64 虚無の町⑱
「そこまでです。蠅の王」
空中の穴から湧き出るかのように光があふれたかと思うと、その輝きが人の、いや女性の形をとる。まるで光が質量を与えられたかの如く見覚えのある女性が出現する。その女性は
銀髪で見ただけで思わず安心してしまう雰囲気を持っていた。彼女が現れた瞬間蠅の王が発した重苦しいプレッシャーから解放されたようだ。
「第四位天使、ガブリエール・・・」
俺はその女性の名を口にする。彼女はこちらを見てほほえみ、優しく、それも蠅の王のものとは明らかに違う声で語りだした。
「久しぶりですね。・・・ここでの名はトキワ、でしたか。あなたを助けに、そしてこの者を異界へ送り出しに来ました」
殺気をはらんだ目で蠅の王がガブリエールを睨む。
「やはりガブリエール、貴方が来ましたか。思ったよりも早かったですね。」
「ええ。ベルゼブブ、あなたに彼を殺させるわけにはいきません。即刻異界へお帰りなさい」
ガブリエールの言葉に反応するように蠅の王の殺気が膨らんでいく。護衛の蠅たちもすさまじい勢いで辺りを飛び回っている。
「ほう・・・見たところお一人のようですが、それでも私と戦うおつもりですか?舐められたものですね」
先ほど解放されたプレッシャーに再び押しつぶされる。明らかに蠅の王の殺気が先ほどとは比べ物にならないほど高まっている。
「もちろん、『蠅の王』と一人で戦うつもりはありません。私が合図すれば天界の使徒たちがこちらへやってきます。しかし、私たち異界の者たちがこの世界に来るのは好ましくありません。ですのでここは私一人があなたと『交渉』しに来ました。」
「なるほど、戦争する気は無いということですね」
「はい。私たちは何もあなた方と敵対したいわけではありません。私たちはあくまで世界の調和を保つことが目的ですから」
「ふふふ。それが我々地界の者と相容れないことは貴方たちも知っているでしょうに。仕方がない、ここは引きましょう。今貴方たちと戦争するデメリットは大きすぎる。貴方に免じてこの4人だけは見逃しましょう。その代わり、この町の住人はもう私の物です。」
苦々しくガブリエールが頷く。
「・・・分かりました。さあ、疾く去りなさい」
「去る前に一つだけ。そこの貴方、トキワでしたね。貴方に興味が沸きました。ここは引きますが、必ず私の物にして見せます」
そう言って蠅の王の目が怪しく光ったかと思うといつの間にか俺の腕に真珠色のブレスレットがはまっていた。
「その腕輪には私の魔力が込めてあります。貴方が私の力を欲したとき、その腕輪に念じなさい。貴方の力になりましょう。その願いに応じて貴方の力を渡してもらいますがね」
そう言って蠅の王がその虹色の羽を震わせると、それが合図になっていたかのように外で歩いている人々からおびただしい数の蠅たちが、まるで人の皮を紙のように突き破って一斉に湧き出してきた。
「ぅっ、・・・」
あまりのおぞましさに吐き気を催さずにはいられない。悪夢のような光景は長くは続かず、気が付くと嘘のように蠅も、そして町の人々も消えていた。
ブンブンと煩いほどの翅の音が消え、町から生き物の気配が消え静寂が辺りを包み込む。その中でサンバムさんの嗚咽が俺には町が哭いているように聞こえた。つい先ほどまでこの町に在った歴史、愛情、憎悪、喧噪、道徳、諍い、恋、善き物も、悪しき物もすべてがたった一柱の悪魔によって跡形もなく奪われてしまった。