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Seventh Night -夜と眠りの調律店-  作者: 羊三月
第一夜 顔のない少女
5/6

④夜に迎えられて

 葉に落ちる雫の音さえ拾ってしまいそうな、静かな時間が流れていた。


 Seventh Night の店内には、(だいだい)色の灯りがいくつも小さな島のように点在し、影と光が寄り添い合っている。


 カモメはカウンター上の帳簿を閉じ、指先に残った蜜蝋(みつろう)の感触を拭い取った。

 キャンドルの芯を少しだけ短く切り、ライトの角度を整え、ティーポットを温める――ひとつずつ、夜を迎えるための支度を整える。


 すべてを終えると、カモメはカウンター奥の丸椅子に腰を下ろした。

 天井から吊られたペンダントライトの灯りが、黒髪の先端に淡い(ふち)を作る。


 カモメは、温められたティーカップを両手に包んだ。ブレンドしたハーブの香りが喉を通り、心拍とやさしく溶け合う。

 立ち上る湯気がまつ毛に触れ、薄いヴェールが降りるようなぬくもりと、かすかな重たさがまぶたのあたりに落ちてきた。


 それは眠気ではない。夜と馴染んでゆくための、小さな儀式のようなものだった。


 彼女は眠らない。

 長く眠ることはできない。

 夜を迎える前のこの一杯は、カモメが落ちすぎずに夜の深さへ留まるための手綱でもあった。

 

 ティーカップを置いたときだった。

 澄んだ鈴の音がひとつ、店内に流れ込む。

 カモメはまぶたをゆっくりと上げた。


 扉の向こうから、冷えた空気がすっと流れ込み、店内の(だいだい)色の光に触れてゆらめいた。

 その境目をくぐるようにして、ひとりの女性が足を踏み入れる。

 胸に手を添えるように、慎重に呼吸を整えている。まるで、長い夢から()めた直後のような足取りだった。


(……あぁ、この人も)


 初めて見る顔のはずなのに、まとっている気配のどこかに触れたことのある"揺らぎ”が宿っている。

 カモメは背筋をすっと整え、微笑んだ。


「こんばんは」


 女性――結衣も小さく会釈を返した。

 けれど、その表情にはまだ戸惑いが残り、状況を(つか)みきれずにいるようにも見えた。


「どうぞ、お好きな席に」


 カモメが促すと、結衣はカウンターの端の椅子に静かに腰を下ろした。

 視線は店内をゆっくりと巡り、やがてカモメの方へ戻ってくる。


「……ここ、今日見かけた看板で……気になってしまって」

「えぇ。よくいらっしゃいました」


 カモメは、湯気の立つティーポットに手をかざしながら、結衣の呼吸の乱れや胸の奥に潜む小さな"揺らぎ"を感じ取ろうとしていた。

 夢の影響は、たいてい身体のどこかに(にじ)む。


「少し、お疲れのようですね」


 結衣は驚いたように目を瞬いた。


「……わかりますか?」

「はい。ここに来る方は、みんな少しだけ、どこか同じ空気をまとっていらっしゃるんです」


 カモメは、押しつけがましくならないように、控えめな笑みを浮かべた。

 人と話すときに自然とそうなる――そんな癖のような、やわらかな微笑みだった。


「ハーブティーはお好きですか? 香りがやさしいものを、今日はおすすめしたくて」


 カモメは、棚から小さな瓶を引き寄せると、結衣の様子をうかがいながら声を掛けた。


「あ、はい。詳しくはないんですけど、好きです。やさしい香りって、いいですね」

「今日は、“薄明はくめい”というブレンドをおすすめしたいです。わたしのオリジナルなんですけどね。ホワイトティーを中心に、レモンバーベナとリンデンを合わせています。気持ちがゆっくり朝に向かうように。カモミールで夜の気配をひと粒だけ残しました。きっと落ち着けると思います」


