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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

密偵のくすりゆび

作者: ミスター

 

 密偵のくすりゆび



 妻は僕の首元を正すと、その細く長い指でやさしく胸に触れてくれた。行燈のおぼろげな光の中で彼女の表情を伺うと、ほんの少しの妖艶さと、寂しさが見える。妻は傍に置いてあった小刀に手を伸ばすと、僕に手渡してしっかりと握らせた。ふっと顔を上げる彼女。

「気をつけてね、あなた」

 妻の整った顔を見て、僕はほんの少し体温を上げた。妻は美人だ。彼女以上に魅力的な女性に、僕は未だ出会ったことが無い。

「すぐに帰ってくる」

 彼女の不安そうな顔を見つめて囁く。不安そうな表情は変わっていない。

「嘘つきね、いつもすぐになんか帰ってこないわ」

「今夜は嘘をついたりしないさ」

「だから反対だったの……密偵なんて」

 妻は独り言のようにぶつぶつ言った。僕は妻と結ばれる前から密偵の仕事をしている。ずば抜けた身体能力だけが取り柄だった僕はその報酬に目が眩み、この仕事を始めた。密偵の仕事では、刀等を使ったりしない。大抵、情報を盗んでくるだけで済む。基本的に殺しは必要ない。

 密偵には、依頼人からの仕事を持ってくる雇い主がいる。依頼人からの報酬は莫大だが、金の大半は自分の雇い主に持って行かれてしまう。自分で売り込みに行き依頼人を得られる人間は単独で動くが、僕にそんな技量があるとは思えない。

「じゃあ、そろそろ行くよ」

 僕は妻に素早く唇をひとつ落とし、住み慣れない古びた家をするりと飛び出した。左手の薬指には、まだ真新しい、光を放つ誓いのしるしがあった。


 今回の依頼人は、とある大企業の代表取締役だ。依頼内容は、取引先の情報を手に入れること。今回は嬉しすぎる仕事だ。代表取締役との仕事で、報酬が安いことなどあるだろうか。これが成功したら、僕は妻にやっと胸を張って自慢できる。

 期待に胸を躍らせ、しかし今から実行すべきことに緊張感を持ち、目的の場所に辿り着いた。取引先の、代表の男がここにいる。男は所謂成金で、比較的裕福な暮らしをしているようだった。僕の家庭では考えられないような門が、そこにはあった。一階の部屋の一部には、仄かに灯りが点いている。つまり家主はまだ起きているが、少しばかり危険を冒す緊張感もたまには良い。

 暗闇に紛れ、素早く家の裏に回る。この家にはご立派な二階もある。軽々と塀に音も無く登り、ある種の羽のある動物のように二階の窓に飛びついた。窓は開いていた。

 そこは蔵だった。真っ暗な蔵に入ると、ぎしりと床が呻いた。臭いや足の感触からして、ずいぶんと埃を被っているようだった。目を凝らせばいくつかの家具が見える。そのほとんどは、煌びやかでまだ使えそうなものばかりだ。この男、よほど感覚が狂ってるとみえる。蔵には見たところ家具しか無い。欲しい情報を手に入れるには、危険ではあるが一階に下りなくてはいけなさそうだ。僕は出来るだけ足音や気配を殺し、丈夫そうな階段をすべるように下りていった。

 細長い廊下は月明かりがほんの少し射すくらいで、その先は絵の具を落としたように真っ黒になっていた。小さな丸い窓から窺うと、灯りの点いた部屋はもう少し遠い。この距離なら気付かれることは無いはずだ。今回の仕事は気味が悪いほど順調だった。妙な予感には、僕は気付かない。

 次に足を踏み入れた場所は、成金の書斎だった。これはしめた、仕事は終わったも同然だ――。僕はすぐに無人の部屋を歩き回り、情報を探して目をぎょろぎょろさせる。大量の古びた本の中に、欲しいものはすぐに見つかった。すると、いずれ手にする大金が目の前に浮かんだ。首を振るが、口元の緩みは抑えられない。胸元に書類を潜ませた。これを持って帰り、依頼人に渡す。そうすれば……。

 妻に、久しぶりに美味いものをたらふく食べさせてやろう。僕はそんなことを思った。

 書斎を出る。廊下を素早く横切り、開いていた小窓から外へするりと身を乗り出した。ふわっと涼しい風が吹き抜ける。どうやら、僕は興奮でほんの少し汗をかいていたらしい。何事も無く完璧に仕事を乗り切った。達成感はほとんど無い。

