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彼を発見するのはいつだって人間だった。もっとも、彼から言わせれば同じ人間とはいえども、彼を発見する人間の差異はまるで違うものだった。人の形をしたものであるという認識と態度はひとまずのところ取っているにせよ、やはり同種であるとは形容しがたい。もし彼を発見するところの人間がお互いに身なりを見合ったのであれば言うまでもなく、そして疑問を呈することもなく同じ人間であるということは議論の余地はない。彼は不思議に、いつだって思っている。人間以外のものに発見されたいと。彼の欲求はそういった方向に向いている。それだけだった。しかし、来る日も来る日も(彼の時間認識感覚であえて言うのであれば定常的時間軸における超越と瓦解が繰り返される度に)彼を発見するのは人間的なものだった。これには彼も降参するしかなかった。もう認めるしかないようだ、ということを。私は人間にしか見ることの出来ない存在なのだ、と。しかしその実まだまだ人間以外のものに思いを寄せているのがお茶目なところである。そんな彼も、実のところ気がついていた。例えば人間にも終わりが来るように、彼にも終わりが来るということを。彼は彼の、言うならば死期を如実に悟っていた。終わりが近い。終われば自分がどうなるのか、という疑問はなかった。なぜなら終わらないと考えていたし感覚していたからだった。そこには疑問を挟む余地はないはずだった。けれどそれは突然にやってくる。恐怖をしていないといえば嘘になる。彼における死の概念は、人とはだいぶ違った場所にある。彼は言葉を発することが出来ないが、もし言葉を発することが出来れば人間的な生命体が解するところの言語で説明するのであれば、特異でない、平均的な言語でおおよそ数千万字を要するほどの文脈と、数多な試行錯誤が必要になってくるため、ここでは割愛する。だがその程度の恐怖を、彼なりに覚えているといえば、彼にも少し同情の余地ありといったところだろうか。彼は思う。あとどれほどの人間的な生命体が私を発見してくれるのか。もしかするともうあと一人か二人なのかもしれない。態度を改めた方がよいのかもしれない。例えば彼の十一番目の発見者「オイナ=コルティナ」が若い頃に従事していた荷出し作業のように、彼は人間をベルトコンベアに流されていく段ボールが如く、ほぼ何の感情も込めずに人間を見つめるようになっていた。人間は彼をだいたい奉る。彼はほとんど魔法と称された。実際にほとんど彼は魔法なのである。人間的な生命体が見出した魔法と呼ぶところにほぼ近しいため、まずまずの精度で魔法だった。彼もまたそこに甘んじていた。今では死期を悟りそれどころではないのだが、人間が人間から生み出されるのはまず間違いがないのだけど、自分を産み落としたのは一体何であるのか、ということの答えを出せずに苦悩していた時期が、彼には長く続いた。いつからか、考えないことでその苦悩を抑えつける術を「オイナ=コルティナ」の次の発見者「ベレベレ」で学んだ。「ベレベレ」は彼にとっても思い出深い人間的な生命体の一人である。「オイナ=コルティナ」で落胆したからこそ、「ベレベレ」の評価は上がったともいえる。彼もまた人間に対する態度を改めたきっかけの一人でもあった。その苦悩は、実は死期である今こそ考えるべき疑問だったのかもしれないのだが、今は次の人間をどう観察するのかで精一杯である。魔法とは言え、精一杯にもなったりする。彼にもし仲間でもいれば多くの人間的な生命体が好む酒場に似た場所で人間的な生命体についてのあれやこれやで愚痴をこぼし、そしてまた必然的に自分自身についての問答をし始めるのだろうが、それは叶わない夢である。夢を見るのは人間的な生命体の特権だということは、夢を見る人間的な生命体を少しばかり批判的に眺める彼であっても認めなくてはならないところだった。せいぜい彼に出来ることといえば、人間的生命体の観察くらいのもので、彼が最後に出会うこととなる「中谷陸」の幼少期の特技と奇しくも同じであった。しかしその奇しくも、というところにあまり意味はないし、そこから得られる何かもまたない。さて、彼はこれからしめて三人の発見者と遭遇することになるが、彼はまだ知らない。次の発見者が最後ではないことと、そしてまだ見ぬ可能性と、何か自分自身に素晴らしいものを与えてくれる人間的な生命体であることを望んだ。彼は足踏みをする。むろん魔法だ。足はないのだが、足踏みをしたくなるように今か今かと待ちかまえた、と捉えて頂きたい。一人目の発見者が彼を発見したときに、彼は舌打ちをする。この程度の最後であるのか、と。最初の一声が「やぁ!」なのである。あまりにも凡庸きわまりないかけ声、と。彼ほど成熟した魔法であればだいたい一声聞けばその人間的な生命体の質というのはわかってくるものなのだった。