 結衣は、胸の前で指を合わせながら、聞き慣れない言葉を頭の中で反芻しながら答えた。


「……薄明、ですか。なんだか、いまの自分にちょうどよさそうです。じゃあ、それをお願いします」

「はい。少しお待ちくださいね」


 カモメは棚からいくつかの瓶を選び、淡い葉をそっとすくってはポットに落としていく。

 結衣は、カモメがハーブティーを調(ととの)えていくその手慣れた所作を、ぼんやりと眺めていた。

 ティーポットを傾けると、ハーブティーが器に落ちるたび、小さな泡が弾けるような音がした。そのかすかな音の連なりに、結衣の心はすっかり(くつろ)いだ。

 カモメは丁寧にカップを差し出すと、顔を上げて結衣を見つめた。


「お待たせしました。どうぞ」

「ありがとうございます。あ……すごくいい香り」


 結衣は両手でカップを受け取り、小さく息を吸った。立ち上る香りに包まれると、気持ちと一緒に肩の力も抜けていく。

 カモメは、穏やかな声で続けた。


「最近、ちゃんと眠れていますか?」


 カモメの問いかけに、結衣はカップの縁を見つめたまま、ゆっくりと首を振った。


「いえ、実はずっと寝つきが悪くて。夜中に目が覚めることが多いんです。今日は特に眠れそうになくて」

「そうなんですか。眠れない理由に、何か心当たりはありますか?」


 結衣は少し迷ってから、言葉を探すように口を開いた。


「……えぇ、妊娠してからなんです。嬉しいはずなのに、不安のほうが先に立つ日もあって」


 カモメは静かに頷いた。


「身体も心も、大きく揺れる時期ですからね。眠りにも、その揺れが映ることがよくあるんです」

「……そう、なんでしょうか」


 結衣は視線を落とした。カップの表面に浮かぶ湯気が、かすかに揺れる。


「でも、夢のことは……何か、少し違う気がして」

「“違う”?」

「ただのストレスとか、そういうのじゃない気がするんです。何か、思い出させようとしてくる感じで」


 結衣の声がほんの少し震えた。


「最近、同じ夢をよく見るんです。幼い頃に遊んでいた女の子の夢を」


 カモメは結衣の言葉に静かに耳を傾ける。


「その子が、公園に立っているんです。じっとこっちを見ていて、わたしに何か訴えるように口を動かしているんですけど、ぜんぜん声が聴こえなくて」


 結衣はハーブティーを口に含んで、一呼吸を置く。


「最初にその夢を見たとき、“あ、この子に会ったことがある”って、不意に思い出したんです。夢の公園も、私が小さい頃によく遊んでいた場所で……それを思い出した瞬間、胸がざわってして」


カモメは急かさずに聞き続ける。


「夕方になって、友だちがみんな帰ってしまって……私だけ残っていると、その子が、どこからかやって来るんです」


 カモメは(うなず)いた。

 結衣は息を飲み込むように口を閉じた。


「だから……夢と、その子の記憶が重なったとき、無視できないと思ったんです。ただの夢とは、どうしても思えなくて」


 静けさがふたりの間に落ちる。

 カモメはその沈黙を乱さず、少しだけ息を吸ってから、落ち着いた声で言った。


「夢は、ときどき、忘れていた場所をそっと指さすことがあります。大事なものほど、静かに」


 結衣はその言葉に引かれたように、カモメの横顔を見つめた。


「それって、なにか意味があるんでしょうか」


 カモメは、少しだけ声を落として答えた。


「えぇ。でも、その“意味”が夢の内にあるのか、夢の外から触れてきているのか、鶏と卵みたいに、最初の境はいつも(かす)んでしまうんです」


 カモメはゆっくりとティーポットを手元に引き寄せ、少しだけ視線を落とした。

 言葉を急がない。その沈黙は、結衣を促すためではなく、“話してくれてありがとう”と伝えるための静かな間だった。カモメは続けて答える。


「無視できない、と感じたのは、心のどこかが"このままじゃいけない"って、教えてくれているんだと思います」


 結衣はカップを少し抱き寄せ、指先に伝わるあたたかさに意識を落とすようにして息を吸った。


「……そう、なのかもしれません」


 結衣が雲を(つか)むような心地でそう言うと、カモメはゆっくりと頷いた。

 その仕草には、結衣の言葉を受け止める姿勢と、まだ言葉にならない部分まで拾おうとする気遣いが隠れていた。


「夢が知らせるものって、ひとりひとり違うんです。だけど、どれも嘘はつかないんですよ」


 結衣は(まばた)きをした。カップを持つ指がわずかに強張(こわば)る。


「嘘をつかない?」

「えぇ。夢は怖がらせるために現れるわけじゃありません。むしろ、あなたが気付くまで、ずっとそばで待っていたりもします。届かない声でも、ちゃんと呼んでいるんです、ね」


 カモメはやわらかく言葉を置き、結衣の表情を見遣()った。その瞳には、わずかな迷いと期待が揺れていた。

 結衣は、ためらいながらも小さくうなずいた。


「……でも、もし本当に“何か”があるなら、どうすれば」

「まずは、知るところからでいいと思いますよ」

 

カモメの言い方は押しつけがない、けれど道だけは示すように。


「あなたがその夢を見続けるのは、きっと理由があります。夢は、あなたの中の“どこか”とつながっているから」


 カモメの声は、静かな夜の底をすべるように落ち着いていた。その奥には、人肌のあたたかさが込められている。

 それに触れた瞬間、結衣の胸の奥で渦を巻いていた何かがゆっくりほどけ、その中心に小さな光が灯るような気がした。


「……知りたいです」

 声は小さかったが、そこにははっきりとした意志が滲んでいた。

「何がそうさせているのか不安だけど、このまま目をそらすのも違う気がして」


 結衣の言葉を聞き届けると、カモメはその意志の気配を確かめるように頷いた。


「――もし、あなたが本当に“知りたい”と思うなら」


 そこで、いったん言葉を切り、結衣の目をまっすぐに見た。

 それは決して強引ではなく、迷ったときにそっと差し出される手のような、やさしげなまなざしだった。


「あなたの夢を、私に見せてくれませんか?」

立ち寄っていただき、ありがとうございます。

少しでも何かを感じていただけたら、評価を押していただけると嬉しいです。

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