誰も知らない物語
スーツのジャケットを椅子の背凭れにかけて、ネクタイを手に取る。それから首に回して、――不意に鏡の中の自分と目が合った。
こんな顔をしていたのかと、思った。数年振りに彼女に合わせる顔がこんな顔で良いのかと。
その物憂げな顔から視線を外したくて、机の上に視線を移す。そうしてそこに置いてあった招待状を見て、また憂鬱さが染み出てくる。
現実ってのは見たくないものばかりなんだな、なんて風に思った。
それは結婚式の招待状で、友人の新郎からは『久しぶり元気でやってるか? そろそろお前にも上等なステージが必要だと思ってな(笑) 余興のトランペット楽しみにしてるぜ!』と書かれており、新婦からは『覚えていらっしゃいますか?』とだけある。
それもそうかと、考える。
友人の方は、彼女と僕は何年も前に何回か飲みの席で一緒になっただけの関係性で、僕にとって彼女は人生におけるその他大勢の一人と、思っているからだ。そういう体なのだから『覚えていらっしゃいますか?』というような他人行儀なメッセージであるのは当たり前なのだ。
――だが、これは違う。
あなたと私は初顔合わせじゃなくて、会ったことあるのよ、ということが言いたいのではない。
そういうことが、言いたいのではない、きっと。
今になってようやく分かるようになってきた。
いや、今になってようやく分かろうとするようになったのだ、彼女の気持ちを。
あの頃、そういう努力をしていれば、こういう結果にはならなかったのだろうか。努力や、感情や思考やその他僕のもの全てを捧げる対象が彼女であったなら、もしかしたら。
◇
彼女と出会ったのは、大学生の頃だったか。
彼女は先輩の彼女として飲み会にやってきて、友人もそこにいた。
綺麗な人だと思った。妖艶な人、だった。大人の女性の匂いがして、さすが先輩の彼女だと思った。仕草や所作が洗練されていて、立ち入る隙の無さを感じ、自分がひどく子供のように思えた。
それから、酔っぱらった先輩が言ったのだ。
「こいつ、こんな顔してトランペットを吹くんだ。なんかちょっとやってみせてくれよ」
店の中では断っていたが、お会計を終えて外に出る頃にはもう断れる雰囲気は無くて、そこにいた全員が俺が吹くことを望んでいた。
仕方がないので一曲演奏した。たしか、『But Not For Me』だったか、自分もあまりよく覚えてはいないが。
だけど、彼女の熱い視線が、先輩から俺へ移ったことはすぐに理解できた。
それから彼女はちょくちょくライブハウスへ来るようになり、もちろんお忍びだったので、ライブ終わりにはこっそりと2人で少し離れたバーへ行ったりした。
そのうちに、僕たちは友達以上恋人未満とでも言うような形になり、それから彼女の方は先輩と別れたようだった。
彼女は、最初の印象とは違っていった。もちろん大人の女性という感じなのだけれど、僕といるときの彼女は、なんていうか、綺麗と言うよりは可愛い女の子という感じだった。
甘えん坊で、泣き虫で、我が儘で、どうしようもない子供が彼女の中に住んでいるようだった。
彼女が自分のことを好いていてくれているのは分かったが、先輩の彼女を奪うようで気が引けたのもあって、自分からは口説かなかった。
そうこうしているうちにトランペット奏者として波に乗り始めた僕は、何も言わず街を出て上京した。
仕方なかった、――――その時の僕は、彼女よりもトランペットを愛していたのだから。
もちろん、彼女への愛もあったが。
どちらかを捨てるなら、彼女をということだった。
いや、あの時の僕が一番捨てるべきだったのは迷いだっただろうなと思う。
背中に顔を埋める彼女の啜り泣く声が、しばらく頭から離れなかった――。
/Two secret thing.