「ついてこないで」
どれほど叫んでいたのか。
暗雲の切れ間から、弱々しい陽光が射しこむ。大陽はそれほど傾いてはいない。長いようだったがあまり時間は経っていなかったのかも知れない。
ぴたりとジクスは叫ぶのをやめた。
途中で途切れた叫びに、さすがにレキもいぶかしげな顔になる。様子を確かめようと前に回って顔を見た途端、レキは肩を震わせる。
暗くて沈んだ眼差し。そのくせ、どこも見ていないような焦点の合っていない虚ろな瞳がレキの姿をただ映していた。
レキは自身の姿を視界に入れているだけで眼前の光景を何も見ていないジクスの様に、背筋に寒気が走るのを感じた。重苦しい気分で喉を絞められたように黙っていると、不意に彼は動くこと思い出したのか、瞬きをしてようやくレキを見た。
「ついてこないで」
素早く言いきると、ジクスはレキの手を取ってその中に首飾りと宝石を握りこませると、
そのまま横をすり抜けて駆け出した。
「あっ、おいジクス」
振り返ったレキは驚愕する。先ほどトリトスの屋敷へ向かって駆けていたのとはまるで違う速さで駆け、瓦礫の上に跳躍してその向こうに姿を消すジクスにレキは二の句が継げない。一歩が飛ぶ鳥のような速度で瞬く間に姿が見えなくなる。
待てと言って待つやつでないことは知っていたが、あまりに唐突過ぎた。どうすると迷っている間に互いの距離は開いて行く。しかもジクスは再び炎に飲まれた市街の方へ走っていった。
ちくしょう、と口中でうなるとレキは手の中の物品を懐に入れ、落とさないよう再度確認してからジクスの後を追って走りだす。
「だから、離れるなよ」
走り出したあとでひとまず傭兵ギルドに戻る手もあると思った。あそこなら色々と情報も集まるし、伝言板もある。ジクスもレキがそこを拠点に動く程度のことは想像するだろう。
だがレキは釈然としなかった。ジクスが戻ってこない可能性を危惧しているのではない。急変した様子に納得がいかなかったのだ。
ジクスは何かに気がついたのだろう。だが走り出した姿は、意思とは半ば無関係に目的へ向かって飛んでいったように思えた。トリトスを探しに向かっていた時とは逆の、感情のない行動に見えたのだ。
「何だ……何がこの先にあるっていうんだ」
火に包まれた家屋が限界に達し、柱が折れて倒れてくる。火の粉をまき上げる崩壊は連鎖的に続き、レキは地を震わせる轟音と目に突き刺さる熱に彩られていく町並みの様相に世界に亀裂が生じていくような気がした。そのただ中に姿を消したジクスにやりきれない気持ちを覚えて唇をかむ。
レキも追う足を速めたが、その距離はいっこうに縮まない。しかもジクスは瓦礫も炎も意に介さず真っ直ぐ突き進むが、レキはそうもいかない。そこらにガラス片や釘がレキの足裏を刺し貫こうと構え、炎が飛びこんでこいとばかりに目の前に広がる。
そうやって何度も迂回し、その度に金色の頭を探して走り回った。ついには見失ってしまい、引き返そうにも退路すら炎にさえぎられたレキは崩れて滑り落ちた家屋の屋根に登る。それだけの高低で、周囲がよく見渡せた。つまりそれだけ他の高い建築物が軒並み崩壊したことを示しているのだが、いまのレキにそこまで想像を巡らせる余裕はない。瓦礫の連なる街路の向こうに金髪と黒いマントがひるがえる様を見つけることに必死だった。
レキのとっさの判断は正しく、煙の合間に金と黒の色彩がのぞいた。
どうやらジクスが立っている場所が目的地らしく、足は止まっていた。まだ距離はあったが見つけられたことに安堵の息を吐き、同時に相方のあまりにも唐突な行動に舌打ちしたい気分だった。発作的に自殺でも計り、わざわざ自分から炎の中に飛びこんだのかと思ったくらいだ。
レキはもうどうにでもなれという心境で屋根から滑り降りそこを目指した。
