第4話
兄が帰ってきたのはその日の夜11時過ぎだった。家のすぐ隣の駐車場にマフラー音のうるさい車が一台止まると、ガラッと玄関の扉を引く音がした。あっ兄だ、と思うと体が硬くなった。
そのとき私はお風呂からあがった後で、居間にいて、濡れた髪をタオルでふきながら、なんとなくテレビを見ていた。好きでよく観るバラエティー番組は全然面白くなくて、その楽しげな音と光は古い家の乱雑で薄暗い部屋には不釣合いだった
兄の足音は玄関を上がると、居間には向かわず、居間とガラスの引き戸で仕切られた台所に入っていった。蛇口の水がコップに注がれる音がする。私は少しの間、兄の立てる物音を聞いていたけど、先に寝てしまった父から、正樹に伝えておけ、と言われた伝言を伝えるために、引き戸を少し開け台所を覗いた。ガソリンスタンドのロゴの入った作業服の背中が見えた。身長160センチ代中盤位の痩せていて小柄な兄の背中。数ヶ月伸ばしっぱなしといった感じのぼさぼさの髪にはキャップのアトがうっすらついていた。
「お帰り。」
この場合はただいまと言うのか、と私が考えながら声をかけると、兄はコップを流しにドンと置いて体半分だけ私の方を振り返った。約3ヶ月ぶりに帰ってきた妹が家にいるのに何の驚きもない、無表情、もしくは少し怒ったようなめんどくさそうな表情で。
「冷蔵庫にお寿司あるよ。あと明日はパンとかカップラーメンとかその戸棚に入ってるから自分で食べてね。」
壁際に二つ並んでいる食器戸棚の奥の方を指差しながら言った。私も無表情になっていた。兄を前にするといつもどんな顔をしていいのか分からなくなる。怒っていいのか、笑っていいのか。どちらにしろ返ってくるものはないんだから、感情をこめても自分だけバカみたいになるだろう。
「あと明日さくら苑のほうにお父さん連絡して、大丈夫だったら月曜日からはおばあちゃん預けられるって。2週間か3週間くらいだと思うけど。お母さんは1週間は検査入院だけどとりあえず安静が大事って感じで・・・。」
兄は冷蔵庫からお寿司の入ったお皿を持つと、うん、だか、うーだか分からない返事をして居間を通り抜け階段を昇って、自分の部屋のある2階に行ってしまった。はぁー。私は大きくため息をついた。言葉を最後まで聞かない兄に少し腹が立ったものの、この空間に兄がいなくなったことにほっとしていた。どうせ最後のおばあちゃんの話と母の話は別に兄にしなくてもいい、と父から言われていた。
童顔の兄はさっきみたいな顔をするとほんとにすねた中学生か高校生みたいだ、と私は思う。でもここ10年くらいの間、あんな顔しか見たことない。兄が母とも父ともだんだん話さなくなって、挨拶や簡単な返事すらしなくなって10年とちょっとの間。小学校のときはあの童顔でよく笑って、かわいいキャラとして女の子からもちょっと人気があったみたいだった。私が1年生のとき五つ上の兄は6年生で、1年生の私の教室を数人のお姉さんたちが覗いていたり、時には遊んでくれたりした。正樹君の妹の実加ちゃん。それが私の呼び名だった。小さいときは私たちは仲のよい兄妹で、兄は優しい兄だった。
兄と一緒に近くの田んぼにおたまじゃくしを捕まえに行ったとき、町内の駄菓子屋にお菓子を買いに行ったとき、兄は手をつないでくれたり、私の少し前まで走っていって、すぐ後ろを振り向いて私の名前を呼んでくれた。
「実加!」
あのときの兄の笑った顔を私はもう思い出せないでいる。でもその雰囲気だけは今よりずっと大人に見えていた。