーターが最後の夏について偉そうに話していた。
――西暦二〇XX年、夏。ついに私たちの文明は終わってしまうらしい。ある著名な天文学者によると、太陽に接近しすぎた彗星がその熱で内部の氷を溶かされ、そのまま地球に近づいてくるそうだ。彗星の水は地球の重力に引っ張られ大量の雨となって何日も何日も降り注ぎ、すべてを押し流してしまう。もう何年も前から予測されていたが、専門家たちの必死の研究も虚しく、私たちにできることは、文明を諦めて別な星に移住するとか宇宙ステーションに避難するとか、そんな現実味のかけらもないことだけになってしまったそうだ。
眼鏡のコメンテーターは言う。
「しかしですよ、いくら宇宙に逃げたからと言って地球は半年近く水害に晒され続けるわけですから、もう更地ですよ、更地。戻ってきてまた住むのは難しいんじゃないですかね。生態系もめちゃくちゃになってしまうでしょうし。やっぱり火星辺りに移住するのが得策じゃないですかねえ」
へらへらとした笑顔があまりに癪に障ってテレビの電源を切った。まるで芸能人のゴシップにでも言及するような軽口。薄情にすら思えるその発言は、安全圏にいるからこそだろうか。彼の言うとおり、地球を捨てて別な星に移住しようとする人は決して少なくない。お金のある人、地位や権力のある人はすでに移住に向けての諸々の手配を終えていて、あとはもう出発のみ、というひともかなりいる。高校のクラスメイトもすでに何人か学校に来なくなっている。きっともう星を出てしまったのだろう。
「もう、瑞香。母さん見てたんだから勝手に消さないでよ」
「あんな番組見るだけ無駄だよ。どうせ私たち、みんな死んじゃうんだから」
鞄を持って立ち上がりながら、母の顔も見ずに呟く。火星に移住が得策、なんて言っていたが、それはお金のある人の話だ。私や母のような今日を生きるのに必死な人間は、どこにも逃げ場なんて無い。この夏と、地球と、心中するだけだ。もう、またそんなこと言って、と愚痴る母の姿を肩越しに見やる。痩けた頬に白髪交じりの髪。私を女手一つでここまで育ててくれた彼女のその姿が、私は苦手だった。まるで白骨のようなその指を、深く刻まれた目尻の皺を、私を、私を産んだばかりに失ってしまったであろう未来を思う度に、申し訳なさと苦しさで押しつぶされそうになってしまう。
「私、もう学校行くから」
「ちゃんと帽子被っていくのよ。最近また気温が上がっているみたいだから」
「うん、わかってる」
なんだかまた申し訳なくなって、振り返ることもせずに生返事をして家を出る。扉を開け外に出た瞬間、あまりに凶悪な日差しが私の四肢を貫いた。アスファルトすら溶かすような灼熱。ここ数年、明らかに日差しが強くなった。大気圏のなんとかが影響しているそうだ。まだ七月頭だっていうのに、まるで真夏、いやそれ以上だ。たまらず麦わら帽子をかぶり熱から逃れようとするも、蒸し蒸した気候はどうしようもない。ぽたり、ぽたりと汗が滴る。タオルを持ってくればよかったな、と早くも後悔するけれど、ぶっきらぼうに家を出たせいでなんだか取りにも戻りづらい。気持ちの悪い汗を拭くこともできないまま、重たい足を駅に向けて進み出した。
夏は昔から好きではなかった。母子家庭故だろうか、幼い頃から私は劣等感を抱くことが多かった。煌びやかに燃えるような、激しく色づくその季節の中にいると劣等感は強まるばかりだ。くすんだ色をした半生、どうしようもなく彩度の低い人間、それが私だ。この灼熱にすら劣等感を抱いているのかも知れない。そんな感情を持ったまま私はいつの間にか高校生になっていて、このまま大人になってしまうのだとずっと思っていた。それなのに、大人になることもできずに、私は高校三年の、一番嫌いな季節に死んでしまうしかないらしい。どうして今年なんだろう。どうして夏なんだろう。せめて季節が違えばよかったのに。うだるような熱気の中、大雨に濡れ、洪水に押し流される自分を想像するとぞっとする。最期すらたいしたこともなく、私のくすんだ生は終わる。なんてひどい話なんだろう。大人にすらなれないだなんて。
