その名前の意味を、まだ知らなかった②
その名前の意味を、まだ知らなかった②
どうしてこんなことになったのか、レキはぼんやりと思う。
村を出る前は自分一人ですべてが抱えきれると本気で信じていた。
自分には、その自信にふさわしいほどの力があると思いこんでいた。
今から思えば、あれを生意気と言わずにして何を指すのかというくらい態度のでかい子供だった。これで口も達者なら、まだその弁で周囲を言いくるめることもできただろうが、多少の剣の腕と身軽さ以外に特筆すべき能力はなかった。
そして狭量な考えに捕らわれていた子供は、周囲の大人の言うことに耳を貸さなかった。
そのまま、村の大人たちが止めるのも聞かず、剣一本で飛び出した。
力が欲しかった。
二年前、麓の町が焼き尽くされて幾人もの顔見知りを失った。自然災害ではない。いや、ある意味では災害に分類されるだろう。町を襲ったのは人でも群れをなした獣でもなく、化け物だった。
そんな存在を相手に自分が誇っていた剣術など何の役にも立たなかった。それ以前に、彼の生まれた村は山間にあったため、町が焼けたことを知ったのが遅く、化け物が出たというのも伝聞でしか知らない。
化け物の正体も、姿も、何もかもがあいまいで、誰に話を聞いても、とにかく人間ではなかったとしかわからなかった。
それでも、瓦礫を片付けるために町へ入った子供は何もできなかった自分に心底嫌気がさしていた。亡くなった者たちを弔ったあと、年齢特有の潔癖さも手伝って若さにありがちな勢いと衝動のままに行動を起こしたのだ。
子供、レキには剣の才能があった。村どころか、麓の町でも一目置かれるほどの実力者。年上でも相手になる者はいなかった。
それでも、真に守りたいものの前ではその程度の力など、紙でできた盾のようなものだ。何の役にも立ちはしない。
だが本当の意味で自分自身の存在なんて大したことはないと突きつけられるのはこのあとだった。
暴風のように死と血をばらまいた侵入者は立ち去った。
自分が路傍の石以下でしかないと突きつけられた子供は、村を出てから少しばかり背は伸びて体格もよくなったが、爆発的に何かが変わったわけではない。
それでもいつまでも倒れているわけにもいかない。血が乾くこともなくたまりつづけ、嗅覚はすでにマヒしていた。
レキは死者ばかりになった部屋から少女を連れ出した。少女を救えなかった手で彼女に触れるのはためらわれたが、わずかに上下する胸を見て安堵すると同時にこのまま置き去りにはできないと考えた。直接触れないよう、毛布にくるんで抱き上げ屋敷から脱出した。
屋敷から少女が連れてこられた村までは道があったので夜の闇でも迷うことなく進んで来られた。迷う必要もない道程が、逆に足を重くさせた。
仕方なく、少しでも歩みを遅くするために考えを巡らせる。
十七の自分よりも幼い少女がもてあそばれた理由は、よくある不幸から始まる。
少女の住む村エイシアはノードの南東部に位置しているが、あまりにも行政機構が置かれた都から離れているため実質は領主が施政を行っている。問題は、近年代替わりした領主だった。着任するなり満足な調査も行わず、税だけはそれまでの倍近くまで引き上げたのだ。
エイシア一帯の気候は安定しているが、言い換えればそれだけしか利点がない土地だ。真冬でもない限り、屋外で野宿しても凍死する危険はないが、農作物の実りは豊かとまでは行かず、特産物もなければ観光資源もない。近くにベルネという街道筋にできた巨大な街は存在するが、エイシアに向かって街道は通っていない。自然と人と物の流れから外れ、村は年々さびれていく一方だった。
