27 ノイズ
翌日。
練習室の時計の針は、重りのついた鎖で縛られたように進みが遅かった。
「ワン、ツー、スリー、フォー」
桐生のカウントに合わせて、練習に戻ってきた真琴が手足を動かした。昨日と打って変わって正確で、ズレはない。その顔には能面のように不気味な笑みが貼りついている。叱られないように、怒鳴られないように。ただ正解をなぞるだけの機械のような動き。
(もう見ていられないな)
真琴は防衛本能で心のシャッターを下ろしている。それは、他のメンバーも同じだ。
器用貧乏なユズルは怯えた子犬のように桐生の顔色をうかがっているし、直情型の湊人は不満を腹の底に溜め込み、いつでも爆発しそうだ。
トウマも、シオンも、イブキも、ただ黙々と課題をこなすだけ。管理された作業をこなすだけの集団に成り下がっている。
「うしッ! ちょっと休憩しようぜ!」
パンッ! と乾いた柏手が鳴る。ARATAだ。
彼は努めて明るい声を出して、ペットボトルの水を配り始めた。
「みんな顔が死んでるって! ゾンビ映画のオーディションじゃねーんだからさ! ほら真琴、水飲め水!」
「あ、ありがとう」
「湊人も眉間にシワ寄りすぎ! 可愛い顔が台無しだぞ」
「可愛いって言うな!」
すごむ湊人に、ARATAが「ひえぇ、怖!」と大げさにのけぞってみせる。その滑稽な動きは、お調子者のピエロみたいだ。その裏にARATAの必死さがにじんでいる。窒息しそうな空気に風穴を開けようとあがいているのが、痛いほど伝わってくる。
「そうだ、見てよこれ! 昨日のタクミの真似!」
ARATAが髪をかき上げ、キメ顔を作った。
「『ユア、マイ、プリンセス。君の王子さまは僕だよ』なんてね! どう? 似てね?」
普段なら確実に誰かが吹き出していただろうクオリティだった。
だが、今は誰も笑わない。笑う余裕すらないのだ。真琴は力なく口元を引きつらせただけで、視線を床に落とした。
すべった空気の中、それでもARATAは笑顔を崩さず、次のネタを振ろうとした。
その時。
「うるせえな」
冷ややかな声がその場を凍りつかせた。桐生だ。
彼はタオルで汗を拭いながら、蔑むような目でARATAを見ていた。
「練習の邪魔だ。休憩中もイメトレしろって言ったよな?」
「いや、ちょっと空気を変えようかと」
「空気? そんなもん変えてダンスが上手くなるのか?」
桐生がARATAに歩み寄る。
「お前のそれは逃げだ。実力がないからってヘラヘラして誤魔化すんじゃねえよ。寒いんだよ、お前の学芸会は」
その言葉にARATAの動きが止まる。笑顔がガラス細工のように砕け散り、反論もせずうつむいてしまう。
「桐生くん、言いすぎです」
JOの仲裁に、桐生が鬼気迫る顔でJOを睨みつける。
桐生の言葉は正論だ。だが正論は、時に人の逃げ場を完全に塞ぐ凶器になる。
こうなるともう、誰も話せなかった。ムードメーカーを失った練習室は完全なる沈黙と、靴が擦れる音だけが響く監獄みたいだ。
*
(やっぱり駄目だよな、このままじゃ)
その日の夜。
まずはリーダーのJOに相談しようと寮の廊下を歩いていると、自販機コーナーのベンチに人影を見つけた。
ARATAだ。彼はまだ開けていない缶コーヒーを両手で握りしめ、背中を丸めている。
声をかけようとした時、反対側から別の影が近づいていったのを見かけた。強面のトウマだ。俺はつい、柱のかげに隠れた。
トウマは見た目こそ怖いが、繊細な心を持つ男である。トウマは何も言わずにジュースを買うとARATAの隣へ座り、自分の分のジュースを開けた。
「……トウマか」
「おう。お疲れ」
短い会話のあと、沈黙が流れる。
やがて、トウマがボソリと言った。
「俺はお前の声に救われてたよ」
「え?」
「俺、顔が怖いだろ。だから、最初はどうしても距離ができるんだ。みんな遠巻きに俺を見て、ビビってさ」
トウマは自嘲気味に笑う。
「でもこのチームになって、お前だけは最初から『トウマくん!』って、バカでかい声で呼んでくれた。……嬉しかったよ」
トウマがそんなことを感じていたなんて、俺も知らなかった。強面だ、という印象が強く色眼鏡で見ていたことを反省する。
トウマは続けた。
「ARATA。お前が笑うと、俺も息ができる。安心する。だから、やめるなよ」
頼むような声だった。ARATAは唇を噛み締め、首を横に振る。
「無理だよ。桐生の言う通りだ。俺には実力がない。ダンスも歌も半端で、みんなの足を引っ張ってる」
ARATAの声が徐々に震えていく。
「俺にできることなんて、ヘラヘラして、場を和ませるくらいしかねえじゃん。それなのにさ、それすらノイズって言われたら俺、ここにいる意味ねえじゃんか」