いつもの路地を曲がり、改札をくぐる。快速電車の止まる最寄り駅はこの時間から人が多い。皆朝方からの暑さに苛立っているのだろうか、いつもよりもほんの少しピリピリとした空気が漂う。帽子を脱いで人の間を縫うように進むと、四番線のホーム、いつもの場所に、彼が立っていた。
「おはよう、川島」
「おはよ、杉崎くん」
私より先に私を見つけていたらしい彼は、白い歯をのぞかせながらニカッと笑った。思わず視線を逸らしてしまう。彼とはいつもこの駅で会うのだけれど、未だに会ってすぐは目を逸らしてしまう。
「今日も暑いな。まるでもう真夏みたいだ」
「そうだね。日差しが強くて大変だよ、日焼け止め塗らないと火傷みたいになっちゃいそう」
「ほんとにだなぁ。長袖着てたほうがいいかもな」
杉崎くんの斜め後ろからじっと彼を見つめる。青空を背景にすると、がっしりとしたシルエットはなおさらたくましく感じられた。私よりも頭一つ分背の高い彼。少し長めの髪に、これまた長いまつげ。その整った容姿は、顔だけ見たら女の子のようにも思えるほどだ。電車到着のアナウンスが聞こえる。ホームにいる人間たちが一斉に動き始めた。さっきは気づかなかったが、心なしか先週よりも人が少ない気がする。みな終末に向けていなくなっているのだろうか。到着した通勤快速に乗り込みながらポツリつぶやく。
「人、減ったね」
「ん? ああ、そうね。まあ仕方ないよな」
大したことでもない、とでも言わんばかりに応える杉崎くん。彼も私と同じで居残り組――地球を脱出できない仲間のはずなのに、ずいぶんと飄々としている。
「怖くないの?」
「怖くないとはいわないけど、そうね、なんていうか、もう諦めてるから」
「諦めてる、かあ」
「川島もだもんな。気持ちはわかるよ」
電車の中は冷房が効いているので外よりずっと涼しい。乗っている時間は十五分ほどだけれど、それだけでも暑さから逃れられるのはずいぶんありがたいことだ。杉崎くんは続ける。
「でもさ、もうどうしようもないじゃん。俺がいまさらどうじたばたしたところで、彗星は降るし、俺はここから出ていけない。それならもう腹くくって残りの人生楽しんでこう、みたいな」
「杉崎くんは前向きだね。私はやっぱり嫌だし怖いよ」
私の恐怖は一体何への感情なんだろう。何を恐れているんだろうか。きっとわからないまま死んでしまうんだろう。それが私なんだ。
電車は速度を上げる。東京湾に沿って走る銀色の箱から見える景色はごちゃついていて、まるで子どもの散らかしたおもちゃ箱の中に住んでいるような心地になる。太陽光を反射して光る水面はどこか寂し気で、その眩しさも相まって思わず目を細めてしまう。それを見られていたのか、杉崎くんが言う。
「ここの海、綺麗だよな。南のほうの海はもっと綺麗らしいんだけど」
「そうなんだ。南かあ、ちょっと遠そうだね」
杉崎くんは私が海を見て感動していると勘違いしたらしい。さすがにそこまでの感傷は持ち合わせていないけれど、南のほうの海というのは気になった。
「電車で二時間かからないくらいかなあ。遠いといえば遠いけど」
「そっかあ。いけない距離ではないんだね」
「よかったら行ってみない?」
「……え?」
耳を疑った。私と杉崎くんはよく電車で一緒になるだけの仲で、特に学校で話したり、ましてや一緒に出掛けたりするなんて仲ではないのだ。その彼が。
「いや、ほら。俺も一度行ってみたかったんだけど、何せ俺の友達、みんなもう来てなくってさ」
「ああ、そっか」
なるほど、と一人納得した。彼と仲の良かった友人たちは皆もう地球を出てしまったか、その準備を進めているのだろう。簡単な消去法だ。他にいないから、私に声をかけただけで。
