②路地裏の看板
昼下がりの陽射しはどこか白っぽく、街全体をやわらかく包み込んでいた。
霧島結衣は夫の亮介と並んで、古びたアーケード街を歩いていた。ここは日本で二番目に古い商店街として知られており、通りのあちこちにはモチーフであるフクロウの看板が掲げられている。
アーチ状の屋根を覆うすりガラス越しに、淡い光が路面へと落ちていた。その光はどこかくすんでいて、昼間にもかかわらず薄暗さを帯びている。けれど、そのわずかな陰りこそが、この街に積もった時間の剥片を、静かに浮かび上がらせていた。
亮介の転勤を機に、二人はこの街の近くへ引っ越してきた。結衣にとっては、まだ歩き慣れない通りだ。
古い菓子店、青果店、生活感のただようブティック――どの店も、長い時間の中で少しずつ色褪せながらも、変わらぬ佇まいでそこにあった。
風が通り抜けるたびに、金属の軋む音が小さく響き、まるで街そのものがゆっくりと呼吸しているようだった。
その音を聞きながら、結衣はふと自分の手のひらに意識を向ける。最近、指先が少しむくみやすい。医者に言われて以来、無理をしないようにしている。お腹の子の性別は、もうすぐわかる頃だという。
日常のささやかな幸福の中に、言葉にならない不安がときおり混じっていた。眠りが浅くなり、夢を見る夜が増えたのも、ここ数週間のことだった。
昨夜もまた、あの夢を見た。
声を失った少女。沈黙した公園。朝になっても、その映像が脳裏から離れなかった。
夢から覚めても、どこか現実の端が薄く揺らいでいる気がする。
日常の合間、ふとした瞬間に視線を感じることがある。
振り返っても、そこには誰もいない。それでも背中のどこかに、あの夢の少女の気配が――いつまでもうっすらと張りついているような気がして、結衣は無意識に肩をすくめた。
「寒い?」亮介が隣で言った。
「ううん、なんでもない」
そう答えながら、結衣は笑ってみせた。
亮介の手にはスーパーの袋。中からパセリの緑が少し覗いている。
「帰ったら、オムライスにしようか」
「いいね。……あ、でもケチャップ足りたっけ?」
「買ってあるよ。君が好きな甘めのやつ」
そんな何気ない会話を交わしているうちに、さっきまで背中にまとわりついていた気配が、ほんの少しだけ遠のいた気がした。
結衣はもう一度、無意識にお腹へと手を当てる。その仕草を見て、亮介がやわらかく目を細めた。
「来月には、性別わかるんだよな」
「うん」
短い返事のあと、結衣は小さく息をついた。商店街を抜ける風が、どこか冷たく感じた。
通りを少し外れたところで、二人の前に細い路地が口を開けていた。
古い家屋のあいだに挟まれたその道は、人ひとりがやっと通れるほどの幅しかない。そこはどこか懐かしさを帯びていた。胸の奥のやわらかな場所にある記憶がそっと呼び覚まされるような――遠い昔、夕暮れの帰り道で感じたあの心細さと温かさが同時に混ざった感覚を思い出させた。
実際には見知らぬ場所なのに、過去に何度か通ったことのあるような錯覚を覚えた。存在しなかったはずの過去に対する郷愁が、ふいに胸をかすめていく。
陽射しの届かない薄暗い道の一隅に、淡い光がひと筋だけ差し込んでいる。それはまるで、現実の裏側へと続く道筋のように見えた。
結衣は思わず足を止め、その光の先を見つめた。
「結衣?」と亮介が振り返る。
「うん……なんでもない。ただ、あそこ――」
視線の先、路地の途中に木製の立て看板があった。手書きの文字が、淡い光を受けてかすかに浮かび上がっている。
『Seventh Night ― 夜と眠りの調律店 ―』
その瞬間、頭の奥で一閃が起こった。言葉にならない衝動が、ほんの一瞬、結衣の足を動かしかける。
けれどすぐに、亮介の声がその思考を現実へ引き戻した。
「……行こうか、もうすぐ夕方になる」
「うん、そうだね」
結衣はもう一度、立て看板の方を振り返った。文字は光の加減で見えにくくなり、ただの影のように沈んでいる。
ふたりは再び並んで歩き出した。背後で風が通り抜け、木の看板が小さく鳴る。そのかすかな音を気に留めたのは、結衣だけだった。
――そのときはまだ、その名が彼女の運命を呼ぶ“はじまり”になるとは、思ってもいなかった。
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