そんな、贅沢という言葉が死滅した貧村に着任した領主は地元の事情などお構いなしに、自分の生活水準を引き上げるためだけに税を上げたのだ。
徴収する税の額は国によって決められているが、実際に村からどれだけ徴収されたかまでは調べられることはない。定められた額さえ収められていれば、まさかその倍ほども徴収しているとは誰も考えない。
領主は村民の言葉には耳を貸さず、税をかき集めた。そうやって、豪勢な生活をするだけでは飽きたらず、放蕩生活に溺れる者の特徴として、女漁りにも精を出したのだ。人妻だろうと年端の行かない少女だろうとお構いなしに側室という名目で抱え上げ、散々もてあそんだ挙げ句、飽きたら捨てる。
抵抗しようにも屋敷には常に何人もの傭兵が詰めていて、農機具以外に武器を持たず、長い間貧しい生活を送ってきたエイシアや周辺地域の村民には為す術がない。しかも村民たちは貧困生活を強いられていたため何事にもあきらめが早かった。堪え忍ぶと言うほどの美徳でもなく、ただ下を向いて嵐が過ぎるのを待つように領主の乱行をまるで他人事のように眺めているだけ。それでも当初は領主の横暴に上役である次官に訴えたが、次官もまた領主と癒着しており、訴えは退けられた。
領主の収める村はエイシアだけではない。黙って耐えていれば、増税云々は別にしても、実質被害が降りかかるのは年に一度あるかないか。
そうやって、今年は十四の娘が生け贄として差し出された。
明け方近くに少女を抱きかかえて村にやってきたレキに対し、村人の反応は一言で表せば困惑だった。
現れたのが村に散々横柄な態度を取っていた領主や、その部下として雇われているならず者たちならまだ対応のしようもあったが、先日連れて行かれた少女を抱えていたのは見知らぬ男。しかも全身が返り血で赤く染まっていた。
青年と呼ぶにはまだ顔つきに幼さの残る男の扱いに迷いながらも、ひとまず攻撃する意思がないことを確認してから迎え入れた。
レキは少女を彼女の親に渡したあと、すべてを話した。昨晩、この村落一帯に圧政と略奪を繰り返していた寄生領主が死んだ、いや、殺されたことを。
その事実は、夜が明けきる前に村中に広まる。すぐに村の若手が数名、領主の屋敷へ走り血潮に沈む領主の亡骸を確認した。
ことがことだけに、偵察に行った男たちでは判断が付かず、彼らは一度村まで戻ってきた。混乱は深まるばかりだったが、それでもひとつだけはっきりしていることがある。
自分たちを不当におとしめていた者の死と、突然の解放。
じわじわと喜びが満ちる中、レキは全身を汚す血を洗う水も与えられないままただ座りこんでいた。余所者に居場所はない。だが出て行く機会を逃していると、急に突き飛ばされた。
そこには、血走った目をして自分を取り囲む村人たちがいた。喜びと同時に、それまでふたをしてきた怒りが爆発したのだ。だが領主と手下は全員死亡。屋敷に残っていたのは下働きの女中や老いた庭師だけ。
行き場を失った怒りの矛先は、吉報を持ってきたレキへ向かった。
レキは数人の男たちに囲まれ、突き飛ばされ、縛り上げられた。硬い縄がむき出しの腕に食い込んで痛かったが、上半身をこれでもかと念入りに縄が巻かれているためどうすることもできない。ただ自分の頭上で交わされる会話を聞き流し、倒れているだけ。
逆にそのおとなしさが周囲には不可解に映ったらしく、最初の勢いはすでに収まりかけていた。それでも後に引けなかったのか、縄にかけられたレキは村の中央部にある広場まで引きずられていった。
自分をどうするのか相談している大人たちのかたわらで、レキは呆然としていた。遠巻きに女や子供たちが自分を見て、何かを口にしては足早に立ち去る。あるいは別の大人に叱られて散って行く。
(……死ぬのか?)