 この居心地の悪い場所からさっさとおさらばしようとした、そのときだった。この成金の家に、突然の訪問者が現れた。僕は素早く身を潜めた。土と葉のにおいが鼻をつんざいた。くそっ、あと少しだっていうのに――。

 それは女だった。高価そうな着物に身を包み、晴れているというのに大きな番傘を差してゆっくり優雅に歩いてきた。女はまっすぐ玄関口へ向かっていく。女は、その細く長い指でまたゆっくりと番傘を仕舞う。僕はその女から目を離すことが出来なかった。女の顔はここからは見えないのだが、振る舞いだけでも非常に妖艶で魅力的だった。

 女は何か一言言って戸を開けた。「ごめん」と言ったような気がした。影にのまれた成金の家へと入っていく。奴の恋人なのだろうか? 僕はほとんど無意識に、女の足音を耳で追った。やがて、野太い男の声がした。こいつがきっと成金だ……口内に肉を詰め込んで話しているような声だった。女の声は、あまり響かないのでよく聞こえない。二人はいくつか他愛無さそうな会話をしたが、すぐに家の中を移動し始めた。そしてその擦れるようなじれったい足音は、僕のいるすぐ脇の部屋へと転がり込んだ。

 それは、男女の発情する声だった。僕はきゅっと口の締まるような気持ちがした。接吻の音らしきものが続いてからまもなく、畳に倒れこむような音が短くした。物凄い現場に鉢合わせてしまった――。

 体を上げると、中の灯りから、二人の絡み合う姿が影になって見えた。二人は息を吐くようにして声を漏らしている。

 申し訳ないような、いたたまれないような気持になった。仕事はこなしたし、もうこれ以上ここに留まる必要もないだろう。僕はゆっくりと腰を上げた。

 そのときだった。

「××さま」

 女が、はっきりそう言った。

 頭から血の気が引いて体が硬直するのがわかった。目の前が一瞬真っ暗になって、そして真っ白になった。すべての記憶が、情報が、一気に吹き飛んだような感覚。上も下もわからないくらい、くらくら地面が揺れた。

 成金の名は依頼されたときすでに聞いていた。だから名など今は重要なことではない。それよりも耳を疑うことがある。女の声は、想像通りの妖艶な声だった。そして、妻のそれであった。




 夫は密偵をやっている。私はそれを容認するまでには至らずとも、仕事があれば送り出し、無事に帰れば労いの言葉をかけてやった。少なくとも私の心配は嘘ではなかった。しかしそれは夫の身を案じるものではない。彼の仕事がどう考えたって普通じゃないという心配だった。夫は新婚生活の費用を稼ぐためだと毎晩のようにぶつぶつ言ったが、別にあんな非合法的な仕事をしなくたって、ぎりぎり食べていくことくらいは出来たはずだ。もし捕まったらどうする? 盗みは盗み、殺しは殺し。法を犯すことに変わりはないのだ。危険すぎる。私にとって。

 彼の妻になったことをひどく後悔していた。もっと私に相応しい相手がいたはずだった。収入はあるためあの魚屋やあの飲み屋の主人でも良かったのだが、彼らの見かけはあまりに理想とは違った。しかし、あの男は違った。彼は私の理想そのものだったのだ。自慢の夫。そうなるはずだった。彼が馬鹿げた仕事をしているということを知ったのは、彼と劇的に結ばれてしまった後なのだ。

 やがて、ある成金と関係を持った。奴は関わった中でも最低の野郎だったが、最高に金を持っていた。私が知る限り一番の大金持ちだった。成金は私が股を開けばすぐに好きなものを差し出した。私に必要なのは金だけだった。あの夫ではダメだ。あんな窮屈で退屈で臭い場所では嫌なのだ。だから金を手に入れる。出来るだけ多く、ただ多く。

 今夜も成金野郎の家に行った。もう体を売るような真似はうんざりだったが、金のためならと辛抱出来た。近所の住人に噂を立てられては一貫の終わりなので、顔を覆う大きな番傘を差して向かった。夫にも見せたことのない高価な番傘だった。細くて軽い安物の指輪は外していった。

