④夜に迎えられて
葉に落ちる雫の音さえ拾ってしまいそうな、静かな時間が流れていた。
Seventh Night の店内には、橙色の灯りがいくつも小さな島のように点在し、影と光が寄り添い合っている。
カモメはカウンター上の帳簿を閉じ、指先に残った蜜蝋の感触を拭い取った。
キャンドルの芯を少しだけ短く切り、ライトの角度を整え、ティーポットを温める――ひとつずつ、夜を迎えるための支度を整える。
すべてを終えると、カモメはカウンター奥の丸椅子に腰を下ろした。
天井から吊られたペンダントライトの灯りが、黒髪の先端に淡い縁を作る。
カモメは、温められたティーカップを両手に包んだ。ブレンドしたハーブの香りが喉を通り、心拍とやさしく溶け合う。
立ち上る湯気がまつ毛に触れ、薄いヴェールが降りるようなぬくもりと、かすかな重たさがまぶたのあたりに落ちてきた。
それは眠気ではない。夜と馴染んでゆくための、小さな儀式のようなものだった。
彼女は眠らない。
長く眠ることはできない。
夜を迎える前のこの一杯は、カモメが落ちすぎずに夜の深さへ留まるための手綱でもあった。
ティーカップを置いたときだった。
澄んだ鈴の音がひとつ、店内に流れ込む。
カモメはまぶたをゆっくりと上げた。
扉の向こうから、冷えた空気がすっと流れ込み、店内の橙色の光に触れてゆらめいた。
その境目をくぐるようにして、ひとりの女性が足を踏み入れる。
胸に手を添えるように、慎重に呼吸を整えている。まるで、長い夢から醒めた直後のような足取りだった。
(……あぁ、この人も)
初めて見る顔のはずなのに、まとっている気配のどこかに触れたことのある"揺らぎ”が宿っている。
カモメは背筋をすっと整え、微笑んだ。
「こんばんは」
女性――結衣も小さく会釈を返した。
けれど、その表情にはまだ戸惑いが残り、状況を掴みきれずにいるようにも見えた。
「どうぞ、お好きな席に」
カモメが促すと、結衣はカウンターの端の椅子に静かに腰を下ろした。
視線は店内をゆっくりと巡り、やがてカモメの方へ戻ってくる。
「……ここ、今日見かけた看板で……気になってしまって」
「えぇ。よくいらっしゃいました」
カモメは、湯気の立つティーポットに手をかざしながら、結衣の呼吸の乱れや胸の奥に潜む小さな"揺らぎ"を感じ取ろうとしていた。
夢の影響は、たいてい身体のどこかに滲む。
「少し、お疲れのようですね」
結衣は驚いたように目を瞬いた。
「……わかりますか?」
「はい。ここに来る方は、みんな少しだけ、どこか同じ空気をまとっていらっしゃるんです」
カモメは、押しつけがましくならないように、控えめな笑みを浮かべた。
人と話すときに自然とそうなる――そんな癖のような、やわらかな微笑みだった。
「ハーブティーはお好きですか? 香りがやさしいものを、今日はおすすめしたくて」
カモメは、棚から小さな瓶を引き寄せると、結衣の様子をうかがいながら声を掛けた。
「あ、はい。詳しくはないんですけど、好きです。やさしい香りって、いいですね」
「今日は、“薄明”というブレンドをおすすめしたいです。わたしのオリジナルなんですけどね。ホワイトティーを中心に、レモンバーベナとリンデンを合わせています。気持ちがゆっくり朝に向かうように。カモミールで夜の気配をひと粒だけ残しました。きっと落ち着けると思います」
結衣は、胸の前で指を合わせながら、聞き慣れない言葉を頭の中で反芻しながら答えた。
「……薄明、ですか。なんだか、いまの自分にちょうどよさそうです。じゃあ、それをお願いします」
「はい。少しお待ちくださいね」
カモメは棚からいくつかの瓶を選び、淡い葉をそっとすくってはポットに落としていく。
結衣は、カモメがハーブティーを調えていくその手慣れた所作を、ぼんやりと眺めていた。
ティーポットを傾けると、ハーブティーが器に落ちるたび、小さな泡が弾けるような音がした。そのかすかな音の連なりに、結衣の心はすっかり寛いだ。
カモメは丁寧にカップを差し出すと、顔を上げて結衣を見つめた。
「お待たせしました。どうぞ」
「ありがとうございます。あ……すごくいい香り」
結衣は両手でカップを受け取り、小さく息を吸った。立ち上る香りに包まれると、気持ちと一緒に肩の力も抜けていく。
カモメは、穏やかな声で続けた。
「最近、ちゃんと眠れていますか?」
カモメの問いかけに、結衣はカップの縁を見つめたまま、ゆっくりと首を振った。
「いえ、実はずっと寝つきが悪くて。夜中に目が覚めることが多いんです。今日は特に眠れそうになくて」
「そうなんですか。眠れない理由に、何か心当たりはありますか?」