この一声の時点で「ベレベレ」以上の発見は得られないと確信した彼は、その発見者「ウデ」を観察することを辞めることを決心した。厳密に言えば彼は観察し続けていたし、「ウデ」が彼の手にする剣を巧みに操って、彼を行使しているときも、そして「ウデ」が彼を崇め奉り、恍惚に浸っているときも「ウデ」を見続けていたのだけど、やはり「やぁ!」では彼の意識を例えば十分割したとして、一分も向けられることはなかった。かわいそうな「ウデ」。彼に罪はないし、彼の名前にもまた、罪はないはずだ。それよりも「ベレベレ」である。残りの九分は「ベレベレ」を思い返すことに向けられた。「ベレベレ」はかなりおかしな方向で彼を行使した。大抵が彼を能力の向上に向けて、攻撃的なものに使ったりする。あるいはその人間的な生命体の持つ物体だったり、文明と結びつけられて、具現化させられたりする。そういえば「オイナ=オルティナ」の時は彼は精霊と呼ばれていた。思い出したくもなかったので、記憶を押しつける。彼は工場の片隅で段ボールの精霊になったのだった。「オイナ=オルティナ」の見出したそれは、嫌悪感を示すものだった。どうにかわかって欲しい。「ウデ」は現在、彼の持つ剣を操る技量を高めたいと思い彼を行使しているのだから、「オイナ=オルティナ」の時よりも、幾分ましなはずである。だが彼はやはり一分以上の意識を「ウデ」に向けることはなかった。「ベレベレ」が彼を発見した時の一声は「なるほど」だった。「やぁ!」や、それに近いものとは大違いである。彼の最後に遭遇する「中谷陸」は産声だった。即ち人間的な生命体として生まれた時から、彼を見出すことになる。「ウデ」が一世一代の冒険活劇に出ている最中だが、「ベレベレ」の回顧は続く。「ベレベレ」は苦悩する人間だった。実際彼を見つけたときも彼の苦悩は続いていたのだった。彼は自分自身が発見された時にその人間のそれまでをほとんど知らない。色々な推測を立てることは出来るし、実は人間の様々な奥深さを彼はもしかすると知ることが出来たのかもしれないのだが、そして彼が死期を悟るよりも前に人間に関する深い理解を示していたのかもしれないというのに、彼はあまり人間に興味を見出すことは出来なかった。むしろ、これは彼が魔法だからかもしれないが、人間の世界における時間や空間の概念であったり、物体の運動に興味を示すことの方が、実は多かった。生命そのものの神秘は実は人間的な生命体だからこそ感じうるものであって、彼の立場からすれば人間の存在する次元そのものに興味が向けられても仕方がないところだろう。それに彼が思考を展開するときは、絶えず非言語的なレベルであるし、人間の持てる思考次元とはまた別のものである。「ベレベレ」も実はそんな人間だった。「ベレベレ」は浮き世に興味などまるでなかった。「ウデ」が剣と魔法で宝石なんやかんやを夢見ているような世界であったのだけれど、「ベレベレ」は剣も魔法も宝石も、ましてや酒も女も博打も食べ物にも興味を示さなかった。明らかに今まで見てきた人間とは異質だった。「ベレベレ」は毎日日記を書いていた。それを見返す時に、どうやら「ベレベレ」は彼を発見したようなのである。一体彼を行使して何をしたかったのか、それは実はまだ彼にもわかっていない。わかったのは、彼は三十年ほどひたすら何もない部屋で一人で生活していたということである。「ウデ」に聞かせてやりたいと、彼は思う。あのような人間がいるというのは意外だった。出来ればもっと「ベレベレ」のいる世界に鎮座し、「ベレベレ」と、次元を架け橋に触れあっていたかったのだが、生憎彼を発見してから「ベレベレ」は三日で絶命する。何も食べていなかったのである。彼はその時のベレベレの思考を思い出せる。大抵の人間が何らかの考えを巡らせているのだが、彼を見つけてから三日間「ベレベレ」の頭の中には何もなかった。何も見つからなかった。無であった。無。そんな状態が存在しうるのか、と彼は「ウデ」が宝石を担いで、あこがれの王妃に想いを寄せているのを一分の力で見取りながら疑問に呈し、思い返す。つまりほとんど、「ベレベレ」は生きながら死んでいるような状態だったのではないかと思う。そんな状態がありうるのであれば、それは彼にも達成出来ない境地である。なぜなら彼は人間を観察し続けているのだから。彼は疑問に思う。私は果たして死んで無になるのか。人間の観察しうるところの質量がないというのに、今でさえほとんど人間から見れば無だというのに。どういうことになるのか。恐怖が立ち上る。それを「ベレベレ」に向けた感情で彼は抑えつけた。「ベレベレ」は多くの、他の人間と同様、どうやら苦悩の末彼を見つけたようなのだが、その苦悩は異質だった。全く何もしていないというようだったのだ。彼の日記には何もしていないということをいかに婉曲的に示すかということが記されていた。人間。彼らについてもっと知るべきだったのではないか。彼は反省する。