ぼんやりとレキはそう思ったが、自分のことなのにまるで他人事のような気分だった。
しばらくすると話が付いたのか、男の一人がレキの前に歩み出ると、力無く顔を地面につけたままの彼の姿をつま先から上へと視線でたどる。
「まだ子供じゃないか」
それは近くにいるレキにしか聞こえないほどの小さな声だった。けどよ、と男は何かを振り払うように顔を振る。
「俺たちだって、今さらおまえ一人を殺したところで何も変わらないってわかってるんだ。けどよ……何かしないと、もう、収まりがつかないんだ」
男は縄の端をつかむと、荷物のようにレキを引きずる。砂や小石がむき出しの腕にこすれて擦り傷ができたが、痛いとは思ってもどこか遠くに感じた。
これから自分がどうなるのか、想像はついても感覚が切り離されたように麻痺してしまっていたのだ。
「何してるのさ」
声にざわりと人並みが揺れた。割れた人の間から見えたのは漆黒に揺れる布。声の主は闇色の流れを伴って動き、それに合わせて集まっていた村人が背中を後ろから引っ張られるようにして道を開ける。
たった一声で場を止めた存在は人の群れをかき分けて侵入してくる。
「あ……」
レキは近づいてくる存在を視界に入れた途端、肩を震わせる。
漆黒のマントをひるがえし、反対に輝く金髪を揺らめかせて歩く存在は、彼にとっては救い主であり、同時に畏怖の対象だった。
そこにいたのは昨晩、銃を乱射して領主を殺した侵入者だった。
だが彼を知っていたのはレキだけではなかったらしい。何人かが驚いた顔をしている。
「あ、あんた。まだこのあたりにいたのか!」
「どのあたりでも、僕がどこにいようと勝手だよ」
それより、とその人は言葉を切ると倒れ伏したままのレキを見下ろす。
「何なのこの騒ぎは。僕の勘違いでなかったら、今からそいつを締め上げようとしているように見えるけど」
見えるも何も、実際問題、すでにレキは縛り上げられている。
「あんたには関係ない。余所者はさっさと出て行ってくれ!」
不満の声がそこかしこから上がるが、面と向かって文句を言える者は一人もいない。それもそうだろう。私刑、民衆の勝手な判断で罪を裁き、私情で処罰することは厳禁されている。そんな真似をしたことが執政官の知るところになれば、関わった者たち全員が処罰を受ける。場合によっては村ひとつが対象となり、増税や労役などが課せられる。それだけ個人で他者の罪を裁くことは許されざる行為と定義されていた。
例え目撃者が通りすがりの旅人とはいえ、どんな経緯でお上の耳に入るかわからない。それでなくとも、執政官からこの地方を任されていた領主が殺害されたのだ、放っておいても近日中に異常を察した役人が飛んでくるだろう。私刑を行うなら、まだ、お上が現状に気づいていない今しかない。だが現場を見られてしまった以上、このまま強行することもできなかった。
旅人はすっかり固まってしまった村民をつまらなさそうに見渡す。
「確かに僕は余所者だ。でも関係なくはないよ。だって、昨日、僕は人をたくさん殺してきたからね」
唐突な告白に村人たちは一様に旅人に視線を向ける。当人は注目を受けてもまったく気にした様子もない。
「なんかさ、昨日は困ってたでしょ。領主に娘を連れて行かれたって、奴の横暴にはもう我慢できないって、そこの君たちが散々ぼやいていたじゃない」
旅人は向こうの方でひとかたまりになっている男たちを示す。彼らは急に話題に出されてうろたえるが、言い訳を叫ぶ前に続きが語られる。
「だから、その原因になっている人間たちを僕が殺した」
こいつが、と声が上がる。旅人はざわつく村人を素っ気なく見渡す。いったい何のために、という悲鳴じみた声にうっとおしそうに眉を跳ね上げた。
「こう言うと死んだ人たちには悪いけどさ。ただの暇つぶしだよ。何だかものすごくイライラして、無性に何かに当たりたくてしょうがなかった。その時、君たちは悪徳領主とその一味がこつんと頭でも打って死ねばいいなんて話していたじゃない。だから僕は、領主の頭をこいつで撃ち抜いた」
