第5話
「そう。よかったわね、おばあちゃん。いつもはなかなか急に預かってもらえないのよ。」
おばあちゃんがいつもデイサービスで通っている福祉施設のショートステイで預かってもらえることを知らせると、母は少し安心した顔で言った。入院生活3日目で一日中楽なパジャマでいることや小さな鉄パイプの白いベッドになじんで、すっかり入院患者として病院に溶け込んでしまった。
実家に戻ってから3日目の月曜日、トーストと目玉焼きと野菜ジュースの朝食を父と食べ、施設の人がおばあちゃんを迎えに来るのを待ってから、私は母の入院する市民病院に来た。新しいタオルや着替えを使用したものと交換するためだ。
「なんか、おばあちゃんうれしそうにしてたよ。」
タオルや着替えをテレビの下の棚にしまいながら、今日の朝のことを思い出して言った。おばあちゃんはお迎えにきた施設の車に乗せてもらうと女性の介護士にしきりに何かを話していた。その様子はとても楽しそうで私のしっているおばあちゃんとは別人のようだった。以前母がおばあちゃんは施設に泊まることが嫌いだといっていたので私は少し心配していたのだ。
「そう。出かけるのは好きみたいなのよ。でも夜になるといつも帰る、帰るって泣くみたいよ。今回は長いからね。大丈夫かしらね。」
特に心配した様子でもなく母がさらっと言ったので、私はおばあちゃんのことを少し可哀相と思った。それでなんとなく会話を変えた。
「使ったパジャマはどこ?うちもって帰らなきゃ。」
「いいわよ。自分でやるから。病院だって洗濯機も乾燥機もあるのよ。」
棚の奥をごそごそと探っていた手をとめ、ベッドの上で半身を起こしていた母に目をやると、母はやつれた顔でうっすらと笑った。
「入院中はゆっくり休んでればいいじゃない。私が家で洗うってば。」
語尾を強めにして私が言っても、
「本当にいいのよ。一日寝てるだけじゃ暇なんだから。」
母はそういって表情を変えない。わたしがよく覚えてる母の顔。にっこりしてもどこか目が笑ってない、人を寄せ付けない冷たい笑顔。
私は苛立ちと寂しさを感じながら母の顔を見つめた。母は視線を泳がせるように白い天井を見て、クリーム色のカーテンを見て、光にあふれた窓の外を見た。母の病室の窓から見えるのは病院の駐車場で、おもちゃみたいに並べられたいろんな色の車たちが太陽の光を反射させていて、いかにも夏と言った感じの暑さを感じさせた。
「暑そうね。」
母は外の景色をまぶしそうに見つめる。まるで暑いことがうらやましいとでもいうように。
「暑くてしょうがないよ。家から病院に来るまでですごい汗かいたんだから。」
ちょっとだけ文句を言うように響いてしまった私の言葉に返事をせず、母は独り言のようにつぶやいた。
「こんなに暑そうなのに正樹は大丈夫かしら。」
まただ、と私は思う。また兄だ。病院に着替えを持って様子を見に来ている私の言葉は聞かないで、言葉を交わすこともしなくなってしまった兄の心配をしてるんだ。この人は。
「正樹はちゃんとご飯たべてるの?あの子、こんなに暑いのにガソリンスタンドでなんて働いて倒れちゃわないかしらね?」
今度は独り言ではなく、ちゃんと私に向けての問いかけだった。私は自分がどうしようもなく苛々してくるのを感じていた。
「倒れたのはお母さんでしょ?お兄ちゃんはもう26なんだよ。自分のことくらい自分でできる歳でしょ?」
今まで何度も母にいったことがある言葉を母に言った。兄が夜中まで帰ってこなかったり、作っておいた食事をたべなかったりしたときに何度もいった言葉。でも母の耳にはいつも届かない言葉。
「でもねぇ・・・。」
母は暑そうな窓の外の駐車場を見つめる。母がそこに見ているのは兄の姿なんだろう。でもそれは何歳のときの兄なんだろう。それは中学生や小学生や今よりもっと幼い時の兄の姿のような気がする。兄はもう26なのに。
家族の中でまだ兄のことを認めて、その存在を受け入れているのは私ではないかと思えてくる。そう思うと兄の息苦しさを、もっといえば生き苦しさを感じて胸が詰まる。