1 終わらない残業と、終わりのないステージ
ワイパーが悲鳴を上げていた。ザザッ、ザザッ。黒いフロントガラスを叩きつける激しい雨音が、頭の中で反響する上司の怒鳴り声と重なる。
「田中ァ、これも終わってねえのか! やる気あんのか!」
深夜二時。
国道を走る俺、田中洸希の意識は限界を超えていた。
三十代半ば、ブラック企業勤続十年目。今月の残業時間は過労死ラインをとうに超えている。重たい瞼が、鉛のように下がってくる。
(帰ったら……泥のように眠りたい……)
ハンドルを握る感覚がない。意識がフッと途切れた、その瞬間だった。
――カッ!!
視界が真っ白に染まる。対向車線のトラックのハイビームだ。ブレーキを踏む足が動かない。鼓膜を突き破るようなクラクション。そして――。
――ドンッ!!!!
衝撃。
回転する世界。
ああ、俺、ここで死ぬのか。
明日のプレゼン資料、まだ途中だったな……。
途中……。
だ……。
「――番、西園寺ルキ! おい、聞いてんのか!」
(え……?)
怒声で目が覚めた。
病院のベッド……ではない。
俺の網膜を焼いたのは、トラックのヘッドライトではなかったのだ。
無数のスポットライト。
足元から伝わる重低音の振動。
そして、目の前に広がるのは――ギラギラした瞳でこちらを見据える四人の男たち。
「……は?」
意味わからん。
俺は呆然と立ち尽くしていた。さっきまで俺は、よれたスーツを着てボロボロの軽自動車に乗っていたはずだ。
だが今、視界の端にあるモニターに映っているのは、銀髪にブルーのメッシュを入れた、陶器のように白い肌を持つ超絶美少年だった。
(誰だこれ……いや、俺か!?)
状況が飲み込めない。だが、目の前の男たちは待ってくれなかった。
「おい、ふざけてんのか?」
ドクロのついた指輪を鳴らし、机をバンと叩いたのは、強面の男。ラップトレーナー KENZI……と、男の目の前に書かれている。サングラスの奥の目が、獲物を狙う獣のように鋭い。
「曲が始まってから三十秒、棒立ち。やる気がないなら帰れよ、西園寺」
冷ややかな視線を送ってくるのは、ダンストレーナー白鳥レンと書かれた男。その美貌は氷のように冷たく、俺の心を一瞬で凍らせた。
「期待外れだね。残念だよ」
深くため息をついたのは、ボーカルトレーナーの勝又拓斗。優しげな風貌だが、その言葉はナイフより鋭い。
そして、中央に座る男。肩書は、音楽プロデューサーと書いてある。
この番組の全てを握っているのであろう黒沢大翔は、何も言わずにただ冷徹な瞳で俺を観察している。
(やばい)
ここで、俺の社畜脳が高速回転を始めた。
死んだ。
転生した……のだろう、たぶん。
深夜、帰宅したときにやっていたテレビアニメでそんな話を見たことがある。
それはいいのだが、問題は、今の状況だ。
俺は今、絶体絶命。プレゼン失敗目前である。
怒鳴られる感覚。失望される空気。
これは俺が五年間、毎日味わってきた地獄と同じだ。
体が勝手に動いた。
思考よりも早く、俺の脊髄に刻み込まれた社畜の生存本能が炸裂する。
「っ……!!」
俺はマイクを投げ捨てんばかりの勢いで、ステージの床に額をこすりつけた。
膝を揃え、背筋を伸ばし、角度は完璧な四十五度から、流れるような動作で最敬礼の九十度へ。
そして、地べたへ。
美少年・西園寺ルキの身体が、サラリーマン田中洸希の魂によって、至高のジャンピング土下座を繰り出したのだ。
「大変申し訳ございませんでしたァァッ!!!!」
会場の空気がピタリと止まる。
キラキラしたアイドルの卵が、ステージ上で見たこともないほど美しいフォームで土下座をしているのだ。
トレーナーたちの、息を呑む音が聞こえる。
「わっ、わたくしの不徳の致すところです! 準備不足、認識の甘さ、全て私の責任です! 貴重なお時間を無駄にしてしまい、誠に! 誠に申し訳ございません!!」
マイクを通さずとも、会場の隅々まで響き渡る謝罪。クレーム対応の成果である。
ラップのKENZIが口をポカンと開けた。
ダンスの白鳥レンが、わずかに目を見開いている。
「……ふっ」
沈黙を破ったのは、中央の黒沢プロデューサーだった。
彼は口元をわずかに歪め、マイクを取る。
「謝罪は分かった。……で? 何も見せないまま終わるつもりか?」
(助かった……のか!?)