旅人は、太股のあたりに吊してあるホルスターから銀色の塊を取り出す。
だが見せつけるように掲げられても、それが拳銃で、人を殺傷する能力のある武器だと理解できた人間はいなかったらしく皆が顔をしかめる。
ざわめきが収まらない中、少し年かさの男が一歩前に出てきた。
「……よくはわからんが、あんたがこの村の恩人なのはわかった。けど、俺たちは別に、あんたに頼んだ訳じゃないんだ。悪いが謝礼目当てなら何も出せないぞ」
「大丈夫だよ。僕もこんなひなびた村から金品を巻き上げようなんて思ってないから。僕が気にしてるのは、そこに倒れているやつだよ」
旅人は銃を携えたまま、逆の手でレキを指さす。
「そいつ、僕が助けたんだ。いや、殺さなかっただけなんだけど」
「……見逃したって言うのか?」
「そうとも言えるね」
「っ、こいつはあの領主の仲間なんだ。生かしておけるか!」
その叫びを合図に次々と罵声が周囲を震わせる。一人一人が何を叫んでいるのか聞き取れないほどの声量の中には呪詛じみた重い言葉が連なる。次々と被害にあった者たちが自分達の窮状を叫び、罵りの声を上げた。
悲痛な叫び。聞いた者が耳をふさぎたくなるような内容が列挙されるが、旅人は何の反応も示さなかった。しばらく叫びたいだけ叫ばせておいてから、少し静かになったあとで微塵も表情が動いていない顔を上げた。
「ま、僕には関係ないことだよ。それに、その問題の領主はもういないんだから、不平不満を漏らしてないで畑でも耕してくれば?」
旅人はさもどうでもよさそうに笑いながら、起き上がれないままのレキの側まで歩み寄ってくる。
「でもさ、こいつは僕が助けたんだ。勝手に殺さないでくれる」
「待て。俺たちにはこいつに復讐する権利があるんだ」
男は叫ぶ。旅人は足を止めたが、男の必死な様子に気圧されたわけでもなく、さもおかしいとばかりにくすりと笑う。
「復讐する権利? 農民のくせに難しい言葉を知ってるね。でもさ、君たちにそんな大それた真似をする権利とやらがあると本当に思ってる?」
言って、旅人はくつくつと喉を鳴らして笑う。
「君たちは自分に被害がかかるのを恐れて娘を差し出し、横暴な税の取り立てにも目をつぶってきた。そうやってすべてをあきらめておいて、今さらこいつに仕返しするわけ」
旅人はそういって周囲にいる者たち一人一人に視線を合わせるが、誰もが鋭い輝きを見せる蒼緑の瞳に見据えられた途端に顔をそむけた。
「そもそも、復讐する対象は領主だろう。いまさら手下の一人を殺して何になるのさ。その勢いをもっと前に出しておけば、あの娘は助かっただろうに」
何もかも、遅いんだよ。旅人はそう言って笑った。
悪意を露わにした笑いだった。
途端、村民の中で怒声が爆発する。口々に上る不平不満や罵声を相変わらず旅人は聞き流し、眠そうな顔をする。
「地にへばりついてる農民の気持ちなんて僕には理解できないし、するつもりもないよ。それに、復讐を止めるつもりもない。やりたいなら勝手にすればいい。でも憎しみを向ける方向が間違ってるんだ」
旅人はレキの傍らにしゃがみこむと縄の端をつかんで一気に肩まで持ち上げる。レキは一瞬で視界の位置が変わったことに驚き、不安定な状態に身体を強張らせたが、持ち上げている当人は平然としたものだ。決して小柄とは言えない身体を肩に担いでいるのに揺らぎもしない。
「さっきも言ったけど、こいつは僕が助けたんだ。だからここで死なせたくはないからもらっていくね」
言って、旅人は銃口を村人へ向ける。だが拳銃という武器を知らず、当然その威力を理解できない村民はぽかんと目と口を丸くしているだけ。
「君たちも、あの領主みたいに殺されたい?」
向けられている鋼の器物は理解できなくとも、言葉の意味は通じた。