③夜の扉の向こう
その夜、結衣はなかなか寝つけなかった。
天井の模様をぼんやりと見つめながら、昼間に見た看板の文字を何度も思い返していた。
――『Seventh Night ― 夜と眠りの調律店 ―』
夢の中で見たあの公園と同じくらい、現実感の薄い言葉。それなのに、どうしても忘れられない。
あのとき頭の奥を走った衝撃が、いまも静かに響き続けている。
気づけば、手のひらを強く握りしめていた。指先は冷たく、少し汗ばんでいる。
お腹の子のことを思い出し、結衣はゆっくりと呼吸を整えた。時計は夜の半ばを指している。隣では亮介が静かな寝息を立てていた。
(少しだけ……外の空気を吸ってこよう)
そう自分に言い聞かせるように、結衣は小さく息を吐き、そっと布団から身を引き抜いた。
部屋を出ると、廊下の空気がひんやりとしていた。窓の外では、街灯の光がほのかに瞬き、風が木々をゆっくりと揺らしていた。
眠れない夜に外へ出るのは初めてではない。けれど今夜は、胸のどこかに小さなざわめきがあった。
心の奥底で、何かの呼び声の残響が鳴り続けている。その響きが胸を叩くたびに――謂れのない焦燥が、じわりと結衣の内側で膨らんでいく。
結衣はコートを羽織り、バッグを手に玄関へ向かった。ドアを開けると、夜気が室内に流れ込んでくる。
冷たい風が、意識の境界をくっきりと浮かび上がらせる。糸に引かれるように、その先にあるかどうかもわからない灯りを求めて、結衣は夜の街へ歩き出した。
外には、まだ人や車の気配があった。家の中の静けさとは対照的に、街はまだ眠りきっていない。
その空気の中に足を踏み入れると、結衣は自分のいた世界とのわずかなズレを感じた。
閉じていた扉がひとつ開いたような、そんな軽やかさが胸に生まれる。
アスファルトは、昼とはまるで違う表情をしていた。
街灯が金色の輪をいくつも落とし、風に運ばれた落葉や砂粒がその上をただよう。伸び縮みする影が、静かに夜の底を流れていく。
昼の喧騒とは違い、夜には夜の息遣いがあった。声をひそめた街の隙間で、人も灯りも互いの存在を確かめ合っている。
結衣はその中へ自然と紛れ込むように、商店街の方へ向かって歩いた。
結衣は歩きながら、ふいに亮介との会話を思い出していた。
『また……見たの? 例の夢』
夕食後、食器を片づけながら亮介が言った。結衣は背中越しに曖昧な相槌を返した。
『あんまり寝られてないだろ。大丈夫か?』
「平気。……たぶん」
結衣は答えたものの、自分でも確信は持てなかった。その時、亮介は腕を組みながら、少し考えるような顔をした。
『妊娠中は、眠りが浅くなったり夢を見やすくなるっていうし……ストレスもあるんじゃないかな。無理しないでよ』
「うん。ありがとう」
本当は、もっと説明したかった。
夢の少女の姿。
聞こえない声。
沈黙の公園。
けれど、不安を亮介に移してしまう気がして、結衣は言葉にできなかった。
ふと顔を上げると、アーケードの向こうに居酒屋や食堂の灯りがちらほらと輝いていた。
人通りは少ないが、どこかに人のささやきが残っていた。静けさの中で、街の一隅からゆるやかな温もりが滲み出し、それが夜の空気をやわらかく揺らしている。
昼間に見たあの看板の存在が、脳裏から離れなかった。
夜と眠りの調律――その言葉が、意識のどこかに結び目をつくったまま、いまだほどけず残っている。
気がつけば、足は自然とあの路地の方へ向かっていた。通りの角を曲がると、人通りはさらに少なく、足音だけが一定のリズムで響いた。
路地の入り口は、灯りがなく目立たない。けれど結衣には、そこが現実の裏側へ続く小さな穴のように見えた。
足を踏み入れると、風が止まり、空気がゆっくりとまとわりつく。
奥には、ぼんやりとした灯りがひとつ揺れている。街灯ではない。誰かの営みを知らせるような、ぬくもりのある光。
細い道を進むにつれ、足音が壁に反響し、外の喧騒が少しずつ遠ざかっていった。やがて、行き止まりのように見える場所で、木製の立て看板が目に入る。
――『Seventh Night ― 夜と眠りの調律店 ―』。
昼間に見たあの文字が、今は淡い灯りにゆらゆらと照らし出されている。看板の奥には、レンガ造りの建物がひっそりと佇んでいた。
ドアの隙間からかすかな橙色の光がこぼれている。誰かがいる気配が、たしかにそこにある。
結衣は、胸の奥が静かに脈打つのを感じた。そして、息を整えるように一度だけ深呼吸をして、扉の方へ歩き出した。
扉の上のすりガラスの中央には、小さなフクロウの絵が描かれている。
丸い目の部分から、内側の光が透けて見え、ふっと瞬いたように見えた。
(……かわいい)
結衣の表情が、ほんの少しだけやわらいだ。
扉の取っ手に手を掛け、そっと力を込める。引き寄せた瞬間、澄んだガラス同士が触れ合うような鈴の音が鳴った。
その一音が静かな波紋となって身体の芯へ届いたとき、世界の境目がかすかに揺らいだ。
結衣は店内へ足を踏み入れた。
ふわりと、ハーブや木の樹皮、蜜蝋のようなやさしい甘い匂いが胸に満ちる。
そこは、あたたかな夜の街を小さな箱にそっと詰め込んだような空間だった。
群青の暗がりの中、天井から吊られた小さなペンダントライトが、夜の標のように灯る。
床に置かれたランプシェードが、木のフロアに淡い波間のような光を揺らしている。
壁には商品棚が設えられ、真鍮の小さなウォールライトが、棚を照らすためだけにやさしい光を落としている。
棚の上には、色とりどりのキャンドル、香り袋、ハーブティーのパッケージなどが整然と並んでいた。
店の大部分は影と静けさに包まれているのに、必要な場所だけにやわらかな灯りが配置されている。
作り手の細やかなこだわりが空間の隅々にまで及んでいた。
カウンターの向こうには、一人の女性がいた。
深い青の丸襟のワンピースを着た小柄な女性。肩までの黒髪は、ところどころ寝癖のようにふわりと跳ねている。
その目元は眠たげで、けれどどこか優しく、夜の静けさそのものをまとっているようだった。
「こんばんは」
女性は穏やかに微笑んだ。
その声は、あたたかな琥珀色の中で静かに融けてゆく飴細工のように、やわらかい。
結衣は、一瞬返す言葉を忘れて立ち尽くした。胸の奥では、扉の鈴の余韻がまだ静かに響いている。
――この夜のことを、きっと一生忘れない。
そんな確信だけが、なぜか結衣の胸の奥に灯っていた。
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