第2話: 辺境の廃屋
クロスロードの朝は、三つの匂いで始まった。
西の王道から漂う焼きたてのパンの香ばしさ。北の鬼道の方角から運ばれてくる鉄と煤の乾いた匂い。東の獣道から吹き込む風には、草原の野花と獣の毛が混じった匂いが乗っていた。
ティセ・ヴァルフォードは街道脇の大木の根元で目を覚まし、深く息を吸った。
——三つの暮らしが、ひとつの風の中にある。
昨夜は暗がりの中、この木の根元に身を寄せて眠った。母の絹雲紗を胸に抱き、裁縫道具のポーチを枕にして。公爵令嬢にはおよそ似つかわしくない一夜だったが、不思議と嫌ではなかった。
腰の裁縫道具入りのポーチは無事だ。母の絹雲紗も——ティセは布の状態を指先で確かめた。朝露に少し湿っているが、二十年を経た絹の艶は健在だった。
体を起こすと、蜜色の三つ編みに小さな枯れ葉が二つ絡まっていた。指先で取り除きながら、ティセは町の方を見た。
騒がしい。
昨夕の静かな夕暮れとは打って変わって、町の中心から人の声、金属の打ち合う音、家畜の鳴き声が入り混じって聞こえてくる。
「春市……ですの?」
ティセは立ち上がり、スカートの裾についた土を払った。空腹の胃が小さく鳴ったが、そんなことより気になるものがあった。
町の通りに、あらゆる種族が溢れている。
クロスロード春市は年に一度の大交易市だった。
三本の街道が交わる広場に色とりどりの天幕が立ち並び、大陸の各地から商人と買い手が集まる。ティセが追放されたのは、偶然にも——あるいは運命的に——この春市の初日と重なっていた。
だが、ティセの目が追ったのは商品ではなかった。
翡翠色の瞳が鋭くなる。万糸の目。
まず目に入ったのは、広場の西側に固まる人間の商人たちだ。仕立ての良いジャケットとベスト。身分を示す色の序列が一目で分かる——金糸の刺繍が入った紫のジャケットは上位の大商人、青い裏地に銀の飾りボタンは中堅どころ、茶色の無地は下働きの見習い。
そしてティセの万糸の目は、三人の商人の服の裏地に押されたギルド印を透かし見た。ノワール。王都の服飾ギルドの紋章だ。辺境の交易市にまで、ギルドの服が流通している。
(ギルド認定の仕立て師が作った服。……けれど、全部同じ型紙ですわ。まるで判を押したように同じ肩幅、同じ袖丈。着る人の体ではなく、ギルドの型に体を合わせろという設計思想)
北側に目をやると、鬼族がいた。四人。いずれも人間の倍近い体躯で、大きな布を体に巻きつけただけの出で立ち。角には布の袋——角カバーを被せている。
ティセの万糸の目が、彼らの衣服を走査した。
縫い目がない。裁断すらされていない生地を、ただ巻いているだけ。ところどころ擦り切れ、端は解れている。汗と雨を何度も吸って硬くなった布が、大きな体に食い込んでいた。
(これは服じゃない。ただの布。あの角の美しい曲線を隠して、窮屈に体を縛って——)
東側には獣人。犬耳の少年が走り回っているが、上半身は裸で、下半身は人間の子供用ズボンの尻尾のあたりを雑に鋏で切ったものを穿いていた。切り口がほつれて白い糸が垂れ下がっている。尻尾はズボンの穴から無理やり出されていて、走るたびに布が擦れて痛そうだった。
翼を持つ鳥獣人の女性は、背中の翼の付け根だけを麻布で覆い、他は露出したまま。春風に肌が粟立っている。翼を畳むたびに、布の結び目が引っ張られて肩に食い込んでいた。
ティセの胸が痛んだ。昨夜の舞踏会で感じたのと同じ痛み。
——全員、合わない服を着ている。あるいは、服すら着られないでいる。
気づけば足が動いていた。
「あの、失礼いたしますわ。そちらの角カバー、角の付け根を圧迫していませんこと? 長時間つけていると頭痛がしませんか?」
鬼族の男が振り返った。ティセの三倍はありそうな体躯が、見下ろすように影を落とす。琥珀色の目が、怪訝そうに細まった。
「……何だ、人間の小娘か。何の用だ」
「いえ、その布の巻き方ですと、左肩の三角筋を圧迫していますの。もう少し斜めに、ほら、ここの角度を二十度ほど変えるだけで——」
ティセは手を伸ばしかけた。
鬼族の男が一歩引いた。周囲の鬼族も身構える。
「触るな」