「ウデ」はもう老衰で死にそうだというのに。「ウデ」に反省は活かされそうにない。彼はああそういえばこういう顔の形をしていたのだったか、と考えるくらいで精一杯だった。「ウデ」は絶命した。さらば。だがこの反省は後に活かされることになる。「ウデ」の死もまた、無駄ではなかったということになる。次なる発見者は「シュナ」だった。「シュナ」に発見されたことは彼にとって幸運だった。なぜならまず第一声が「こういうことなのかな」だったからである。「やぁ!」よりは幾分ましなものであったし、シュナは今までの発見者で一番人間としては若かったのも、彼の観察意欲を向上させた。勘ではあるが、何か今までにない人間の出で立ちをしているように思う。後の「中谷陸」で人間の一生に触れる前の予行ができたというのもあるし、「シュナ」という人間の奇怪な一生は彼に人間を深く理解したいと強く思わせるに適したものだった。それはほとんど「ベレベレ」の再来を思わせるものだった。もっとも、彼を発見したばかりのシュナは十二歳の男児であったし、その晩年までシュナは今まで見てきた人間と行動様式も含めてほとんど同じように観察されたため、膨らんだ期待に応えるのは随分後になってからのことであった。だがまず最初。彼は安堵した。ほとんどの人間が恍惚とした表情を見せる中で、シュナは首をかしげていた。それは例えば子供が玩具を扱う際にのめり込み、見せる無垢な表情とほとんど似たようなものだった。玩具と彼。シュナにとっては似たようなものだったのかもしれない。シュナは彼を行使して一体何をするのかといえば、何もしなかった。多くの人間が望んだことを、シュナは求めなかった。これではお役御免だった彼はなおのこと手持ち無沙汰になってしまう。が、今回の自分がしたかったことを思い出す。たまには人間側を行使する権利を、持ち合わせてもよいのかもしれない。なぜなら死が近いのだから。彼はシュナを観察することにした。シュナは十二歳時点で大体こんな人間だった。容姿は端麗な部類。性別は男であるが、十二歳時点での彼は中性的過ぎるほどに、中性的であった。水色をさらに薄めたような髪の毛の色をしている。この毛色はわりと珍しい方に部類されるようだ。赤く染まった、朱色の頬にはシュナの母親がたびたびキスをする。好物は母親手製のお菓子。主にパイ。食べることが好きで、運動も好き。彼の家は山奥にあって、牧場を営んでいた。天真爛漫に生きているようだ。極端な脅威が存在せず、また他者か他者を尊重しあう文化を持った国家に生きることが出来た。それは彼にとってはよい方向に働いたのかもしれないし、あるいはそうではないのかもしれない。彼の晩年だけ見ればもしかするとこの環境がなにか、シュナの歯車を乱した要因の一つなのかもしれないのだから。いや、それすらも彼は理解に苦しむことになるのだが、それはやはりまだもう少し先の話だ。少なくとも、現段階でシュナは幸福そうだった。今まで見てきた人間の、誰よりもというわけではないのだが、何か安心する幸福を享受しているように思う。しかしそんなシュナにも心配事だってある。ちょっと、シュナ、話があるの。シュナの母親、アルマァブが眉間にちょっとした皺を寄せてそう尋ねる時、シュナは気落ちする。この瞬間だけは、僕は世界で一番不幸な奴なんだ、と落ち込む。どうにか今晩のおかずであったり、あるいは彼の愛する犬、ドゥについて想いを寄せたりしてはぐらかすのだけど、突きつけられる事実はいつだって同じだった。それは学業における成績の悪さ。この大変不都合なことを、シュナはどうにも覆すことはできない。そういえば、と彼は思い出す。彼の四番目の発見者「アギナ」は自らの才能がまるでないことが苦悩の要因になっていたな、とのことを。だからアギナはどれだけ放屁で大きな音が出せるのかということにその人生を費やした。その辺りで彼が人間を見限り始めたのは事実だし、アギナからオイナ=オルティナにおけるまで、彼は人間に対する少なからずの畏敬の念を捨ててしまったのかもしれない。放屁という活動に何らかの感情(意識を向けては)いなかったものの、非常に根源的な部分で、人間が嫌悪する一定の動物がいるように、彼が嫌悪する一定の活動というのもあったのは事実だった。少なくとも魔法の放屁などだれも見たくないのは、全人類(的な生命体)が共感出来ることなのではないかという確信は、彼にだってあった。そういえば、とどんどんかつての発見者に彼は想いを馳せていきかけてしまったが、シュナの観察に勢力を注ぎ直す。シュナは母親に怒られ萎縮している。もっともその怒り方は、度を過ぎたものではなかったのだが、シュナは恐らくたびたびこういうことを言われていたのだろう。随分な気持ちの落ちようである。彼は声をかけてやりたくなったが、やはりそれはできない。実を言えば、彼から見れば実はシュナは優秀なのではないかとの反問があったのである。