10 彫刻と戦友
深夜二時。
眠れなかった俺は水を飲みに行きがてら、ふと、なんとなく、レッスン棟へ足を向けた。
深夜のレッスン棟は、墓場のように静まり返っている。
……はずだった。
ドサッ。……ズザザッ。ドサッ。
真っ暗闇の静寂を、異質な音が引き裂く。
それは、リズミカルなステップ音ではない。
まるで重たい肉塊が何度も床に叩きつけられるような、鈍く、痛々しい音。
(……なんだ?)
俺は廊下の角で足を止め、息を殺した。
第三レッスン室。ドアの隙間から漏れる明かりはない。真っ暗闇。だが、音はそこから聞こえてくる。
俺は吸い寄せられるように、ドアの小窓から中を覗いた。廊下の非常灯が、室内の光景をわずかに切り取る。
「……ひッ」
喉の奥で小さな悲鳴が漏れた。
そこにいたのは、スバルだった。だが、俺の知る彫刻のようなスバルではない。
(なんだ、これ)
音楽もかけず、暗闇の中で、彼は踊っていた。着地をするたびに膝が崩れ、床に倒れ込む。それでもゾンビのように立ち上がり、また空へ飛ぶ。
美しい金髪は汗でデロデロに張り付き、その瞳は焦点が合わず、虚空を見つめていた。
(練習じゃないだろ、こんなの)
俺は迷わずドアを開けた。電気をバチンとつける。
「スバル! 止めろ!」
俺の声にスバルがビクリと震え、バランスを崩して派手に転倒した。
俺は駆け寄り、彼の体を抱き起こす。熱い。それに――。
「なんだよ、この足」
俺は絶句した。
白いダンスシューズが、どす黒く変色している。
俺は震える手で、彼の靴紐を解いた。
布を剥がした瞬間、鼻をつく鉄錆のような血の匂い。テーピングの下の皮膚はめくれ上がり、爪は割れ、肉が見えていた。まるで、ガラスの破片の上で踊り続けていたかのような惨状。
「……離して」
スバルが、掠れた声で拒絶する。
彼は痛みに顔を歪めることもなく、能面のような無表情で俺を見上げた。
「まだ、ノルマ終わってないから」
「ノ、ノルマ? バカ言え! こんな足で踊れるか!」
「うるさいな」
スバルの瞳の奥にある、昏い光。
ゾクリ。
俺は背筋が凍った。俺は、この目を知っている。
(竹内――)
かつて、俺の部下だった優秀なプログラマー。
彼は納期前日、血尿が出ているのを隠してキーボードを叩き続けていた。
『僕が止まれば、システムが止まる。バグを出したら、僕には価値がない』
そう言ってデスクに向かい続けた彼は、翌日、会社のトイレで倒れた。そして、二度と戻らなかった。
(クソッ)
竹内と同じじゃねえか!
完璧でなければ生きている価値がない。そう思い込んだ、強迫観念の奴隷。
今のスバルはあの日の竹内と同じ目をしている。
俺はスバルを無理やり壁際に座らせ、救急箱を広げた。消毒液をかけると、傷口が泡立つ。それでも彼は眉ひとつ動かさない。
「どうしてここまでやるんだよ」
俺は包帯を巻きながら、低い声で問う。
「君のダンスはもう完璧だろ? 機械のように正確で、美しい。これ以上無理をする必要はないはずだ」
「……機械」
スバルがその単語に反応する。
彼は膝を抱え、自身の血の滲んだ包帯を見つめたまま、独り言のように呟いた。
「そう。機械でいい。それでいい」
「スバル?」
「心がなければ、間違えない。感情がなければ、誰も傷つけないから。僕は、機械がいい」
スバルの唇が震え始める。
「スバル、何か……あったのか?」
俺の問いかけに、スバルは目をぎゅっとつむった。
拒絶。
俺はしばらくスバルの様子を見ていた。静寂がレッスン室を包むなか、スバルが少しずつ口を開く。
「僕には、親友がいたんだ」
スバルは去年、海外の養成所にいたそうだ。
そんなスバルの隣には、共にデビューを誓った、太陽のような笑顔の親友がいた。
スバルと親友は一緒に、毎日練習に明け暮れた。
契約更新が決まる審査の日。
スバルの横で一緒に審査を受けた親友は、プレッシャーに押し潰され、盛大にミスをした。結果、スバルは合格し、親友は不合格。
去り際、親友は泣きそうな笑顔で、スバルにこう言った。
『お前はいいな。完璧な人形で。……焦りも、恐怖もなくて。こんなミスなんか、しないもんな』
うらやむような、恨むような口調で言い残した親友が去って行く。
それ以降、彼とは音信不通になってしまったという。
スバルが目を閉じる。
そんなスバルの白い頬を、ひとすじの涙が伝った。
「あれから僕は、人間らしい失敗が怖くなった」
スバルは自分の胸を強く握りしめた。爪が身体に食い込む。