低い声だった。威嚇ではない。むしろ——戸惑いに近い拒絶だった。
「こっちに来るな、人間。鬼族の場所に入ってくるんじゃねえ」
別の鬼族が割って入った。
ティセは足を止めた。そしてようやく気がついた。
広場は見えない線で区切られているのだ。西に人間。北に鬼族。東に獣人。商品は行き来するが、人は越えない。天幕の色も、敷物の材質も、区画ごとに違う。まるで三つの祭りが、同じ場所でたまたま隣り合っているだけのように。
(五歳の時と——同じですわ)
クロスロードの秋祭り。同じ祭りに来ているのに、別々の場所で、別々の服を着て、別々に踊っていた人々。あの時わたくしが感じた違和感は、十二年経っても何も変わっていなかった。
ティセは黙って人間の区画へ戻った。万糸の目が、視界に入る全ての布を自動的に走査し続ける。鬼族の腕に食い込む布の目。獣人の子供の裸の背中に浮いた鳥肌。人間の商人たちの画一的な仕立て——すべてが情報として翡翠の瞳に飛び込んでくる。
——止まらない。
視界がちらついた。こめかみの奥に鈍い痛みが走る。
万糸の目を長く使いすぎていた。昨夜の舞踏会からずっと——王宮でも、護送の馬車の中でも、この町に着いてからも——目が休まる暇がなかった。見えてしまうのだ。見たくなくても。合わない服を着ている人が目に入れば、万糸の目は勝手に原因を解析し始める。
「……っ」
目を閉じ、指先でこめかみを押さえた。膝が揺れた。
「おい嬢ちゃん、大丈夫かい」
声をかけたのは、人間の区画の端で焼きパンを売っている中年の女性だった。日焼けした肌に、使い込まれた亜麻のエプロン。ノワールのギルド印はない。辺境の自立した職人の手をしていた。短く切られた爪、指先のタコ、小麦粉で白くなった手の甲。
「すみません……少し目が疲れてしまって」
「朝から何も食べてないんだろう。ほら、これでも食べな。春市の初日は客が来るかどうかも読めないんだ、一つくらいどうってことないさ」
差し出された焼きパンは、黒パンに木の実を練り込んだ素朴なものだった。受け取ると温かい。焼きたての匂いが鼻を抜け、空っぽの胃が切なく鳴った。
「ありがとうございます。あの——お名前を聞いてもよろしいですか?」
「ミラだよ。あんたは?」
「ティセですわ。ミラさん、一つお聞きしてもよろしいですか? この町に、仕立て師のお店はございますの?」
女性は首を傾げた。
「仕立て屋? ここは辺境だよ。服は王都から持ってくるか、自分で繕うかだ。まして——」
女性は北の区画に視線をやった。角カバーを被った鬼族の背中が見える。
「——他の種族の服を仕立てる者なんて、いないね。ノワールが許さないし、そもそもやりたがる人間がいない」
ティセは黒パンをかじった。木の実の香ばしさが口の中に広がる。体に力が戻ってくる。
そして——焼きパン屋の女性の肩越しに、町の外れに建つ一軒の建物を見つけた。
「あの建物は何ですの?」
「ああ、あれかい。昔の交易所の跡さ。五十年前——この町ができた頃に最初の交易所として建てられたんだが、もっと大きな集会場ができてからは使われなくなってね。今じゃ物置にすらなってない」
「持ち主はいらっしゃいますの?」
「いないよ。建てた世話役はとっくに死んでるし、今は町の共有地さ。使いたきゃ月一の合議会で顔出しときな。五十年間、手を付ける物好きもいなかったんだ——文句言う奴はいないだろうよ」
焼きパンを食べ終えたティセは、まっすぐその建物に向かった。
近づくと、思ったより大きかった。
二階建て。石積みの基礎に木造の上部。屋根の一部が抜け落ちていて、そこから春の陽光が差し込んでいる。蔦が壁の半分を覆い、窓の鎧戸は蝶番が錆びて半開きのまま固まっていた。
だが——
万糸の目が建物を読んだ。
布の目を読むように、建物の骨格を読んだ。石積みの基礎は五十年の歳月を経てなお据わりが良い。柱は太い樫の木で、虫食いはあるが芯は通っている。壁板は腐食しているが、骨組みを活かして取り替えれば使える。
そして何より——この建物は、三本の街道のすべてに面していた。
西の窓からは王道が見える。北の窓からは鬼道。東の窓からは獣道。
