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第八話 待っています

 オアシスを中心にした小さな国。それが、貴方と私の国。


 湖の水は、ひび割れた甕から滲み出すように、少しずつ、確かに減ってゆきました。

 その頃から、砂嵐も増えていきました。空は闇に閉ざされ、畑も水路も、家々も……人の営みそのものが砂に呑まれてゆくのです。


 貴方が戦野に旅立って、幾年が過ぎました。

 いまだ戦火は終わらず、西の大国も隣国も、互いの喉元を食いちぎるように疲弊しきっていると聞きます。


 そして、税はまた増えました。戦を維持するためなのでしょう。重税に苦しんだ他の小国が独立を試みましたが、すぐに蹂躙されました。塩を撒かれ、二度と作物の育たぬ地へと変えられたのです。


 本当に──戦は、命を削るだけのものなのですね。


 私はただ、貴方の帰りを信じて待ち続けています。


 波打ち際は、あの岩よりもさらに奥へと退きました。

 岩の周りには雑草が生い茂り、小さな虫たちが翅を休めています。かつては水に濡れて涼やかだった岩肌も、今では陽を受けて、触れれば火傷するほどに熱くなっています。


 ある日、水路を塞ぐように、積まれていた砂が崩れ落ちました。

 戦へ向かった息子に代わり、年老いた父が畑を守っていたのです。遠くへ運ぶ力など残っておらず、やむなく水辺に積んでいたのでしょう。

 ですが、川下の民には、水が届かねば作物も育ちません。暮らしも命も絶たれてしまいます。


 その二つの家が争っていると聞き、私は体調が優れぬ中を押して現場へ向かいました。

 止める声も届かぬほど、怒号が飛び交っていました。私は、両者の苦しみも、その正しさも知っています。

 だからこそ、誰かを責めることも、片方に肩入れすることもできませんでした。


 私がすべきこと──それは、ただ黙って、砂を除けること。


 砂鍬さくわを手に取り、透籠すかごを抱え、水路の砂を掻き出しては遠くへ運ぶ人へと渡します。

 黙々と、ただひたすらに。


 その日は、焼けつくような日差しでした。湿度は低くても、汗は止まりません。

 それでも、やめることなどできなかったのです。民の誰かが「やめましょう」と声をかけた、その直後だったと思います。


 世界が、かすみ、霞み、暗くなって──

 私は、崩れるようにその場に倒れました。


 もう、目を覚ますことはありませんでした。


 貴方が帰ってくるまで、この国を守り通すと、あれほど誓ったのに。

 貴方に、もう一度会うことも叶わずに──私は、逝きました。


 でも、それでも。私は貴方を待ち続けます。


 白い塔の上から、西の地平を眺めながら。

 夕日の向こうから、貴方が還るその日まで。


 私が命を終えたあと、民たちは少ない木を切り、船のかたちの棺をつくってくれました。

 この国では、死者を船に乗せて葬るのが習わしです。

 私は、貴方から贈られた青鷺の髪飾りを髪にさし、船に乗せられて、王家の墓所へと静かに送られました。


 けれど──

 魂はここに残りました。


 この国を、そして貴方を守ると約束したからです。

 私はまだ、貴方を待たねばなりません。


 魂となった私は、懸命に国を守ろうとしました。

 いくつかの砂嵐はなんとか鎮めることができましたが、やがてそれも叶わなくなりました。

 湖の水を増やすこともできず……私はただ、見つめることしかできない存在となっていきました。


 無力な自分が、悲しくてたまりません。


 オアシスの外れにある畑は、すでに水路すら見えぬほど砂に埋もれました。

 小麦も瓜も、棗椰子も、もはや僅かしか採れません。

 隊商も、もうこの地には訪れません。


 人もまた、去っていきます。

 豊かな土地へ、わずかな望みを胸に旅立つ人々。

 年老いた親を置いていく者もいます。それを望む親も、いました。


 私は何も責められません。

 生きるための選択を──誰が咎められましょうか。


 それでも、私は問うてしまうのです。

 どうして、こんなにも苦しまなければならなかったのかと。

 この国の人々が、いったい何をしたというのでしょうか、と。


 とうとう、湖の水が干上がりました。

 かつて澄んだ水を湛えていた湖は、今や泥沼のよう。

 魚も鳥も、獣も……人の骨すらも積み重なり、死がそこに満ちています。


 貴方がこれを見たら、どれほど嘆くでしょう。

 そう思うと、胸が裂けるようです。


 そして……最後の民が、逝きました。

 この国を深く愛した老人でした。

 私はその魂をそっと抱き、青鷺に託しました。

 ──天高く、風に乗って、空へと還るように。


 水が消え、人が消え、命が消え……

 やがて、音のない世界に、ただ砂だけが降り積もってゆきます。


 サラサラ……サラサラ……

 すべての夢の上に。すべての祈りの上に。

 それは容赦なく、無言の意志のように──降り注ぐのです。


 それでも。

 それでも、私は貴方を待っています。


 夕陽を見つめながら、待っています。


 いまはもう、傾いた塔の尖塔だけが、砂の海から顔を出しています。

 かつて美しく、豊かだった私たちの国は、すべて砂の下に沈みました。


 誰にも知られることなく、誰にも見つけられることなく──

 私と貴方の国は、深い深い、静かな眠りの中にあります。


 遥かな西へと、貴方は戦へ旅立ちました。

 「必ず帰る」と、そう約束してくれましたね。


 私は忘れてなどいません。


 だから、私は待っています。


 夕陽の向こうから、貴方が帰ってくるその日まで──

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