 冷たくて大きな家に乗り込むと、早速成金が気持ちの悪いものを見せつけてきた。もう少し休ませてくださいなと言うと、もう待ちきれないと薄ら笑いを浮かべられた。ほんとうに気持ちの悪いことこの上なかった。成金は私にしがみつくように襲いかかる。さてここから長い辛抱だ。終わればいつものように金を渡してくれる。ちょっと目をぱちぱち瞬かせればいいだけだ。

 いつもの和室に転がり込んだ。成金はますます私を求めてくる。眉間にしわを寄せたくなったが、奴を満足させてあげなければならない。でなければいつもの報酬は泡と化す。一声名前を呼んでやれば、犬のように尻尾を振るだろう。

「××さま」

 奴の耳元で言ってやった。彼はご満悦のようだ。我ながらいい仕事をしていると優越感に浸っていた。

 そのときだ。

 縁側の障子が勢いよく吹き飛んできた。思わず甲高い声を上げる。成金は夢中になっていた唇を鈍い音で引き離して、うわあと大声で叫んだ。

 男が佇んでいた。すらりと背は高く、筋肉が程よく締まっていた。こんな状況にも関わらず、その男を何故か愛しく感じた。

 しかし愛しさはすぐに畏怖に変わった。男は獣のような息遣いをしていたのだ。それは憤りに満ちていたのだ。この男は怒り狂っている。私は身の危険を感じて、ほとんど裸のまま床を這いつくばった。成金が何事か喚き、私の着物を引っ掴んでぐいぐい引き寄せる。情けない男! 思わず悪態をついた。

 佇んでいた男がきっと成金を睨んだ。成金がまた変な声を上げた。男が足を踏み出した。ずるりという音がした。成金野郎が助けを求めながら私にくっついてくる。私は離せと叫んだ。成金の顔を踏ん付ける。

 男が突然、成金の少ない髪を引っ掴んだ。すると、脇から小刀を取り出し、一気に首を引き裂いた。

 今度こそ本物の恐怖が急激に体を襲う。私はまた金切り声をあげた。願わくばこの声がどこか素敵な紳士に届き、私をこの悪夢から救い出してくれればと思った。

 成金の首からは生ぬるい液体がどんどん溢れ出てくる。また成金が何か言った。しかしもう聞き取ることは不可能だった。男がまた小刀を振り上げた。成金の体だけが籠った音を立て畳に叩きつけられた。その体には首が無かった。

 私はただその様子を動くことも出来ずに見ていた。ただ救いの手が欲しかった。今の状況では逃げることは出来ない。冷えた股が生温かくじんわりと濡れた感触がした。

 男が、ついに私のほうに振り向いた。また足をずるりと伸ばし、どんどん近づいてくる。男が、血まみれの小刀を振り上げた。私も殺すつもりなのだろう。理由がわからないのが心残りだ。絶対恨んでやる。恨んでこの男を呪ってやると、振り下ろされる刀を見て思った。

 刀の先が首にめり込んだその瞬間、この男の左手が月光で輝いた。

 指輪?

 私は頭が冷えるのを感じた。この男。この男は。飛沫が上がった。この男は、この男とは、私の夫だったのだ。

 意識が飛んでいく瞬間、彼をひどく愛しく思った。この男は私の夫。私の理想の夫。自慢の夫。私の汚れた人生に幕を下ろすただ一人のひと。




 鮮血が月光できらきらと輝いていた。その和室には一人の男と、ふたつのものがあった。ひとつは太った男の亡骸だった。もうひとつは、女の亡骸。女の表情は美しかったが、目を開けたままもう動かない。地獄絵図のような場所に佇んだ男は、何も言わなかった。ただ静かに涙を流していた。彼にとって真実はあまりに大きすぎたのだ。彼はあまりに動かされてしまった。

 そうして男は何事か口で囁いた。それは、女に対する軽蔑の言葉だった。

 男は月光のほうに振り返った。再び左手の薬指を月光に輝かせると、そのしるしを引きちぎるように引っ張って、汚れた血だまりに捨てた。

 彼は生まれ変わったのだ。彼の気持ちはひどく穏やかだった。むしろ心地良い気分だったのだ。彼は薄ら笑いを指でなぞると、その血なまぐさい家を飛び出して、月光の影にまた紛れるのだった。




 

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