雨のあと
行き場の無い満員電車の車窓から、凍ったままの空を見上げる。
鼻腔を擦る深々と降る雨の匂いが、より一層気分を憂鬱にさせた。
自分はいつになったらこの窮屈な世界から逃げ出せるのかと真剣に考え、しかし次の瞬間には寒空を飛ぶあの鳥のようになりたいと、理想を描いていた。
――少し揺れて電車が止まり、開いたドアから雪崩れ込む様に冷気が入ってくる。
反対に、人々の波は次々に外へと出ていき、それに押し出されるように私も外へ出た。
抑圧されていた人々は、馴れた足取りで少し霜が張ったホームを駆けて行く。
ふと立ち止まり、空を見上げた。
ビルの切れ間から覗く巨大な雲の中心を、まるで割くように電線が伸びている。
車内からとはまた違った表情を、空はみせていた。
冬の空はどこか厳かで、私は好きだ。
マフラーや袖口の隙間から入り込む冷気に身を震わせながら、今日も私は改札を出る。
――という数ヵ月前となんら変わらない自分を頭に描く事は出来ても、現実の私は駅のホームの隅から動けないでいた。
私を壊した獰猛な怪物たちが平然と世界を闊歩していることに恐怖を感じる。
この世界には楽しいこともあったはずなのに、それすらもあの暴力は黒く塗り潰していったのだ。
まるで世界の全てが私に刃を突き立てている様に思え、それに比べれば満員電車の窮屈さなんて随分とマシなものだとさえ感じる。
自分の方が大人なのだから、そのように立ち回らなければいけないはずだった。
結局、浮かれていたんだ。頭では否定していても、じわりじわりとその想いが心を浸食していく。
そうしてその想いに心が満たされた後に、はっとするのだ。
私は特別に彼が好きという訳ではなくて、もっと言えば彼の方も一時の気の迷いの様なものだろう。
感傷に浸りたいだけ、夢の様な現実に酔っていただけ、環境に呑まれただけ、誰一人として自分の意思で自分をコントロールできないでいただけ。
生徒と結ばれるなんて夢を、一瞬みてみたかっただけ。
そしてそのしっぺ返しを食らっただけで、本当のところそんなことで自分がこんなにも壊れていくなんてことに、一番驚いているのだ。
◇
幾つかの夜を過ごして、私はようやく遅すぎたであろう理解をした。
悪質で執拗な悪戯の原因と、彼女が何故そんなことをするのかの理由を。
一瞬でも夢を見ようとした自分が気持ち悪い。
私も彼女の立場だったならきっと同じ事をし、なんて醜悪な女だと罵っただろう。
そうしてここまで考えて、まだ自分の心が被害者感情に浸っている事に気付いて至極嫌悪する。
◇
簡単な話だった。転がり出した玉は止まらず、燃え広がる炎など誰も止められないように、まるで一種の感染症のようにそれは瞬く間に広がった。
それが悪意だということにさえ、私は気付くのに少し遅れた。
夏休みに入る前のことだった。
目の前の男の子は明後日の方を見ていたかと思うと、また真っ直ぐこちらを見つめる。
それが何度か繰り返された後に、消え入りそうに、けれどしっかりとそれは囁かれた。
「好きなんです、先生のことが。真剣です」
もちろん丁重にお断りをした。私の教師人生にも華のあるエピソードができたなとか、生徒と教師が付き合う少コミなんかを思い出してみたりとか、浮き足だっていたのは確かだけれど、それでも常識や分別は弁えているつもりだった。
だから、流れる川や風のように、ごく自然に、まるで最初から台本があったかのように、丁重にお断りをした。
ただそれだけのことだった。
その時は。
出来事が完全に思い出として褪せた夏休みの後、事態はもう進行していた。
授業の無い日曜日に男の子と出会した、せっかくだからとランチをご馳走した。
――もうダメだったのに、トドめを刺した。
週明けから一人の女子生徒の私に対する態度が急変した。
原因の分からないまま事態はさらに進行して、一人、二人、クラス、学年、学校、そして地域にそれが至る前に、私は耐えられなくなった。
次の4月には、私の心も、身体も、そして消化器官も、憔悴しきっていた。
食べても食べても、吐き出さずにはいられなかった。
もちろん栄養など摂れず、他人から見ても、死人のようだったと思う。
最初は職員トイレで、それから通勤のための最寄り駅のホームで嘔吐する日々が続き、学校に行けなくなって、それが当たり前になった。
好きでもない好かれている男の子とランチをした。
男の子の彼女がえらくカリスマ性を発揮して、私を必死に世界から追いやろうとした。
後ろめたさもあって、私は彼女たちに何も言うことができず、いやそれ以前に何も言えなかった、何もできなかった。
結局、あらゆる人に迷惑をかけて、私は教職を辞めた。
かつての自分に、いつかの自分に、声をかけてやりたいとすら、思えないほどに、私は死んだ。
◇
梅雨明け。
都会の満員電車を思い出しながら、実家である田舎のローカル線に乗っていた。
都会というものの複雑さにあてられて、目眩を起こした。
今となってはそんなところだろう。
世界の果てがあるのなら、きっとここがそうなのだろう。
広大な草原の草々が穏やかに風に靡き、白く大きな雲がゆっくりと時間をかけて、視界の端から端へと動いていく。
時折、雲の切れ間から射す光に目をしかめて、それでも負けじと大空を網膜に焼き付ける。
あの大空を自由に飛んでみたいと思う。
いつからか、空には何のしがらみも無いんだろうなと思うようになった。
空、雲や雨や風や陽の光、そこへ行きたいと想いを馳せる――。
どうやったって私はここから逃げることなど叶わないのに、――叶わないからこそきっと。
そのうちに空が灰色がかって、霧雨が地平線の向こう側から駆け足でやってくる。
満員電車の車窓に雨が滴れる。
嗚呼、自分にもまだこんな気持ちがあったのだと知る。
空に染まりたい訳じゃない、空へ行きたい訳じゃない、私はかの空の様な人でありたいのだ。きっとそんな人間はこの地上には誰一人として居ないだろうから……。
都会の喧騒に揉まれながら生き急いでいた自分を恥じてやりたい。
私にはきっと何か方法があったのだと思う。
もしも独りでなかったのなら、救いの手が微かに前髪を撫でたのなら、そんな風に未だ思う。
誰かのためと言いながら、私は自分のためにしか動けないのだと思う。
結局、彼にも彼女にも、誰のためにもならなかったのだから。
/Rain is always a alone.