学業における成績は確かに他者と比較しててんで駄目だったのだが、母親が指摘するような、他者の評価における「シュナには集中力がない」との評価は誤りだと考えていた。むしろ集中力が異常なまでにあった。異常なまでにあったからこそ、それを制御する術を持たなかった。仮に持とうとしたところで、今度はその制御に集中力を向けて、教師の行う授業を聞き流していただろうから、つまり問題は彼の異常なまでの集中力である。その集中力が肯定されるべきものなのでは、と彼などは考えたのだが、どうやら学業の授業には劣るものなのかもしれない。母親に叱咤されている間も実は話の半分をほとんどくみ取れないでいた。それはその集中力で、多くのことを理解しようとしていたからに他ならない。後々、この「驚異的な集中力で多くのことを理解しようとする営み」が、彼に様々な影響をもたらしていくことになるのだが、シュナがそんなことに気がつくことは今の段階では出来ない。母親のご機嫌をどうやってとっていくのかを彼の短い人生経験の中で考え抜いているのだが、それが実を結ぶことはなさそうだった。シュナは落ち込みに落ち込んだ。どうすればいいのか。落ち込むことも集中してしまうシュナは、精神的に脆い。いくら互いを尊重しあう風土がその故郷にあったとはいえども、シュナはそろそろその対策を考えなくてはならなかった。まず勉強すること、というのが彼の導き出した結論だったのだが、どうにも捗らない。実際勉強机に向かってみる。教科書を広げてみる。ただ大抵駄目だった。それは自分自身に向けられた勉強ができない子であるという暗示に能力が向けられているからなのだが、シュナはやはり気がつかない。実は学校生活も、まるでうまくいっていなかった。一つ一つ物事を解消していくのであれば、スムーズにことを運んでいけるのだが、どうしても皆のスピードに合わせることが出来なかった。シュナがのろまというのは学校中の人間がついぞ知るようになっていて、やはり、残念ながら彼はいじめられるようになっていった。とはいえ、残忍な行為が施されたというわけではない。物がたまになくなったり、からかう渾名をつけられる程度のものだった。しかしシュナは脆い。精神的にどんどん脆弱になっていく。このあたりの心の機微は、「中谷陸」のものと酷似している。「一体僕が何をしたというのだろう。確かにのろい。ずっとずっと、それは気にしていたんだ。でも出来ないものはしょうがない。誰だってそうじゃないのかな。それはニナが言っていたように、こういうことだって。誰だって出来ることと出来ないことがある。僕はその言葉に助けられたんだ。助けられたのに。助けられたのに、でももうその力ももう尽きてしまいそう。動物たちとはしゃいでいるときだけは忘れられたというのに、最近では頭をかすめる。嫌なことが。出来ないことが」といった具合の悩みの連鎖は尽きなかった。これがシュナの苦悩における序曲であったのは間違いがないのだが、今の状況それ自体は「中谷陸」と同様しごくありがちな思春期特有の悩みである。ここで思春期という状態を彼は理解する。多くの今まで彼を発見した人間は成人だった。ある程度の価値観が形成されていた。考えれば最初からそうであったわけではないのだろう。色々な経験を経て、人は人として生きていくためになにか価値観を形成するに違いない。もしかすると、シュナはそういった状態におかれているのかもしれないという彼の推測は概ね正しかった。それが人間の進む一つの方向であることは間違いがなかった。そして彼はもう一つ推測する。シュナはこれだけの集中力を持ち合わせているのだから、もう少しすれば自分の才能に気がつくようになるに違いないということ。そしてそれが、彼をさらなる高みへ引き上げるということを。むしろ期待した。人間の凄みというのを、彼は見たくなっていた。期待しつつあった。「ねぇ、ニナ。教えてよ。誰かが僕を傷つけたときに、僕はそれについて抗わなくてはならない?」「そうしたいのならばそうすればいいと思う。でもね、これだけは用心してね。シュナ。そう。私、シュナだから言うのだけれど。これだけは絶対肝に銘じておいてね」「なにさ」「何もかもがずっと思い通りにいくなんてことがないってことを」「意味が分からないよ」「シュナはね、たぶんいい子だから。いい子なんだよ。絶対。絶対。それは私が保証する。保証するけれどね」「ニナってときどきぜんぜん僕に伝わらないような言い方をするよね。もちろん、僕はそれが悪いことだとは思わないけれど」ニナとシュナは語り合っている。星空を見つめて。家から持ってきた簡単なお菓子と飲み物をつまみながら。誰にも見つからない、彼らだけの、彼らが作った、秘密基地で。虫の音と、さわやかなそよ風。決して居心地がいいとは思えない、手狭な秘密基地。なだらかな草原が囲い、なびいている。ゆるやかに、二人の時は過ぎていく。ニナは思い切り顔をしかめた。「どうしたの? ねぇ。ほら、食べなよ」「うん。食べる。