結衣は少し迷ってから、言葉を探すように口を開いた。
「……えぇ、妊娠してからなんです。嬉しいはずなのに、不安のほうが先に立つ日もあって」
カモメは静かに頷いた。
「身体も心も、大きく揺れる時期ですからね。眠りにも、その揺れが映ることがよくあるんです」
「……そう、なんでしょうか」
結衣は視線を落とした。カップの表面に浮かぶ湯気が、かすかに揺れる。
「でも、夢のことは……何か、少し違う気がして」
「“違う”?」
「ただのストレスとか、そういうのじゃない気がするんです。何か、思い出させようとしてくる感じで」
結衣の声がほんの少し震えた。
「最近、同じ夢をよく見るんです。幼い頃に遊んでいた女の子の夢を」
カモメは結衣の言葉に静かに耳を傾ける。
「その子が、公園に立っているんです。じっとこっちを見ていて、わたしに何か訴えるように口を動かしているんですけど、ぜんぜん声が聴こえなくて」
結衣はハーブティーを口に含んで、一呼吸を置く。
「最初にその夢を見たとき、“あ、この子に会ったことがある”って、不意に思い出したんです。夢の公園も、私が小さい頃によく遊んでいた場所で……それを思い出した瞬間、胸がざわってして」
カモメは急かさずに聞き続ける。
「夕方になって、友だちがみんな帰ってしまって……私だけ残っていると、その子が、どこからかやって来るんです」
カモメは頷いた。
結衣は息を飲み込むように口を閉じた。
「だから……夢と、その子の記憶が重なったとき、無視できないと思ったんです。ただの夢とは、どうしても思えなくて」
静けさがふたりの間に落ちる。
カモメはその沈黙を乱さず、少しだけ息を吸ってから、落ち着いた声で言った。
「夢は、ときどき、忘れていた場所をそっと指さすことがあります。大事なものほど、静かに」
結衣はその言葉に引かれたように、カモメの横顔を見つめた。
「それって、なにか意味があるんでしょうか」
カモメは、少しだけ声を落として答えた。
「えぇ。でも、その“意味”が夢の内にあるのか、夢の外から触れてきているのか、鶏と卵みたいに、最初の境はいつも霞んでしまうんです」
カモメはゆっくりとティーポットを手元に引き寄せ、少しだけ視線を落とした。
言葉を急がない。その沈黙は、結衣を促すためではなく、“話してくれてありがとう”と伝えるための静かな間だった。カモメは続けて答える。
「無視できない、と感じたのは、心のどこかが"このままじゃいけない"って、教えてくれているんだと思います」
結衣はカップを少し抱き寄せ、指先に伝わるあたたかさに意識を落とすようにして息を吸った。
「……そう、なのかもしれません」
結衣が雲を掴むような心地でそう言うと、カモメはゆっくりと頷いた。
その仕草には、結衣の言葉を受け止める姿勢と、まだ言葉にならない部分まで拾おうとする気遣いが隠れていた。
「夢が知らせるものって、ひとりひとり違うんです。だけど、どれも嘘はつかないんですよ」
結衣は瞬きをした。カップを持つ指がわずかに強張る。
「嘘をつかない?」
「えぇ。夢は怖がらせるために現れるわけじゃありません。むしろ、あなたが気付くまで、ずっとそばで待っていたりもします。届かない声でも、ちゃんと呼んでいるんです、ね」
カモメはやわらかく言葉を置き、結衣の表情を見遣った。その瞳には、わずかな迷いと期待が揺れていた。
結衣は、ためらいながらも小さくうなずいた。
「……でも、もし本当に“何か”があるなら、どうすれば」
「まずは、知るところからでいいと思いますよ」
カモメの言い方は押しつけがない、けれど道だけは示すように。
「あなたがその夢を見続けるのは、きっと理由があります。夢は、あなたの中の“どこか”とつながっているから」
カモメの声は、静かな夜の底をすべるように落ち着いていた。その奥には、人肌のあたたかさが込められている。
それに触れた瞬間、結衣の胸の奥で渦を巻いていた何かがゆっくりほどけ、その中心に小さな光が灯るような気がした。
「……知りたいです」
声は小さかったが、そこにははっきりとした意志が滲んでいた。
「何がそうさせているのか不安だけど、このまま目をそらすのも違う気がして」
結衣の言葉を聞き届けると、カモメはその意志の気配を確かめるように頷いた。
「――もし、あなたが本当に“知りたい”と思うなら」
そこで、いったん言葉を切り、結衣の目をまっすぐに見た。
それは決して強引ではなく、迷ったときにそっと差し出される手のような、やさしげなまなざしだった。
「あなたの夢を、私に見せてくれませんか?」
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