プロローグ
わたしはカモメ。
地上を離れた声が、どこか遠くでそう名乗っていたように。
自由を夢見ながら、風に流れていく声のように。
夜空の上に響き渡っては、やがて落ちていく。
彼女たちの描いた軌道は私の生と重なり合い、その名を、いつのまにか、わたしも名乗るようになった。
眠りと目覚めのあいだを漂いながら、わたしは夜の海を渡っている。
眠りは、底のない海のようだった。
まぶたを閉じた瞬間、音も光も奪われ、どこまでも沈んでいく。
わたしにとって、眠りとは落下だった。
目を開けようとしても身体は動かず、呼吸の気配が遥か遠くで揺れている。
見えない誰かの視線が、全身を隙間なく覆い尽くす。
だから、わたしは眠ることを恐れた。
眠れない人は、夢の入口を見失った人。
眠るのが怖い人は、夢の底を知っている人。
わたしは、そんな人々のために夜を灯している。
「Seventh Night」――夜のための小さな店。
路地裏の奥、誰も気づかないような場所にある。
店内には、眠りを整えるものばかりが並んでいる。
アロマ、ハーブティー、キャンドル――わたしが選んだり作ったりするものは、誰かの夢と現のあいだに、そっと橋をかけるもの。
昼の光が苦手なわたしは、夜を生きている。
世界が静まり返るころ――眠れない人のために、店の明かりを灯し続ける。
眠れない理由は、人の数だけある。
誰かを失った人。
明日が怖い人。
忘れたい夢に縛られている人。
わたしは、そんな人たちの“夢の隙間”に入り、壊れた眠りをそっと修復する。
そして、誰かの眠りを治してあげることで、ようやくわたしは、わたし自身の眠りを過ごすことができる。
時計の針がゆっくりと午後九時を指す。
一日が終わる人と、これから始まる人が、ちょうどすれ違う時間。
わたしは静かに明かりを灯し、扉に小さく札をかけた。
金の文字が、月の光を受けて微かに光る。
「Open till dawn」
その夜もまた、ひとりの客がやってくる。