君ね、本当にね」「さっきから何がいいたいの?」「ううん。私ってほら、変わっているからさ。さっきの答えを言うのであればね、シュナは自分で決めていくしかないわ。だって、知っているじゃない。私、学校辞めたのよ」「知ってるよ」「君はそうできないんだね」「意気地なしだと思う?」「ううん。違う。そうじゃない。もっと違うところ。あなたが意気地なしだとか、そうでないことだとか、私にとっては全くどうでもいいことなの」(これはシュナに聞こえるか聞こえないかの声だった)「え?」「でもあなたがどうでもいいということではない。これは、わかる?」ムードは高まってきているように思うのだが、そう、例えば「ウデ」が王女にキスをしたときのように、「オイナ=オルティナ」が低い賃金にも関わらず結婚を決心してプロポーズをしたときのように、甘い、と彼にも思える独特の空間が二人の質量を中心に生成されているのは間違いがないのだが。だがニナは立ち上がった。「今日はこれまで。私にはやらなきゃいけないことがあるから。じゃあね」「うん。そうだね」シュナはこの彼女が毎回言うやらなきゃいけないことの正体を知らなかったのだが、彼女が言いたくないようなそぶりを見せていたので、追求することは避けていた。特段そういったことを、ニナが言ったわけではなかったのだが、なぜか聞いてはいけないような気がしていた。「どうでもいいけど、このポテト、まずすぎるわ。まずすぎて、頭が擦り切れる。私の方がいいのを作るから。それじゃ」ニナはたいがいこんなことを秘密基地で落ち合ってから、別れ際に言ってみせた。それから少しだけ、シュナは秘密基地に一人居残り、考えを巡らせた。自分はどうするべきなのか、どうあるべきなのか。主に問題は、学校を辞めるのか、辞めないのかというあれやこれやに集約されていく。彼は辞めるだろうな、と推測したし、それがシュナのためになるような気がしていた。あの学校という施設で彼の才能が発揮されるとは思えなかったからだ。足音が聞こえる。ニナだろうか。動物だろうか。足速である。この時、どこかにシュナは身の危険を感じた。危険な生き物は存在していないということは、ある程度事前に確認していたにせよ、そうでない場合だってある。シュナは恐る恐る秘密基地から顔を出す。シュナはこの時のことを忘れないだろうと、なぜか思ったし、それは事実そうだった。その人の顔を見て。安堵するべきだった。安堵するべきだったというのに。体はこわばったままだった。ニナだったから。危険な生物でなく、ニナだったから。そのニナの顔は。そのニナの顔は。近づいてくる。瞬時のことだったように思う。彼女が歩いてきた道のりはもっと長らくのことだったはずなのに、なぜかニナは立ち尽くしていた、目の前で。目の前に立っていて。それで。「どうしたの」やっと出た声は、二人が立ち尽くしてからどれくらいのことだったのか。そしてようやくシュナはニナの顔を見た。その時に、ようやく安心する。別に普通のニナだったから。彼女は普通ではないけれど、ただの、普通のニナだったから。「ポテト、作ったの」「ううん。じゃあね。ねぇ、あなたのところの作った、ポテト、頭が擦り切れそうじゃない。私が作ったほうが美味しいわ。それじゃあね」「うん」また一人、取り残されるシュナ。もう一度学校のことを考えようかと思ったときに、身震いがする。根元の知れない、得体の知れない恐怖に似た何かだった。わからない。正体は。関係しているのは、ニナの、さきほどのニナのなにかだった。なにがって、てんでわからない。シュナは駆けだした。一目散に入ってベッドでドゥを抱き抱えて眠ることにした。彼もまた、違った形で恐怖する。彼の恐怖とは、ここでは死の恐怖と結びついた何かだった。彼も驚く。なぜシュナの恐怖と自らの恐怖が結びついているのか。わかるわけもなかった。厳密に言えばそれは死の恐怖ではない。眠るわけにもいかない。眠れないから、だから「ウデ」の冒険について想いを馳せた。あれだけ斜めに見ていた「ウデ」がなぜだか恋しくなった。でもやっぱりやめた。思い出さなくてはならないことがあったように思えたから。以前にもこんなことがあったような気がするのだ。このような感応を。あれは「あなたよ、あなた。あなたに問いかけているのねぇ、あ、な、た。あ、な、た」暗闇だった。暗闇、暗闇。夜。寝静まったころに、ニナが枕元に立っているのを聞いて彼はすべてを閉ざした。自分が人間における眠る、ということに近い状態を成し遂げることが出来たらしいというのは発見だったのだが、やはり完全にそうはいかなかった。ことの顛末は確かに見届けていた。ニナはシュナを起こして、皿に乗せたポテトを見せて、食べさせた。「こういうことよ」と。それだけ。幸い、シュナは恐怖で打ち震えるということはなかった。ポテトを食べて、二人は同じベッドで夜を明かした。なんだったのだ、さきほどのは。あの、ニナの言動。まさかとは思えない。