「ミスをしたら脱落する。感情は、ミスの元だ。感情さえ無ければいい。感情さえなければ、彼の言った通り、僕は完璧でいられる」
「スバルは、完璧でいたいのか?」
なんでだよ、という気持ちを含んだ声でスバルに問う。
スバルは彫刻のように美しい顔をこわばらせた。
「完璧なら、少なくとも彼を失望させないでしょ」
スバルが言う。
「彼よりも一歩先へ駒を進めた僕は、彼にかっこ悪いところを見せられない。僕が完璧じゃなかったら、僕より先に脱落した彼はどうなっちゃうの? 僕は彼に、みじめな思いはさせたくない。僕はずっと、完璧でいたい」
完璧でいたい、親友のために。
それはあまりに悲しい論理だった。思いやりが、変な方角を向いている。
それでいいのか? 違うだろ。
俺は包帯を巻き終え、大きく息を吐いた。そして、スバルの隣にどっかりと座る。
ただのチームメイトとしてじゃなく、一度死んだ、くたびれたサラリーマンとして、言いたいことがある。
「昔さ。俺の知り合いにもいたんだよ、完璧を目指してた奴」
優秀な部下だった竹内を思い出す。
俺は天井を見上げて語り出した。
「そいつもみんなのため、組織のために完璧であろうとした。でもさ、それを自分に強いて、結局自分自身がつぶれちゃったんだ。――まあ、具体的に言うと、死んじゃったんだけど」
スバルが顔を上げ、俺を見る。
「馬鹿野郎、って思ったね。仕事ばっか完璧にして、なんで自分を大事にしなかったんだよって。みんなのため犠牲になって、お前がここから居なくなっちゃったら、これから先どうしたら良いんだよって。お前はどうしたかったんだよ、って」
言いながら、俺は人のことを言えないなと苦笑した。
過労死ギリギリまで働いて、事故って死んだ自分は、竹内と変わらない。馬鹿野郎だ。
「完璧だから価値があるんじゃない。『スバル』という人間がここにいること自体に価値があるんだ。心を閉ざして、機械になろうとしなくていい。スバルとして心を込めて作るパフォーマンスを、その親友さんも見たいんじゃないか?」
俺はスバルに向き直り、彼の冷たい手を両手で包み込んだ。
「たぶん、感情を捨てて淡々と踊るキミの姿を見たら、親友さんは後悔するよ。自分の言葉でキミの良さを奪ってしまった、って。スバルの心を、悪い意味で奪ってしまった、って」
スバルの瞳が大きく揺れる。喉から、空気の漏れるような音がした。
決意するように、スバルが言う。
「僕、心を込めて、踊ってみたい」
俺はうなずいて、楽曲の再生ボタンを押した。
本当はこの足で踊るべきではないだろう。それでも、今、この瞬間に踊ることが、スバルにとって意味を持つ気がした。
ドンッ! 重低音が、深夜の空気を振動させる。
「スバル! その血だらけの足で、泥臭くあがいてみろよ!」
俺の野次に、スバルが力強くうなずく。
スバルは激しいビートに合わせ、髪を振り乱した。その動きから、美しさという枷が外れる。腕を振り上げ、床を蹴り、空を掴む。顔を歪め、歯を食いしばり、喉の奥から獣のような声を漏らす。
「う、ああああァァァッ!」
それは、ダンスというより雄たけびだった。
言葉にできなかった親友への想い。パフォーマンスにかける決意。抑えていたすべての感情を、ひとつひとつの動きに乗せる。
「――ッ!」
荒々しいのに、美しかった。
綺麗な人形が内側から破壊され、中から熱い血の通った人間が飛び出してくる。痛々しくて、人間臭い。それが、目が眩むほどに美しい。
いつの間にか、レッスン室入り口のドアが開いていた。
綾人とシュウが言葉を失って立ち尽くしている。こんな時間に姿の見えなかった俺たちを、探しに来たのかもしれない。
そんな彼らは、沈黙の彫刻が命を燃やして叫ぶ瞬間を、ただ圧倒されて見つめていた。
――ジャンッ。
曲が終わると、スバルは膝から崩れ落ちた。
肩で激しく息をしながら、彼は鏡の中の自分を見ていた。汗と涙でぐしゃぐしゃの顔。鼻水まで垂れている。アイドルとは思えないほど、酷い顔だ。
けれど、スバルは笑った。初めて見せる、年相応の泣き笑いだ。
「なんか、あいつと踊ってたときみたいだ」
スバルが呟いた。その声は弾み、温かい。
俺は黙ってタオルを投げた。スバルはそれを受け取り、乱暴に顔をふく。
その姿に、綾人がニヤリと笑った。
「人間らしくなったじゃねえか、ポンコツ」
フフッとスバルが笑う。
そんな中、俺は鏡の前で自分の顔をチェックしているシュウに視線を向けた。
元トップモデルの美しい顔に、暗い影が落ちた気がした。




