あの日、あの瞬間、あの季節。
夏は嫌いだ。
燦々と照り付ける陽射しに悪態をつくように、私は心の中でそう呟いた。
さっきまでひんやりとしていたフローリングも、今では自分の体温より熱い。
汗ばむ体となにものも接していてほしくない。冷蔵庫の中で宙に浮いていたい。今なら北極か南極の海に入れる気がする。あぁ、冬が恋しい。
蝉の大合唱に混じる、風が鳴らす鈴の音さえも耳障りに感じる。
何かが膝の上、太股の辺りを這っている。蚊だろう。
仰向けに寝転んでいるから、ちょうど手が届かない。起き上がれば届くのだろうけれど、暑いから動くのが嫌なのだ。
現実逃避して冬を思い出す。
降り積もる雪、鼻先や耳が赤みを帯びるほどの冷気、吹き付ける突風――――。
先輩。
微かな記憶の残り香が、強い強いその香りが、夏のあの日へ意識を引き戻す。
夏は嫌いだ。
◇
別の女の人と歩いていたあの人を見て、私は私から彼の全てを消し去った。そういう日だった。そういう気持ちだった。水泳部だったあの人と会うのが嫌で、真反対にある図書館棟へ行った。
向かう途中、文芸部の前を通った。
通る瞬間、部室の扉が開いた。
目と目が合って、その2秒くらいの間、私とその人とは宇宙の彼方にいた、――と思う。
耳の辺りで切り揃えれた髪、大きな瞳と、綺麗な眉毛、凛としたその顔を私は最初男のものだと思った。
どうしたの?と言われて、その声で女の人なんだと気が付いた。
すっと、ドアの前に立つ。170cmは優に越しているであろう身長、それから着崩した制服を見て、先輩だと分かった。
それが私と先輩の出逢いだった。
そのまま図書館へ一緒に行って、済し崩し的に仲良くなってデートに誘われた。
◇
夏のあの日、海へデートへ行ったあの日。
夏のあの日、図書館の隅でキスをしたあの日。
夏のあの日、先輩の部屋でセックスをしたあの日。
夏のあの日、先輩のお姉さんに恋人だと紹介されたあの日。
何もかもが塗り変わった夏のあの日たち。
たしかに、あの夏、私たちはずっと一緒にいて、それから秋も冬も春も、さっきまでずっと一緒にいた。
けれど今年の夏を向かえる前、雨の季節が過ぎる前に、先輩は私の前から姿を消した。
◇
梅雨は嫌いだ。
あれだけの季節を一緒に過ごしてきて、私はもう完全に先輩の色に染められていたのに、6月のあの日、先輩は私から、現実から逃げていった。
これは本当に恋なのか、私たちは互いに逃げてきただけじゃないのか、自分の気持ちも、私の気持ちも、本当も、わからないと先輩は言った。
買い物袋を持ってアパートの扉を開けて靴を脱いで上がって来たところだった。
どしゃぶりの中を来たところだった。
買い物袋を机に置いたまま立っている私に、先輩はそんな風なことを言った。
なんで今さら、本当になんで今さらそんなことを言い出すのだと思った。
私の全てを変えておいて、今さら自分から逃げ出すのかと。
涙がとまらなかった。塞き止められない感情をどこに持っていけば良いのか、何と吐き出せば良いのか分からず、ただただ呆然と立ち尽くす。
先輩はベッドの上で膝を抱えて俯いて座ったまま、それ以上は何も言わなかった。
屋根を叩く雨音と、私の啜り泣く声だけが部屋に響いていた。
そのうちに哀しみは漠然と怒りのような感情にすり替わって、私は帰りますと声を絞り出してどしゃぶりの外へ飛び出した。
もう何が起こったのか、分かりたくもなかった。
◇
頬を流れていたのは汗じゃなく、涙だった。
どの場所も、どの季節も、先輩を思い出させる。嫌いな季節が増えていく。
脱け殻だ。たった一人失っただけでこうまで墜落していくのかと、私にとって先輩や、先輩と過ごした1年は、私の人生そのものだったのかと、自分がひどくちっぽけに感じる。
そうして世界とか宇宙とかと対比されて、自分の小ささに消えてしまいたくなる。
心まで潸々と落涙しているようだった。
この底から駆け上がる力を、私はいつになったら手にできるのだろうと、未来の自身に希望を馳せる。
伽藍堂になって、天井を、空を見つめる。
体が重く重く、地に沈んでいく感覚に囚われる。
すーっと静かに海に浮かぶように沈んでいく。
なのに脳だけが宙に浮いていって、そのうちに肉体と思考が乖離する。
先輩、
嫌いになったはずのその顔が、そこにはあった。
/I hate you.