プロローグ
遥かな昔、タクラマカン砂漠に存在したオアシスの王国。
今は名も残っていません。
けれど、そこには聡明で勇敢な王と、優しく美しい王妃が確かにいました。
──これは、名もなき国と名もなき王妃の物語です。
小さなオアシスを中心に栄えた、愛しい我が国。貴方と私が愛したこの地。
小さなオアシスは枯れることなく水をたたえ、その水が作物を実らせている。
だから、小さくても貧しくなく、民は優しく穏やかな国でした。
砂漠の西には大きな国があって、いつも他の国と戦争をしています。
私たちの小さな国は、西の大国の下にありました。そうしなければ、滅ぼされる。仕方なく属国になりました。税さえ納めれば、あの大国は干渉せずにいた。それが唯一の救いでした。
貴方は民を愛しみ、民は貴方を愛していました。私はそんな貴方をとても愛しています。
ある時、西の大国と他の大国が存亡をかけた大戦をはじめます。
戦火は野火のように広がり燃えあがり、とうとう我が国にも出兵しろとの命が降りました。
貴方は「必ず帰る」と約束して、私に背を向けた。私は、貴方の帰りを夢に見る。
それから、塔の上で、ずっと西を見ています。夕陽の向こうから貴方が必ず帰ると約束したから。
砂漠が広がっていきます。畑や町が少しずつ砂に埋れます。
それでも、貴方を待っている。夕陽を見ながら待っている。
どうしたらいいのでしょう。オアシスの水が年々減っていきます。出来ることはもうありません。
ただ、貴方の影が戻ることを夢見ている。
とうとうオアシスの水が無くなりました。砂が町を覆っていきます。
それでも、貴方を待っている。夕陽を見ながら待っている。
最後の民が出ていきました。止めることはできません。貴方の愛した民と国を守ることが私の使命だったのに。
砂がすべてを覆っても、私はここにいる。
町もオアシスも砂に飲み込まれました。僅かに家や塔が砂からみえるくらいです。
それでも、夕陽を見上げている。貴方を信じるために。
遥かな西の大国に貴方は戦をしにいった。
必ず帰るとの約束を私は決して忘れない。
だから、貴方を待っている。夕陽を見ながら待っている。
夕陽の向こうから貴方が帰ってくるのを待っている。
『楼蘭の美女』と呼ばれる、世界で最も美しいとされるミイラをご存知でしょうか。
この物語は、彼女の姿に心を打たれ、かつて書き上げた短編を加筆修正したものです。
楼蘭の美女──それは、1980年、タクラマカン砂漠の東、楼蘭鉄板河遺跡で発掘されたミイラです。
炭素14による測定で、彼女はおよそ紀元前19世紀(約3,800年前)のものと判明しました。
白いフェルトの帽子に、青鷺の羽飾りを纏っていたという彼女。
きっと、誰かに深く愛されていたのだと思います。
名も残らぬ小さな国の王と妃──
彼女はいまも、夕陽の向こうから帰る人を待ち続けているのでしょうか。