いや、まだだ。
これは「始末書は受け取ってやるから、代案を出せ」という上司の命令。
俺はガバッと顔を上げる。
「やらせていただきます!!」
俺は立ち上がった。
だが、致命的な問題もある。
いかんせん、俺はただの社畜なのだ。
歌もダンスも、何ひとつ知らない。
タラララ~。
音楽が再び流れ始める。重厚なビート。
どうする? どうすればいい? ええい、やるしかねえ!
「あ~、あ~……あ、あー……」
俺の口から出たのは、歌ですらない。
音程という概念が存在しない、ただの読経のような何か。
じゃあ、体は? 踊らなければ。
俺は必死に手足を動かした。
だが出力されたのは、毎朝公園で見かけるおじいちゃんのようなラジオ体操の動きだった。
銀髪の美少年が、真顔で、読経しながらラジオ体操をしている。
会場がざわつきを通り越して、恐怖に包まれ始めた。
失笑すら起きない。ただただ、狂気がそこにあった。
(終わった、今度こそ本当に死んだ)
曲が終わる。
静寂。
そして、先生たちの講評タイムが始まった。
「……お前、俺たちをバカにしてんの?」
KENZIが低い声で唸る。
「リズム感ゼロ。音程ゼロ。ダンスに至っては……あれはダンスじゃない。不審者の動きだ」
白鳥レンの言葉が胸に刺さる。
ごもっともすぎて反論もない。
「歌に関しては、……ノーコメントで」
勝又拓斗が額を押さえて顔を背けた。逆にもう、採点せざるを得ない先生たちが申し訳なさすぎる。
全員一致で最低評価。
当然だ。俺はただのサラリーマンなのだから。
俺は再び、深く頭を下げた。
これでお別れだ。
さようなら、二度目の人生。
「――だが」
黒沢プロデューサーの声が響く。
「今のパフォーマンスは、ゴミ以下。Fクラスどころか、即刻退場レベルだ」
はい。その通りです。
「しかし、冒頭の謝罪。あれには魂があった」
「……はい?」
俺は思わず顔を上げた。
「あそこまでプライドを捨てて、地べたを這いつくばれるアイドルは今まで見たことがない。その必死さだけは、他の誰よりも強烈だった」
黒沢はニヤリと笑う。トレーナーたちと顔を見合わせ、うんうん頷いた。
「西園寺ルキ、Fクラス残留!」
マイク越しに、黒沢の声が響く。
「へ……?」
「勘違いするなよ。首の皮一枚だ。次はねえぞ」
KENZIがフンッと鼻を鳴らした。
白鳥レンは興味深そうに俺を見つめ、勝又拓斗は苦笑いをしている。
(残、留……?)
スポットライトが俺を照らす。
番組スタッフ陣から、わずかな拍手が巻き起こった。
理解が追い付かず、ポカンとカメラを見つめた。
俺、田中洸希こと西園寺ルキは、こうしてアイドルオーディションという戦場に放り込まれてしまった。
社畜根性と土下座スキルだけを武器にして。
(明日から、どうすんだこれ)
眩しすぎるライトの中で、俺は遠い目で天井を見上げた。