ARATAの目からポロポロと涙がこぼれ落ちた。
今までずっと、笑顔の下に隠していた不安。自分は空っぽだという劣等感。それが決壊する。
俺は隠れていた柱の陰から歩み出た。
「何言ってんだよ。意味はあるぞ。大ありだ」
二人が驚いて振り返る。
俺はARATAの前に立ち、彼の目を真っ直ぐに見据えた。
「桐生は正しい。技術を磨くこと、真剣に向き合うこと、それはプロとして絶対に必要なことだ」
俺が桐生を肯定すると、ARATAはあからさまに苦しそうな顔をする。
「でもな、ARATA。正しさだけじゃ、人は動かないんだよ」
俺は社畜時代の記憶を重ねていた。
完璧な論理で部下を追い詰める上司。その下で心が死んでいく同僚たち。
機能不全に陥った組織が必要としているのは、正論ではない。それを受け止めるためのエネルギーだ。
「エンジンだけあっても車は走らない。オイルがなきゃ焼き付くし、ガソリンがなきゃ動かせない。今のチームは桐生という高性能なエンジンが空回りして、焼き付く寸前だ」
俺はARATAの肩を掴んだ。
「お前はふざけてるんじゃない。全員の顔色を見て、空気が淀まないように必死でポンプを押してたんだろ? みんなのエネルギーになっている。それができるのは、才能じゃないか」
「才能? 大げさすぎでしょ。俺はただのお調子者だぜ?」
「違う。お前はハイプマンだ」
「ハイプマン?」
ARATAがこちらを見上げる。俺はうなずいた。
「ああ。ヒップホップに欠かせない盛り上げ役だよ。客を煽り、MCを盛り上げ、会場の熱狂をコントロールする司令塔。今のWildfireに足りていない要素」
ARATAの瞳が揺れる。
「俺たちは優等生じゃない。だからって、委縮してる場合じゃないんだ。だからこそお前のバカでかい声で、俺たちの心に火をつけてくれ。それは桐生にだってできない。わかるだろ? それができるのは、お前だけだ」
隣で聞いていたトウマも、不器用にARATAの背中を叩く。
「ほんと、そう思う。頼むよARATA。俺たちに気合いを入れてくれ」
ARATAがぎゅっと口を結んで、少し考え込んだ。しばらくしてARATAは大きく息を吸い込み、ニカっと笑う。
「ヘイヘイヘイ、やってやろうじゃないの! この俺が! ぶちかましてやんよ! ついてきやがれ野郎ども!」
調子に乗ったARATAが立ち上がる。頼もしい奴だ。俺が笑うと、トウマも一緒になって笑った。久しぶりに心から笑えた気がした。
*
翌日の練習も、空気は相変わらず重い。
桐生が冷たい目で再生ボタンを押そうとする。全員がまた始まる地獄に身構えた。
その時。
「よっしゃあぁぁぁぁッ!」
雷のような大声が練習室を揺らす。全員がビクッとして振り返った。
ARATAだ。彼は部屋の中央で、仁王立ちになって叫んでいた。
「野郎ども、気合い入れろやァァ! 辛気臭いツラしてんじゃねえぞ!」
桐生の手が止まる。
「おい。またふざける気か」
「ふざけてねえ! 本気だ!」
ARATAは桐生を睨み返した。足は震えていたが、もう目は逸らさない。
「間違ってもいい! ズレてもいい! とりあえずデケェ声を出す! 死んだ顔で踊るよりマシだろ!」
彼は激しく手を叩き、リズムを取り始めた。
「One, Two! Make some noise!! 行くぞオラァ!」
その馬鹿みたいな熱量に、湊人が「くっ」と吹き出した。
「うるせえよバカ! 鼓膜破れるわ!」
「おい湊人なんか言ったか! 聞こえねえなあ! もっと腹から声出せよ、オラ!」
「はぁ⁉ 上等だオラァ!」
湊人が吠える。つられてトウマも「うぉぉぉ!」と野太い声を上げた。
真琴が驚いたように目を見開き、それから小さく笑った。
「……ぷっ。あはは! 何だよそれ!」
音楽が鳴る。
ダンスはまだバラバラだ。桐生の求める完璧さには程遠い。だが、死んでいた空気が動いた感触はあった。
全員が声を出し、汗をかき、生き生きと体をぶつけ合っている。これこそWildfireなんじゃないか?
曲が終わると、全員が床に倒れ込んでハァハァと息をした。苦しいだけの呼吸じゃない。充実した熱が混じっている。
桐生は腕を組んで立っていたが、やがて小さく舌打ちをした。
「チッ。うるさいハエだ」
桐生のその声に怒りはない。ARATAのような存在が今のチームに必要だと、桐生もわかったのかもしれない。
ARATAは汗だくの顔で、俺の方を見てニカっと笑い、親指を立てた。俺も親指を立て返す。
中間評価まであとわずか。本当の試練はここからだ。