「なるほど、そういうことなら喜んで」
「ほんと? やった。今週の土曜とかどうよ」
「うん、なるべく早いほうがいいよね。いつ彗星が来るかわからないし」
そう言って二人でくつくつと笑った。いつ死ぬかもわからないのに、先の約束をしようとしてる自分たちがおかしくてたまらなかった。そうでもしないとやってられなかったのかもしれない。そんな些細な約束を取り付けるだけで、心が軽くなったような気がした。笑いが治まるころには、ちょうど電車は学校の最寄り駅についていた。
「じゃあ、また」
教室の方向が違うので彼とはいつも改札で別れる。その際に彼が不意に振り返り言う。
「そうだ、その帽子、いいと思うよ。それじゃ」
そのまま駆け足で杉崎くんは行ってしまう。制服と合っていないんじゃないか、とひそかに気にしていたので、とてもうれしい。お世辞だとしても。太陽の下を駆けていく彼を立ち止まって見送る。この姿も遠くない未来に見られなくなるのかと思うと少し物悲しかった。
教室にはいつもホームルームギリギリにつくのだけれど、今日は十数人しか人がいなかった。もともと四十人のクラスだから半分以下に減ってしまったことになる。教室の隅では、女の子が二人ヒソヒソと話していた。
「朝の速報見た? 早くて来週には彗星が降るかもしれないって」
「早く私たちも逃げないと危ないね」
……来週? 聞いていたよりもずいぶんと早い。夏の終わりには、とは聞いていたけれど、こんなに早くになるとは思っていなかった。動揺を隠せず、教室の入り口で立ち止まってしまう。今朝の約束も、ギリギリなんじゃないか。すると担任が入ってくるなり、
「えー、今朝のニュースでみんな見たと思うんだが、彗星のことで急遽会議が開かれることになったので、申し訳ないですけど今日は休校になります。皆さん気を付けて下校してください」
と慌てた様子で言った。生徒たちは口々に文句を垂れているけど、どうせ今じゃ一日の半分は教師がいなくて自習なので、あまりいる意味もなかったからちょうどいい。学校に来る理由は、家にいたくない、ということと、登校の駅で彼に会えるから、ただそれだけだった。
私はそのまま踵を返して駅に向かう。母はまだ仕事で家にいないはずだから、帰っても鉢合わせる、ということはないだろう。校舎を出ると先ほどより幾分強まった日差しが肌を焦がした。麦わら帽をギュッっと深くかぶり、背中を丸めて歩き出す。どうしようもない虚しさが胸を突いた。終末は思っていたよりずっと近くで鎌首をもたげていた。もう少し、何かできるような気がしていたのに。ひどい気分だった。吐きそうになるのをぐっとこらえる。せめて、せめて土曜日までは。
結局翌日も学校は休みになった。きっと向こうでもいろいろもめているのだろう、授業なんてしている場合ではない。家にいても落ち着かなかったので、本屋に出かけて持て余した暇をつぶした。たいして買うものもなかったけれど、やはり本屋は落ち着く。あまり華美でない空間は、自分がいてもいいのだ、と思わせてくれるからだろうか。家に帰ると、なぜか仕事のはずの母がすでに帰っていた。
「母さん? どうしたの、こんなに早く」
「瑞香、聞いて。あなたに話さなきゃいけないことがあるの」
いつになく真面目な顔で言う母。
「どうしたの、お母さん」
「実はね、お母さんずっとあなたのためにお金を貯めてたんだけど、そのお金で何とか一人は宇宙ステーションに行けそうなのよ。私のことはいいから、瑞香、あなたがいって」
どさっ、っと音がした。持っていた買い物袋を落とした音だと気づくまでに少し時間がかかった。あまりに突然で思考が追い付かない。宇宙ステーションにいける、ということは、洪水から逃れることはできる、ということだ。洪水さえ避けられれば、そのあとはどうとでもできる可能性はある。でも、一人分?