そうであってはならない。そうであることがあってはならない。でももし本当にそうだったら。これは一つの楔を彼に打ち込むことになる。人間に対する希求心がますます芽生えてくると同時に、とてつもなく茫漠とした景色が彼の中で紡がれていった。それが一体何なのかは彼には理解出来なかったが、理解することが出来る日が来るのかも知れぬと思い至った。彼は気がついていないし、その答えについては後回しにすることにする。時代は魔法を求めていた。シュナの学校でももっぱら魔法の話でかかりっきりであった。「魔法はかつてあったようだよ」「でもそれは滅びたんでしょう。炎、氷、風、水。四つの力を司る魔法人。確かにいたという痕跡はあるし、杖だって見つかっている。文献もある。けれどそれはもう滅びたし、僕たちと彼らの間には想像を絶するほどの違いがあったはずだよ。だから、僕はその魔法使いは実は人間じゃなかったんじゃないかって思うんだ」このシュナのクラスメイトの一人、ルンはなかなかよい意見を言うものだと思った。その通りだった。人間は全く違うものである。それぞれがほとんど別の種ともいえるのだと、君は胸を張るべきだと彼はルンを後押しする。この会話にシュナは入っていない。彼はルンが話している横で耳をそばだてていた。「人間じゃない? ばかいえ。だったらなんで杖が見つかったっていうんだ。おまえ、は虫類が杖を扱えるとでも?」「違う。そういうことじゃないんだ。もっとね、突き詰めて言うとごく些細な力の変化というかね」ルンは躍起になっているが、話を聞いていたディゼルは彼を抑えつけるように言ってみせる。「俺はやっぱり魔法ってのはほらだと思うぜ。てんでね。てんでほらさ。誰がそんなことを言い始めたのかは知らないけど。かけてみせるけど、たとえば明日の昼飯のおかずとかをかけてみせるけど、たぶん杖も文献もひけらかしたいって奴のしわざさ。きっといつだって自分をひけらかしたい、ひけらかして認めてほしがっているやつがいるって思うんだよ。たとえばさ、たとえば、ずっと誰からもみとめられないやつがいたら、そうするんじゃないかな。なんかこう、へんな感じでなじめないやつがいたらさ」「違うね。ディゼル。君は間違ってる。杖も文献もあるんだ。やめろよ。嘘? 教授だって言っていたのに。なんだってさ」「教授ああるだなんて一言も言っていないぜ」「いや、あるよ」「ないね」論争は続いた。「南の国パルではさ、もう魔法を扱える人間がでてきたって話だぜ」乱入してきたのはゴゼだった。「それ、どっから聞いたんだよ」答えあぐねるゴゼ。「ほら、こういうやつなんだよ、きっと」という笑い話でその場は決着した。話を聞いていたシュナの頭の中にあるのはもしかして、という気持ちと、やっぱり、という気持ちをないまぜにした確信めいた反芻だった。人間って違うものなんだ。一人、一人。魔法があるかどうかはわからないけれど、僕は僕に、僕は僕に、と。めまぐるしくシュナの意識は廻っていく。でも、自分が一体なにとどう違うのだろう。なにをどうみて。じゃあこの髪の毛の色を指して? ふっくらとした頬? この鎖骨なんてどうなんだろう。そういえばでっぱっている骨が、肘の辺りにある。これは駄目だ。これじゃ駄目だ。もっと決定的に僕は僕であって。「シュナ! 授業を聞きなさい」どうやら指されていたようだった。笑い声が周囲でうずまいて数刻してからようやく状況に気がつく。「ごめんなさい」見えた景色は、やはりそんな感情もふいになった先の儚さだった。凝り固まったもの。柔らかなもの。何もかもが結合していったときに、膨れ上がった意識は破裂した。「僕、学校辞めるんだ」それは何気ない朝のひととき。朝食を穏やかにとっているとき。母親は冗談の一つとして取っていたようで、いや、取ろうとしていたようで、実際はその動揺を隠せずにいた。「シュナ。今日行けば明日は休みじゃない。ほら」「休みさ。そうだね。休みだよ、見て、母さん。ドゥは学校に行かない。でも楽しそうに毎日を生きている。学校に行く意味ってなんなんだろう? 僕はあの古ぼけた教師のつらがまえや、さして好きでもない同級生と一緒にいることがなにか途方もなく辛くて、むずかゆくで。わかる? 母さんに。わかるわけもない。そうさ、絶対わかりっこない。わかってほしくないってことも思うんだから。さ、ほら。これで僕のお話は終わり。ね、わかったでしょ。僕もう学校辞めるんだから」「何を言っているの、座りなさい」「座らない。絶対。母さんは僕のことが好きだ。好きなんでしょ。僕も母さんが好きなんだよ。でもだから。これが嫌なんだ。僕たちは好きで、そう、それがさ。でも嫌われるのも困るんだ。じゃあどうすればいいっていうんだろう。ね、ほら。見て。朝焼け。たいがいああ言うのを見ていると落ち着く。嫌なんだ。何もかも。誰が好き、誰も嫌い。僕は何、君は誰。そんなこと、何もかも。むかむかしてきてね。