どの種族の区画からも、等しい距離にある。春市の喧騒からは離れているが、三つの道を行き来する誰もが、この建物の前を通る。
「……完璧ですわ」
ティセは鎧戸を引いた。錆びた金具が悲鳴を上げたが、力を込めると開いた。春の光が埃っぽい室内に流れ込む。
床は厚い埃に覆われている。壁の隅に朽ちた棚。天井は——穴が開いているが、その穴から青い空が覗いていた。
一階は広い。中央に採寸台を置ける。壁沿いに生地の棚を並べられる。窓際に裁断台を据えれば、自然光で朝から夕暮れまで作業ができる。
二階への階段は傾いているが、踏み板は残っている。上は住居にできるかもしれない。
ティセは埃まみれの床の中央に立った。
三方の窓から、春風が吹き抜けていく。西からパンの匂い。北から鉄の匂い。東から草の匂い。
ここなら、人間も来る。鬼族も来る。獣人も来る。
どの種族の区画にも属さない。だからこそ、全ての種族に開かれている。
五十年前にこの建物を建てた人は——もしかしたら同じことを考えていたのかもしれない。すべての種族が、同じ屋根の下に集まれる場所を。
「お父様」
ティセは胸に抱いた母の絹雲紗にそっと語りかけた。
「ここにしますわ。ここが——わたくしの工房です」
裁縫道具のポーチを腰から外し、埃だらけの棚の上に置いた。革のポーチが乾いた音を立てた。
針と糸と鋏と巻き尺。それと、母の絹雲紗。それだけが、ティセ・ヴァルフォードの全財産だった。
スカートの裾をたくし上げ、掃除を始めた。
公爵令嬢が生まれて初めて、自分の手で床を掃く。箒がないので手近な枯れ枝を束ねて代用した。埃が舞い上がるたびに咳き込みながら、それでも手は止めなかった。
蔦を壁から剥がした。窓を全て開けた。崩れた棚板を外に出した。
裁縫で鍛えた指先は器用だったが、力仕事には向いていない。石くれを運ぼうとして腰が悲鳴を上げ、蔦を引き剥がすたびに指先に棘が刺さった。
それでも——ティセは笑っていた。
夕暮れが近づいた頃。
ティセは疲れ果てて、掃除の済んだ一角に座り込んでいた。まだ床は汚いし、壁は傷んでいるし、屋根には穴が開いている。だが少なくとも、この場所はもう「廃屋」ではなかった。
誰かが使おうとしている建物だった。
西の窓から夕陽が差し込んでいる。王道の向こうに沈む太陽が、石積みの壁を橙色に染めた。
——どん、どん。
地面が微かに揺れた。
重い足音。人間のものではない。
北の窓に目をやると、鬼道から一つの影が近づいてくるのが見えた。夕陽を背にした巨大なシルエット。岩のような肩幅。そして——頭頂部から左右に湾曲する、一対の角。
右の角に、深い刀傷があった。
影は廃屋の前で一瞬だけ足を止めた。開け放たれた窓から差し込む夕陽の光に、琥珀色の目が細まる。中を覗くように——しかし何も言わず、そのまま通り過ぎていった。
体に巻きつけただけの黒い布が、歩くたびにずれている。左肩から何度も滑り落ちかけては、太い腕で苛立たしげに押さえ直していた。
ティセの指先が、無意識に針を探していた。
最後まで読んでいただきありがとうございました。
「三つの匂い」から書き始めたのは、クロスロードという町の本質を一行で伝えたかったからです。三つの文化が混ざり合わない——でも同じ風の中にある。この冒頭を書いた時に「ああ、これがこの町だ」と腑に落ちました。
春市の場面で一番書くのに迷ったのは、ティセが鬼族に「触るな」と拒まれるシーンでした。彼女は善意しかないんですよね。でもその善意が、見えない境界線を踏み越えてしまう。しかもティセは拒まれてもまだ「なぜ?」と本気で分からない——この鈍感さが彼女の強さであり、同時に周囲を振り回す原因でもあります。
「どの区画にも属さない場所」を工房に選ぶのは、ティセが無意識にやった選択ですが、五十年前にここを建てたトーマス・クロスとオーグも同じことを考えたのかもしれません。
次回、あの角の傷の持ち主との出会い。そして——合わない服を着た大男に、ティセは何を見るのか。
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