ジクスは別に、急に死にたくなって走り出したわけではない。
感じたから。
それだけしか言えなかった。
「見つけたよ」
足を止めた場所は家屋のない空白地帯となっていた。いや、何もないように見えて、足下には何かがあった形跡がありありと残っている。家屋の基礎や石畳がこっそりと隠れるようにして点在していた。
街のひと区画に相当する空間は、空白部分を縁取るように周囲に瓦礫が積み上がっている。砂の山を手で無理矢理押し上げたような格好だ。
もっと高所から見下ろせば、この広場を中心に外側に向かって放射状に街の破壊が広がっているのが見て取れただろう。ぽっかりと空いたそこは、全体が巨大な目のように空をあおぐ。
その視線が見据えているのは何なのか。
神か、あるいは。
「何やってるのかって、聞くだけ愚問か」
ジクスは鼻で笑う。広場に立っていたのは彼だけではない。
しかしそれを人と呼んで良いのかどうかはわかりかねた。
ジクスは数歩の距離をはさんでそれと相対する。会話をするには遠いが、ジクスの表情には嫌悪感が浮かび、むしろそれ以上近づきたくないと全身で主張していた。
空白地帯の中心にいる存在はかろうじて人に似た形状をしていたが、石から削りだしたようにすべてが白い。だが性質は岩や砂ではなく、ゆらゆらと表面が波打っている。そこに生きている人間の質感や熱は感じられない。
造形としては髪の長い女のようだったが、どうにものっぺりとしていて、どこにも特徴的なものがない。表面が終始、波打って形を変えていた。髪の毛の部分は溶ける蝋のようにうごめいている。
蝋人形は若い娘を連れていた。いや、首に片手をかけて持ち上げている。娘の身体は力なく垂れ、生きているのかもわからない。
怪我人を運ぶにはあまりにも乱暴な扱いだ。
ジクスが不機嫌さを隠さずに黙って眉根を寄せていると、蝋人形は震えた。細かく震動し裂けた。
胸や背、体中のあらゆる部分から、触手か翼に似たものを幾つも突き出す。さわさわと風に揺れる梢のようにざわめかせていたが、不意に突風を浴びた勢いでつかんでいた娘に先端を突き立てた。
娘の身体がびくりと跳ねる。
生きていたらしく、目を見開いて自分の身に起こったことを確かめようとする。自身を刺し貫くものには気づいたが、どうすることもできず、驚愕の表情を浮かべたまま苦悶し身もだえする。手を溺れる人間のように伸ばし、足をばたつかせるが、押さえ込む腕の方が強い。
次第に、娘は動かなくなった。
皮膚から水分が失われ、目が乾いて落ち込む。触手から突き立った部分から肌から水気が失われて乾燥し、その上を透明感のある結晶が覆う。そうやって全身が結晶に覆われ、不可思議な彫像に変化すると今度は身体の数ヶ所が裂け、内部から透明感のある鉱物がいくつも突き出した。そして水晶柱に押し出されて内部から濁った色をした液体が流れ出す。
肉の色をした体液が地面にしみこみ、やがて娘の身体は砕けた。
汚らしい色の液体に、ガラスか陶器のような破片が落ちる。
「……ふぅん、そうやって食うんだ」
ジクスはその一部始終を見ていた。顔色ひとつ変えることなく。
そうやってすべてが終わると、ジクスは微笑むこともせず蝋人形に一歩ずつ歩み寄る。
「初めましてとでも挨拶した方がいいかな。ねえ、兄弟」
無表情なジクスに対し、蝋人形もまた、なんの感情も読めない顔をしている。もっとも、粘土をこねてとりあえず目鼻を単純に作っただけの造作。笑っていようが怒っていようが、大差なかっただろう。
「お仕事ご苦労様。選別の終わった区域を根こそぎ処分するなんて、なかなか徹底しているね」
相手は答えない。口は開くのかもわからない。
だが、声はした。
「ーーーどういうことだ?」
蝋人形からではない。声のした方にジクスが振り返ると、そこにレキが立っていた。