嘘はったりでごまかそうとしてもまた僕が嘘はったりのほらやろうってことじゃない。じゃあ、どうなるっていうの。このパンはおいしいよね。本当! 苛々するよね、全く。でもさ、朝焼けは教えてくれるような気がするし、星をずっと見ていれば聞こえてきそうな気がする。僕はずっとじゅう考えていたけど、それでいいんじゃないかってことでさ、つまり、つまり、僕はもういいんだってこと。授業がぜんぜん面白くないわけないんだけど、いいんだって。僕は頭が悪くたって。だって、点数、上がらないんだ。どうすればいいんだって。でも星を見ていると落ち着く。だからそれでいいんだって。それだけ」シュナは立ち上がり、秘密基地まで一目散に駆けた。今では背後に聞こえるドゥの鳴き声もいとしくなんかない。さようなら。僕の家。戻りたくない。ずっと僕は星を見ているから。そしてあっと言う間に夜が訪れた。示し合わせることはいつだってない。ニナはでも、今日、その日、秘密基地に訪れた。「シュナ。あなたね。私とポテト食べて寝たことも忘れたの。そんなしけた顔をしてたらポテトに失礼じゃない」「覚えているよ。ねぇニナ。僕のことを仲間って呼んでよ。君がそういう言葉を嫌いがっていることを知っているけど。今日だけはさ。ほら」「いつ私が嫌いっていったの?」「いや、そうだと思ったから」「ううん。わかった。じゃあ仲間だね、今の間は」「どういうこと?」「私がシュナと仲間になるのはずっともっと先のことかもしれない。ね、わかる?」「わからない」シュナは望んでいた。受容を。包容を。でもそれをニナはしない。するべきでは、と彼は考えていたが、どうにも思うようにことは運ばない。「いずれわかる日がくるかもしれないし、こないかもしれない。私が、ね」ここでニナは笑みを見せた。屈託のない笑み、ではない。露骨な作り笑い、でもない。なんでもない、彼女ならではの笑みだったが、その意味するところは深遠なように見える。また、意味はないようにも思える。シュナはそれが、ニナなりの励まし方であるということを知っていたから、何か深く考えることはしなかった。今は隣にニナがいてくれるだけで心が安らかになった。「僕は学校を辞めたよ」「大かたそんなところでしょうね」「驚いた?」「どうだろう」「でもこれでよかったんだ。僕は星を見続けるから」「私は私でやるべきことがあるのだけど、でもシュナ。君は星をみる以上のことをいつか探さないといけないかもね」「どうしてそう思う?」「簡単じゃない。曇り空だってあるのよ。この大空にはね」「ああ、そうか」「でも今日ばっかりは見ていてもいいかもね。見飽きた、しようのない星空をね」静けさ。二人は澄んだ空気に触れていく。時間が止まったようだった。心は落ち着いていた。嵐は、止んで。「このままもう僕はあの星に旅立っていきたい」「そうすればいいわ」「無理でしょ、ね」「じゃあこうしない。ニナと旅に出るんだ」「それはね」ニナは突然シュナの首元を掴んだ。首を絞めるという目的ではないだろうということはわかっていた。シュナはそれを受け入れた。「無理よ、今はまだ」「どうして」垂れた髪が、目に入って「どうして」「いつかできるかもしれないけどね、今はまだ」「君の、やるべきこと?」「そう、それを掴むまでは」君のやるべきことって。なに。とは聞けない。ありがとう。ともいえない。しばらくずっと二人は黙って見つめ合った。「ずっとまえ、言ったことを覚えている?」「なに? 色々あったじゃない、僕たち」「うん。私が人が嫌いって言ったこと」「ああ。うん。それは、何度か言っていたね」「どういうことかわかる?」「え?」「どういうことかわかる?」「わからないよ。でも、なんとなくなら」「そう、だよね」「なんで?」「なんでって、わからないじゃない。人はいつでも」「それは、そうだ。僕もそう思う」ニナは立ち上がる。そしてシュナを見下ろした。ぎろりとした、鋭利な目で。怖くはない。けれど威圧される。「でもそれだけじゃないの。私が人を嫌いな理由は。そんなありきたりなことだけなんかじゃないの。ねぇ、聞いて。私はこれからもうどこか遠くへいこうと思う。あなたとは、会わないことにする」「え? どうして。旅は、旅は。さっき、旅はいつかできるって言ったじゃない」「そう焦らないで。旅はそう、いつか出来る。私ね、またここに戻ってくる。いつかはわからない。でも君もいつか戻ってくる日がくる。この場所に。もし戻ってこなかったらね、私、この秘密基地に埋めてあるものを見て欲しいね。埋めたんだ。とても深いところに。もし君がここに戻ってきて、そしてもし私がいなかったら、君はそれを見て。ここに埋めたものを。それからどうなるかは知らない。風はなんで吹いているのか、なんてことと同じくらい、わからない。ね? 星も瞬いているけど、意味なんてないのよ。ね?」シュナは頷くしかなかった。元々心得ていたのだろう。ニナがこういったことを言うことを。あまりにも突飛なことを言うことを。