「それ、お母さんはどうするのよ」
「お母さんのことはいいから。私はあなたが生きてくれるのが何よりなの」
「でも、それじゃお母さん」
「いいのよ。本当はもっと後で教えるつもりだったんだけど、来週にはもう彗星が来てもおかしくないらしいから、急いで出発しなきゃいけないと思って」
「そんな。母さんを置いて一人でなんて、私」
頭が割れそうに痛む。この人は、どれだけ自分の人生を犠牲にするつもりなのだろう。娘のために。私のために。私なんかのために。
「私、そんなの許せないよ」
「瑞香。お願い、言うことを聞いて」
泣いてるような、笑っているような顔で言う母。この人はいつもこうだ。こんな顔をして、私を困らせるのだ。私がこの顔に弱いと、何も言い返せないと知っているのだ。
「お母さん、私……」
「瑞香、お願いだから」
「……ごめんなさい、冷静になる時間をちょうだい」
それだけ言うのが精一杯だった。逃げ出すように部屋を出て、自分の部屋のベッドへと潜り込む。母は追いかけてはこなかった。どうすればいいのか、なんていえばいいのか、わからない。毛布の中で丸まって、膝を抱え込んだ。お母さん。私は。
……夢を見ていた。小さい頃の夢だ。私と、母と、父の三人で手をつないで道を歩いている。父の顔はぼやけているけれど、それでもなぜか父だとははっきりわかった。三人は仲睦まじく歩いていたのだけれど、突然父が手を離して消えてしまう。母の顔から笑顔が消えた。しゃがみ込み、私を強く強く抱きしめる母。そしていつもの泣き笑いの顔をした。ああ、お母さん。あなたはずっとそうして一人で、私を――。
目を覚ますと、夜中だった。ベッドから体を起こし、居間にいくと、母が机に突っ伏したまま眠っていた。その後ろ姿は、いつも見ているよりもずっと小さく、細く見えた。私のために、どれだけの苦労をこの小さな背中に背負ってきてくれたのだろう。彗星に対して感じていた恐怖、その正体がようやくつかめた。私が恐れていたのは、自分ではなく、母の人生を奪い去られてしまうことだ。私が奪ってしまったこれまでの人生だけでなく、この先の人生もずっと失くしてしまうのが、たまらなく苦しい。部屋から運んできた毛布をそっと掛ける。
「ごめんね、お母さん」
声になったかわからないくらいの声でつぶやく。ごめん、私、きっといけない。
翌日。私は母に
「決心が決まった。土曜に出発したい」
と告げた。学校は今日から再開する予定だったので、朝の短い時間での会話だったけど、母はずいぶんと安心したような顔をしていた。その顔を直視することができず、ごめん、急ぐから、と言って半ば振り切るように家を出る。ますます強まった日差しを恨めしく思いながら駅への道をとぼとぼ歩いた。迫る終末。ますます人通りは減って見えた。
改札をくぐると、なおさら顕著に人が減っていた。もういつ彗星が来てもおかしくないのだから、残っているのは逃げ場のない人たちばかりなのだろう。階段を上ってホームにでると、いつもの場所に彼がいた。
「ひさしぶり、川島」
「昨日会ってないだけだよ、杉崎くん」
「そうだっけ? 学校がないと一日が長くってさ」
変わらず軽口を叩く杉崎くん。彼はなにがあっても、たとえ地球が四角だったとしても何も変わらないのではないのだろうか。
「杉崎くん、明後日の土曜のことなんだけどさ」
「うん?」
小首をかしげる彼。まるで小動物みたいな仕草だ。
「出発、朝早くても大丈夫?」
「あー、全然かまわんよ。どうせ暇だし」
「よかった、ありがとう」
電車到着のアナウンスが響く。ついた電車にも、人の姿はほとんどなかった。
「もうみんないなくなってるんだなあ。いよいよ終末、って感じがしてきたな」
「ほんとにね。土曜になるころなんて私たち二人だけかもよ?」
「十分あり得る話だなあ。貸し切り電車ってのも楽しそうでいいけど」
二人で顔を見合わせて笑い出す。車両に人はいない。私たち二人だけが、この銀色の箱に揺られ笑っていた。
結局学校は今日が最後の登校日、ということになった。先生たちもみな避難してしまったらしい。雲一つない青空の帰り道。電車では一人きりだった。本当に、本当にもうこの星はだめなのだろうな、という実感がいやがおうにもわいてくる。しかし先日までの恐怖は、今ではもうなくなっていた。これでいいんだ。これが彼の言っていた諦めだろうか。彼の物とは少し違うような気もする。東京湾が反射する光が、電車の天井に得も言われぬ波紋を描いていた。