でも今日だけは何か違うことを言って欲しかった。本心でない慰めを望んでいた。根っから嘘だってよかった。でも彼女はいつだって期待を外す。それもわかっていた。「じゃ、さよなら。これでお別れね」頬に、熱い感触。口づけを、されたのだと。その時、シュナは立ち上った感情を抑えられなかった。ただでさえ今朝から抑えられていないのだ。「好きなんだ。僕。君が」叫ぶ、つもりだった。でも叫べなかった。好きだったのは事実で、ずっと想っていたことだったのに。かき消されていく。対して暑くもないのに汗が出てきそうになった。ニナは長いこと黙りこくっていた。シュナは別段、悪いことをしたわけでもないし、なんなら、言うべきだったし、言って必然だったとさえ、彼も思えた。二人が結ばれることは、ニナという少女が変わり者であったとしても、必然的なことのように思えた。「ねぇ、空があるよね。星もあるよね。そう、この前私、海というのも見に行った。この広い大空の下で、私たちは生きてる。だなんて。そんなしようのない、ことを今言うべきじゃないけど、言わないといけないよね。当然な、当たり前で、私たちが息を吸っているから生きていられるような、とてもくだらないことの数々」「くだらなくなんてないよ。見て、そんないろいろが、まだまだ不思議に輝いているよ」「言うと思った。落とし穴にはまるから、嫌よ」「え?」「だから、落とし穴にはまるの。その前に私は、行くから。それじゃ」「ちょっと待ってよ」ニナがこのとき何を言いたかったのか。言いたがったのか。彼は考えることになる。考えることになるのだが、それはもっと先の話で、今はただ呆然と彼女の後ろ姿を見送る他なかった。シュナの心には虚しさがあり、一方で妙な心地の焦燥感と、そして充実感がまたあった。深く検分できないことにもがきながら、それでいてそのことにまた納得していた。ここで中谷陸に話を転じよう。なぜなら中谷陸もまた、このような心の動きをしていたのだから。中谷陸は出生児に彼を発見していた。彼は驚きを禁じ得ない。今までの経験からすれば、当然のように何かの経験があって彼が発見されていたのだから。明らかに枠を出ている人間だということは予期しうる。そして予感。これが最後かもしれない、という。最後の好機、とは思えなかった。好機だったとして、彼が生きながらえるにはどうすればいいのかなど、まるでわからなかった。しかし反転するような気はした。朧気に見えていた死の概念が、どこかで。その答えを、中谷陸が持っているのかもしれない、と。彼は気を引き締めて、中谷陸を見守ることを始めた。まず0歳時から3歳時まで、観察を終えて思うことといえば、特筆するべきことはなにもなさそうだ、ということだった。いや、彼にとってその人間が出生から三年を経た所を観察するのはやはり初めての経験だったものだから、色々と興味深い発見はあったにせよ、しかし、どうやらあまりにも平穏すぎたからか、拍子抜けしたというのは事実である。国の治安や、人間の倫理感、道徳観。成熟しすぎているように、彼は思えた。少なくとも表面的な、つまり死に直結するような諍いごとというのは、とてもではないが起きそうには見えなかった。文明もこれから発展していくのだろう。多くの人間が目を輝かせている。科学、あるいはそれに近い、人間の観察しうる真理を用いた多くの文明の果てをまだ彼は知らない。彼も期待する。どうやら中谷陸の成長とともに、人間の踏み込む何か深淵なものがあるのではないかと。中谷陸が五歳になったころ、彼はようやく、この家庭がそこまで裕福なものだったわけではないということを知った。が、それはこの国の全体的な経済状況を鑑みれば取るに足らないことなのだろう。貧しい人間であれ、等しく人間としての尊厳を保ち豊かになれる好機があるようだった。彼の観察するところによると、中谷陸の先天的な素質というのはほとんどシュナのそれと似ていた。集中力があり、それをどのように行使するべきなのかを理解していないようだった。学校に入学してから数年はその性質が露わになるということはなかったものの、段々と問題としてシュナと酷似した様態を醸し出してくる。やるべきことがまるで出来ない。一部の突出した能力は理数系の学問で明らかになったのだが、しかしその能力の偏りはどこか異端者として扱われる一つの要素足りえた。彼を揶揄する材料がほとんど出そろったところで、彼は学校の人間に厳しく叱責されることになる。時間の問題、というよりも必然だった。面白いことに、ここで彼は初めて宿命という言葉の意味を租借する。彼が出会った、誰も彼も、その身に受けるもの、そしてその先にあるものを見据えなくてはならない、という定め。それは人間的には関知できない領域で、規定されているのではないか。そんなものを、彼らは定めと呼んでいるのだと。なにかふと、彼の中でよぎるものがあったのだが、中谷陸の強烈な感情の膨張を感じて意識をそちらに向ける。それは敵意だった。