土曜、早朝。母はまだ眠っているようだ。昨日荷造りを済ませた後、昼過ぎにはステーションから迎えが来る、と母に言われた。だからそれよりも前に家を出て、母には書置きを残しておく。内容は簡単だ。私の代わりに母にステーションに行ってほしいということ、そして別れの言葉。荷物は家に置いたまま、麦わら帽だけをもって家を出た。ごめんなさい、とぽつりつぶやく。どうか、幸せになって、とも。
案の定、街にもホームにも誰もいなかった。彼を除いて。彼はもちろんいつもの制服ではなく、黒のスキニーにカットソー、デニムシャツといった出で立ちで、少し照れ臭そうにいつもの場所に立っていた。
「普段制服ばっかだから、なんか緊張するな」
それはとても彼の口から出たとは思えないセリフだった。終末だから、だろうか。なんだかうれしくて、思わず笑ってしまった。
電車のボックス席に向かい合って座る。だんだんとスピードを上げる電車。最初は学校のことだとかテレビの話だとかくだらない雑談を繰り返していたけれど、気が付くと私は、母の話を始めていた。
「どうしても、私、母さんを置いていくなんてできなくて。それで、私」
杉崎くんは最初は驚いたような顔をしていたけど、なるほどなあ、とつぶやくと、そのあとは真剣な表情で話を聞いてくれた。
「川島がそうしたかったんなら、それでいいんじゃないか。俺は川島の母さんとは話したこともないし、何も言えることはないよ」
と、頬杖をついて窓の外を眺めながら独り言のように彼は言う。彼は私が欲しているのが慰めでも同情でもないことを知っているのだ。
「うん。ありがとう」
私も外を見ながら、ぽつりとつぶやく。そのあとはお互い、終点まで口を開くこともなかった。
たどり着いた海は、想像していたよりもずっと素晴らしい景色だった。
陽を受けた水面はガラス片をまき散らしたかのように煌めく。瑠璃色に輝くそれは光を孕ませ花びらのような文様を浮かばせていた。眩暈がするほどの景色に、私たちは大声で笑い出した。誰もいない海岸に二人の声だけが響き渡る。そのまま砂浜に倒れこみ空を見上げると、ステーションがはるか遠く、空と宇宙の境を超えて飛び立とうとしているのがちょうどうかがえた。
「ほんとならお前、あれに乗ってるはずだったのにな」
左隣から杉崎くんが言う。
「うん。でもいいんだ。私がいなければ、きっと母さんは迎えに連れていかれて無事に乗せられてると思うから」
「うん、うん。お前がいいんならそれでいいんだろうな」
その言い方がなんだか不思議で、私たち二人はまた笑い出した。遠く、遠くの空を見やる。洗い立てのような雲に、青い、青い空。その平穏を引き裂くように、唐突に、それは現れた。
「あれ、彗星?」
杉崎くんが、ぽつり。
「予想されてたよりずっと早いね」
私も、ぽつりつぶやく。
「嘘みたいな大きさだなあ。嘘みたいな光景だし、もしかして全部夢なんじゃないか?」
確かに、目の前の光景はあまりに現実味がなく、まるで夢の景色のように、綺麗だった。
「これで夜だったら、まさに星降る夜って感じだったのになあ。」
彗星は尾を長く長くたなびかせ、青く輝くそれは真昼の空を半球にわたって引き裂いていた。
「ほんとにね。冗談言ってる場合じゃないんだけど」
そういえば、週末に終末なのか、なんてくだらないことも思いついたけど言うのをやめた。目の前の光景があんまりに御伽噺じみていて、とてもじゃないけど軽口を言えるような雰囲気じゃなかった。
これから長い長い雨が降る。この星の生き物すべてを、文明を、緑を、何もかもを洗い流すその雨は数十日にわたって降り注ぎ、雨が止んだのちも濁流となってすべてを押し流す。そういえば、夏にも一つだけ好きなものがあったことを思い出す。夕立の土砂降りの後、雨が止んだ直後のあの何とも言えないにおい、あの瞬間だけ私は夏の中に取り残されずにすんだような心地がしてうれしかったのだ。
「杉崎くん」
「ん?」
「誘ってくれてありがとね」
つぶやいた言葉の返事は、降り始めた雨の音に掻き消され私までは届かなかった。唐突に始まった土砂降り、雨音が耳を打つ。私は瞳を閉じた。母がもしこの星に戻ってきたら、あの雨上がりのにおいをまた嗅ぐのだろうか。ああ、よかった。胸がいっぱいになる。こういった末路を望んでいたのかもしれない。微睡む意識の中、私は出会いえぬ雨上がりを思った。